47 Secret Code -bee #18-
急に年度半ばくらいまで飛びます
目を上げれば、顔が見えて。目が合えば、ひっそりと微笑み合って。
そういう距離に慣れてしまっていると、ほんの少しの距離を、遠く感じてしまうのは何故なんだろうか。慣れって、本当に怖い。あれが当たり前だと思っていたから、たったこれほどのことで動揺してしまう。
課内の異動で、担当が変わった。それは別に珍しいことではなく、いろんな方面に携わっていたほうが後々有利だから、とよく行われていることだ。年齢的に、私がそれに該当しても、何ら不思議はない。以前の広報部とのプロジェクトがうまく行ったことや、それを機に任された仕事で評価された上での異動でもあるのだ。
課内異動だから、同じフロアの同じオフィスだ。ただ、担当が変わったから島が変わっただけで。つまりは、席が変わっただけだ。
新しい席は、今までいたところから一つ島を挟んだ隣。席の向きは今までと同じ。今までは、桐島のほうを向いて座っていたけれど、今度は、桐島に背を向けている。
一つ島を挟んで互いに背を向けあっているから、仕事中に目が合うなんてことは、ほとんどなくなった。コピー機は同じものを利用しているし、課長も同じだから、もちろん顔を合わせることはあるけど。
それ以外に、何の変わりもない。はずだ。
夜には二人で会うし、休日にはデートをする。今までと、何も変わらない。
だから、今さら、桐島が指導係を務めているのが若くてかわいい女の子だなんてことを、気にする必要もない。私が桐島の指導係をしていたように、私が大塚さんの指導係であったように、桐島もただの指導係だ。
…けど、まあ、指導係とその後輩なら、一緒に仕事をしているわけだし、一緒にいる時間は長い。残業だって、一緒にすることが多い。それが二人きりなんてことも、よくあることだ。
クライアントとの打ち合わせを終えて戻ってきたオフィスに、桐島と、彼が指導係をしている後輩の園田さんだけが残っているという状況に、冷静に対応しようとドアの前で呼吸を整える。こんなことで調整が必要なほど、私の呼吸器官は繊細だっただろうかと考えてしまう。
「もうすぐ研修期間も終わりだな」
桐島が園田さんに話しかける。この会社では、新採研修とは別に、入社してから半年は「研修期間」と称されている。その間、新規採用者はいわゆる「お試し期間」で、それが終了して初めて正式採用となる。とはいっても、形式的なもので、特別不祥事を起こさない限りは首を切られることはない。
「これで私も一人前ですかね」
「お、デカい口叩いたな」
書類を揃えながら掛け合う二人が仲良く見えて、何となく胸のあたりがモヤっとするのは、狭量なこの心のせいだろう。
「桐島さん、研修期間が終わったら、お祝いに飲みに行きましょうよ」
「ああ、いいよ。無事に採用が決まったらな」
「なにそれ、私が採用されないとでも思ってるんですか」
「俺が指導係をしたんだから、採用されないわけないだろ」
と、またしても軽口が飛び交う。
「じゃあ、決まり。桐島さんのおごりで」
「ああ、園田さんの分は出してあげるよ」
嬉々として約束を取り付けようとする園田さんと、それににこやかに対応する桐島。ごく普通の先輩後輩のやりとりなのに、思わず回れ右をした。何てことない顔をして入って行って、会話に加わるとかすればいいのに、何故か私の足はその場から逃げ出す。
「…ん? それって、桐島さんの分は私が出せって意味ですか?」
「何で俺が自分の分を後輩に出させるんだよ?」
二人の会話を背に、足早に遠ざかる。
この足をどこへ向けようかと考えて、そういえば打ち合わせで使うために借りて行った資料があった、あれを資料室へ返そうと、行く先を決めた。
暗い資料室の電気を点けて、奥のほうにあった書棚を探す。あまり使わない過去資料だから、結構奥深くに大事にしまわれていたのだ。書棚に空いた部分を見つけて、バッグの中から取り出した資料を戻す。ぴったりとはまり、場所が合っていたことに安堵する。
その近くにあった本に目が止まり、クライアントが言っていた希望に沿うヒントがあるかもしれないと、その本を引き抜いた。
と、そこへ、誰かが資料室へ入ってきた。書棚の間から覗くと、桐島だった。
「待ってくださいよ、桐島さん」
ファイルを抱えて園田さんが追いかけて来た。
「帰っていいって言ったろ。ファイルは俺が戻しておくから」
「私も手伝います」
結局二人でファイルを片づけるらしく、桐島と園田さんはその場に留まる。出るに出て行けず、そっと二人の様子を伺う。
「資料室に二人きり。なんだか危険なシチュエーションですね」
「大丈夫。何一つ危険じゃないから」
手際良くファイルを元の場所に戻しながら、二人の軽口が交わされる。
…私は勝手だ。職場では、先輩後輩で同僚というスタンスを崩したくない、と今までどおりの関係を要求したのは、私だ。なのに、桐島が私以外の女の子と親しくしていると、中学生みたいにやきもちを焼いてしまいそうだ。
「えー、なにそれ、つまんない」
「じゃあ、とりあえず、危険回避のために帰れ」
桐島は園田さんの手からファイルを取り上げ、片づけておくから遅くなる前に帰れと促した。こっちが本音だろう。じゃあお願いしますと園田さんも素直に従う。資料室のドアを開けて、園田さんが振り返る。
「じゃ、私が正式採用された暁には、盛大にお祝いしてくださいね」
お先に失礼しまーす、とドアを閉めて園田さんが帰って行った。気をつけて帰れよ、と声を掛けた桐島の手から、最後のファイルが棚に戻る。
そして、不意にこちらに目を向けた。ゆったりとした歩調で、けれどもその長い脚でもってあっという間に私の側に来た桐島が、書棚の陰から顔を出す。
「のぞき見?」
「ちっ、違うわよ! 私が先にいたんだから。出るに出られなかっただけよ」
園田さんより先に資料室に来た桐島は、この部屋に電気が点いていたことで、先客がいることを知っていたはずだ。…というか、すぐに私のところに来たってことは、ここにいたのが私だって気付いていたわけだ。いつから、気付いていたんだろう?
そう思って見上げると、桐島が「ん?」と顔を覗き込む。思わずサッと視線を逸らして、つい、可愛げのないことを言ってしまう。
「楽しそうね、若い子と一緒で。研修期間が終わったらお祝いしてあげるなんて、仲いいよね」
やっぱり聞いてたんだ、と呟いて、桐島が笑う。
「その分じゃ、中途半端に聞いたな。園田さんのお祝いは、してあげるよ、指導係としてね。でも、二人じゃなくて、みんなで行こうってことにした。いくら先輩後輩でも、恭子、いい気がしないだろ」
桐島の説明を聞いて、桐島が言った「園田さんの分は出してあげる」というのは、もちろん園田さんが桐島の分を負担するという意味ではなくて、何人かで飲みに行くけど、園田さんの分は桐島が出してあげるという意味だとわかった。
会話の途中で立ち去ってしまったから、てっきり私は二人きりで飲みに行くのだと勘違いしてしまったのだ。
自分の勘違いに私が動揺していると、桐島がニヤリと人の悪い笑みを見せた。
「やきもち?」
さっきの自分の台詞が、なんてばかなんだろうと今さら顔が赤くなる。
「~~~わ、悪いっ!? だから最初に言ったじゃない、私やきもち焼きだって」
こうなったら取り繕っても仕方ないと私は開き直った。桐島は、書棚に手をついて、何故かがっくりとうなだれた。「……まったく、この人は。俺を試してるのか、それとも誘ってるのか…」「え?」と聞き返すと、「いや何でもない」と桐島は顔を上げた。そして、優しい笑顔を見せる。
「俺も、言ったよね。嬉しい限りだって」
その言葉の意味を悟って、顔を真っ赤に染め上げた私の鼻を、桐島が右手で軽くつまんだ。
「そういう顔をするな。キスしたくなる」
離れて行く桐島の手に、ちょっと名残惜しいなんて思っている自分を、自分でたしなめる。会社ではキスしたり触れ合ったりしないのを約束事にしよう、と言い出したのは私だ。(そんなことをしたら、恥ずかしすぎて平静を保てず、仕事にならないから。)
「恭子」
見上げたら、桐島が微笑んだ。ああ、この顔を、私はよく知っている。すれ違って目が合う時の、桐島の瞳と同じ。その瞳の奥に潜む微笑みが、私だけに伝えている。
『好きだよ』
だから私も瞳の奥で応える。
『私も』
まるで二人の秘密の暗号。声に出さない秘密の会話。
…を、仕事中にしていたら、仕事にならないかもしれない。と、今さら思って慌てて視線を下げようとしたら、桐島の手に顎を上げさせられて、それに伴い視線も桐島を向く。
「……やっぱり、約束守れないかも」
いたずらっぽく笑う桐島から一歩距離を置くと、手に持っていた本を桐島に取り上げられた。本を無造作に書棚に置き、桐島は私が逃げるのを許さないように、本を失い自由になった私の手を絡め取る。
「約束、破ってもいいかな?」
「だ、ダメ…!」
距離を詰められれば、書棚を背負った私に逃げ場はない。
「でも、もう破ったことあるし、何度破っても一緒だよね?」
「なに、その屁理屈…」
抗議を終える前に口を塞がれた。優しく、けれども抵抗を許さないほどに強く、与えられる熱に目を閉じる。
……あ、しまった。流された。




