9 GIRLFRIEND -citrus #1-
小学生の頃から、「もっと積極的にチャレンジしましょう」と通信簿によく書かれた。
でも、何も好きこのんで消極的なわけじゃない。
ただ、積極的といわれる人の十分の一も勇気がないだけだ。
昼休み、会社の先輩と同僚と一緒に近くのデリにお昼を買いに行った帰り、最近できたカフェの前を通った。
「ここ、美味しいって聞いたよ。今度来ようね」
先輩が言い、みんなで「いいですね」と話していた。
「あ、沢村くん」
先輩の一人がカフェの中を指差した。みんなの視線がその先に集まる。
「一緒にいる人、すごい可愛い。彼女かな?」
興味津々で覗く。こちらに背を向けている沢村さんはまったく気付いていないようだ。
「くそう。沢村もああいう可愛い系が好みか。所詮男って、可愛い子が好きなのよね」
まるで悟りを開いたかのような口調で先輩が言った。
「でも意外だね。沢村くんて、キレイ系が好きなのかと思ってた」
「キレイ系?」
「ほら、受付の伊東さんとか。仲いいじゃん、あの二人」
「同じ大学だったんだよね」
「でも、あれって、伊東さんの片想いなんでしょ?」
「マジ? そうなの?」
みんなそういう噂話は大好きだ。誰が誰を好きとか、誰と誰が付き合ってるとか。社会人になっても、そういう噂をしている時は学生時代のノリと何ら変わらない。
「ホワイトデーのお菓子を選んでるのはあの子ってことですよね」
同期の子が訊く。
「ああ、そうね。毎年言われた通りに買ってくるって言ってたから、彼女が選んでるんだろうね」
「じゃあ、彼女に感謝しないとですね。お陰で美味しいもの頂いてますから」
ねー、とみんなは顔を見合わせて頷いた。そして歩き出しながら、その話題を継ぐ。
「みどりちゃんは沢村くんにバレンタインあげた?」
「いえ…」
「あげた方がいいよ。ホワイトデーいいもの返ってくるから」
別に義理チョコなんて課でまとめてあげてるからいいんだけど、沢村くんにあげると美味しいお菓子が返ってくるからね、と先輩は説明した。
「今年は新しくできたパティスリーの塩ブッセだったよね」
去年のも美味しかったけど、今年のも美味しかったね、とみんなが頷く。
実は、私もバレンタインにチョコをあげて、ホワイトデーにお返しを貰っていた。
バレンタインチョコは義理のつもりはなくて、でも、勇気がなくて直接は渡せなかった。朝、沢村さんの机の上に置いておくのが精一杯だった。名前も書けなかった。名前のないチョコに困惑する沢村さんの顔を見ても、自分だと名乗り出ることはできなかった。
ホワイトデーのお返しは、思いがけない形で貰った。
その日、私と沢村さんだけが残業していて、仕事が片付いたらしい沢村さんが帰る前に私に声をかけた。
「佐久間さん、まだやってく?」
「あ、はい。もう少しやってきます」
そう、と沢村さんは紙袋の中からラッピングされた袋を取り出した。
「あげるよ」
「え?」
明らかに贈答用のラッピングに戸惑っていると沢村さんが言った。
「ホワイトデーのお返し」
ドキリとする。課のみんなであげた分は、既に男性陣の連名でお返しを貰っている。ということは、名乗っていないバレンタインのチョコの差出人が私だとわかったのだろうか。
「バレンタインに、一人、名無しでチョコくれた人がいて、名乗り出てくれたら今日お返し渡そうと思ってたんだけど、結局わからなくて」
あ、なんだ、わかったわけじゃないのね。と一安心する。
「このまま持って帰っても困るから、あげるよ。残業お腹空くでしょ」
にこりと微笑まれて、そのチョコは私ですと名乗ろうかとも思ったけど、やっぱりそんな勇気はなくて
「…ありがとうございます」
とお礼を言うのが精一杯だった。
でも、そうか。沢村さん、彼女いたのか。当たり前だよね。あんな人に彼女がいないわけがない。あんな仲良さそうに彼女とランチしているシーンなんて、目撃したくなかったな。
神様って意地悪だと思う。
恋愛がうまくいかないのは、私の勇気がないからとか、そういうことを言われても仕方がないとは思うけど、何もこんなやる気を削ぐような展開を用意しなくてもいいのに。
沢村さんへの私の気持ちを知っている同期の友達が、彼女と一緒にいるのを見て落ち込んでいる私を励まそうと水族館へ誘ってくれた。割引券を貰ったらしい。
その水族館で、またしても目撃したくないものに遭遇してしまった。
仲良さそうに肩を並べて歩く、沢村さんと彼女。
人込みの中でも沢村さんを見間違えるわけがない。間違いなく沢村さんだ。そして、隣にはこの間の彼女。一瞬、沢村さんがこっちを向いた気がした。けれど、次の瞬間沢村さんを探すどころではなくなった。
どしん、と小さな女の子が私に体当たりしたのだ。走ってきたらしく、私にぶつかって女の子はしりもちをついてしまった。
「大丈夫?」
慌てて声をかけると、泣きそうなのを堪えながら女の子は頷いた。小学校一年生くらいだろうか。
「えみる!」
後ろから男の人の声がして、大きな手が女の子を抱き起こす。
「だから言ったろ、走るなって」
女の子をたしなめて、それから私に視線を移す。
「すみませんでした」
私を見て、あ、と口が動いた。
「佐久間さん。…と、野田さん」
驚いたように私の名を呼び、一緒にいた友達の名も口にした。
「…沢村さん…」
私も思わずその名を口にする。
「ほら、えみる、ちゃんと謝って」
「ごめんなさい」
沢村さんに促されて女の子は素直に私にぺこりと頭を下げた。それから沢村さんを見上げて抱っこをせがむ。もう小学生だろ、と沢村さんが渋ると、だって足が痛いんだもんと女の子は食い下がった。結局、沢村さんがしょうがねーなーと抱き上げた。
「…お子さんですか?」
「いくつの時の子だよ?」
呆れたように訊き返された。確かに、女の子が小学生だとすると、沢村さんが高校生の時の子どもということになる。
「姪御さんとか?」
「まあ、そんなとこ」
「違うもん!」
女の子が大きな声で否定した。
「あたしは秀明のこんやくしゃよ!」
「…あのなー、えみる」
困ったように沢村さんが女の子を見遣る。女の子は沢村さんの首にしがみついて私を睨む。女の勘でライバルだとわかったのだろうか。
「えみる、大丈夫?」
後ろから女の人の声がした。例の彼女だ。
「へいき」
沢村さんに抱きついたまま女の子は答えた。「じゃ、降りろ」「イヤ」という会話を聞いて彼女が苦笑する。
「ちゃんと謝った?」
すみませんと私達に頭を下げ、謝ったと沢村さんから報告されると、それならいいけど、と女の子を見上げた。
「イルカショー、見るでしょ?」
こくん、と女の子が頷く。もうすぐ時間だからと彼女が腕時計を見て促した。
じゃあ、と私達に挨拶をして沢村さんが歩き出す。彼女が隣でぺこりと頭を下げた。
「えみる、今度勝手にどっか行ったらパパに言いつけるわよ」
「パパはえみるに甘いからゆるしてくれるもん」
そんな彼女と女の子の会話に
「お前ら仲直りしろよ」
と呆れたように言う沢村さんの後ろ姿を見送った。
「何か、ごめんね。私がこんなとこに誘ったばっかりに」
申し訳なさそうに謝る友達に首を横に振った。
「ううん。大丈夫。気にしないで」
せっかく私を元気付けようとしてくれた友達に、落ち込んでいるところなんて見せられない。
確かに、沢村さんが彼女と仲良さそうにしているところを見るのは辛いけど、それは誰も悪くない。
私が少しだけ勇気を出せたら、この辛さも和らぐのだろうか?
近くの売店から流れる有線で若い女性アーティストが歌う。
私、あなたの彼女ってキライ
あなたには新しい彼女が必要よ
私たちが付き合うべきだと思わない?
翌日、私は努めて何でもない風に振る舞い、その試みは成功したと思えた。いつもどおりの沢村さん。いつもどおり、仕事のことでしか話しかけられない私。
あの歌みたいに言えたらいいけど、そんな勇気は、私にあるわけなかった。
「沢村さん!」
他の課の女の子が沢村さんを訪ねてきた。今年新採で入った子だ。どうやら先輩のお遣いで来たらしい。彼女はきちんとお遣いの役目を果たすと、ところで、と沢村さんに話しかけた。
「沢村さんは、彼女とかいるんですか?」
彼女のあまりにストレートな若い質問にみんなの視線が集まる。そして沢村さんの答えに耳を澄ましたのは、私だけではないはずだ。
「…いない、けど」
その答えに、昨日一緒にいた友達と顔を見合わせる。
「ホントですか? よかった! じゃあ、彼女募集中ですよね。私、立候補します!」
今度は友達と一緒にその子を見てしまった。何て大胆な子だろう。みんなの前でこんなことを言うなんて。
「別に募集中じゃないけどね」
少し困ったように沢村さんが笑った。
「ありがとう。候補の一人に入れておくよ」
沢村さんはにこりと微笑んで「これ、お遣い頼まれてくれる?」と彼女に書類を渡した。お遣いを頼まれた彼女は戻らざるを得ず、ぺこりと頭を下げて戻って行った。
大人な沢村さんに軽くあしらわれた体だ。
「沢村さん」
小さな声で友達が呼んだ。向かいの席の沢村さんが何?と耳を近づける。友達が私の肩を叩いてせっついた。
「昨日の人は彼女じゃないんですか?」
思い切って訊いてみる。
「ああ、あいつは幼馴染」
あんな面倒な女、彼女にしたくない、と沢村さんが笑った。
本当に?
本当に彼女じゃないの?
それなら、まだ、可能性はあるということ?
沢村さんに抱きついて、婚約者だと私を睨んだあの子みたいに。
彼女に立候補すると手を挙げたあの子みたいに。
私が彼女になりたいと主張すれば、どうにかなるのだろうか?