46 カナリア -apple #19-
年度末の話
春と言っても、日によってはまだ肌寒い。夜遅くなれば尚更だ。エレベーターを降りた瞬間、冷たい風が頬を撫ぜた。風に目を細めて、角を曲がる。
「悪いわね、主役に送ってもらっちゃって。マンションの前まででよかったのに」
「いえ、家に入るまで心配ですから」
その部屋の前に、二人分の人影が見えて、足を止めた。どうやらその部屋の住人も今帰ってきたばかりのようだ。会社の送別会と言っていた。男は会社の同僚だろう。言葉遣いからして後輩かもしれない。
「…あの、トイレ借りてもいいですか?」
「お店で行ってくればよかったのに、もう、しょうがないなぁ」
鍵を回してドアを開けるが、細く開いたドアを再び閉めた。
「…長田くん、やっぱり、我慢できない?」
「できないっす」
「……うーん…我慢できないんじゃあね、まあ、お手洗い貸すだけだし」
自分を納得させるように呟いて、茉里絵はドアノブに手を掛けた。
「茉里絵さん!」
男ががしっと両手で茉里絵の肩を掴んで自分のほうに向けた。
「ぶっちゃけ、トイレ貸して欲しいなんて口実です。大阪に行く前に、俺、ちゃんと言っておきたくて…」
確か、今日の送別会の主役は大阪に転勤になる後輩だと言っていたか。男の赤い顔は酒によるものなのか、それとも……。
「俺、茉里絵さんが…」
「茉里絵」
男の台詞を遮るように名を呼んだ。こんなところで告白なんか目撃させられてたまるか。
「秀明…遅かったのね」
家のドアを背に立った茉里絵が俺に目を向けた。その肩をまだ男は掴んでいる。人の彼女に何さらしてんだ。男の肩を掴んで茉里絵から引きはがし、男と茉里絵の間に入る。
「あのね、秀明、会社の後輩の長田くん。彼、大阪本社に転勤になるから今日送別会してね、それで、家まで送ってくれたんだけど、お手洗い借りたいって言うから…」
茉里絵がとりなすように言う。俺は男に視線を向け、にっこりと笑顔を作った。
「そうなんだ。じゃあ、上がっていけば?」
「…いっ、いえ、だ…大丈夫です!」
今すぐ俺の目の前から消えろオーラが伝わったのか、男は回れ右して帰って行った。空気の読める奴で良かった。「じゃあ、お言葉に甘えて」なんて言い出そうものなら、確実にぶん殴っていた。
男の背中が角に見えなくなると、茉里絵を玄関に押し込んで自分も入り、ドアを閉めた。
「…お前、警戒心なさすぎ。あんな古典的な言い訳真に受けるなよ。下心見え見えだろ」
「だって、長田くんは後輩だし、そんなんじゃないよ。今日はお酒いっぱい飲んでたから、本当にお手洗い行きたいのかもって。それに、秀明がもういると思ってたから、トイレ貸すくらいいいかと思って」
茉里絵は拗ねたように口を尖らせた。靴を脱いで部屋に上がる。茉里絵も俺の後をついて部屋に入った。
「俺がいないってわかっても、部屋に上げようとしただろ」
部屋の明かりがついていないことを知って少し逡巡したようだが、結局はあの男を家に招き入れようとしていたのだ。
「だって私を送ったせいで遠回りになっちゃって、トイレ我慢できないんじゃ悪いし」
「少しは身の危険を感じろよ」
あいつが焦ってあそこで言い出したから良かったけど、家に入った後じゃ危なかった。
「何よ、それ。男の人みんなに警戒してたら、自意識過剰な女みたいでしょ。後輩にトイレ貸すくらいなんでもな…」
茉里絵の両手首を掴んでベッドに押し倒した。
「こんな風に力づくで迫られたら、どうするつもりだった?」
「…ひで…あ、き…?」
俺に組み敷かれた茉里絵が不安そうに目を向けた。
「…ちょっと、秀明!」
彼女の自由を奪ったまま、首筋に口づける。
「……っ秀明、待って、ねえ…っ」
俺以外の男の手の中で啼くなんて、許さない。
「…やっ、ひであ…き」
身をよじり抵抗するのを無視してスカートの中に手を差し入れる。
「やだ、秀明、待ってってば!」
いっそのこと籠に閉じ込めて、ずっとそばに───。
「…いや! ひーくん!!」
耳元で叫ばれた懐かしい呼び名に、我に返った。そっと彼女から手を離し、体を起こす。涙で潤んだ茉里絵の瞳が見えた。
「……悪い」
自分のしようとしていたことに動揺して声がかすれる。
「…ごめん、帰るよ」
彼女を怖がらせないように、静かにベッドを降りた。
「───待って、秀明」
背中に掛けられた声に振り向く。ベッドに起き上がった茉里絵が服の胸元を押さえて俺を見ていた。
「…何か、あった?」
不安そうに茉里絵が訊く。
「何もないよ」
笑顔を作って答え、背を向けた。
「嘘」
茉里絵の手が俺の服の袖を掴んだ。
「…また、何も話してくれないの?」
答えられない俺に、茉里絵の瞳がさらに尋ねる。
「私は秀明にとって、彼女になった今も、大事なことを話せないような相手なの?」
デジャヴ。
あの日の光景が蘇って、自分の犯した過ちに再び気付く。
「……今日、こっちの会社に来てたのは、本社のプロジェクトが一段落したから、来年度からこっちに戻る打ち合わせと引き継ぎのためだった」
それを茉里絵のところに寄って報告する予定だった。
「だけど、それは当面なくなった。プロジェクトのほうにトラブルがあって。そっちが片付かないと、戻れない」
会社にいる時に本社から連絡が入り、引き継ぎと打ち合わせをキャンセルして、場所と電話を借りて奔走したが、そんな簡単な問題ではなさそうだった。
「ごめん。もうしばらくは、離れ離れだ」
だから焦った。このまま離れていたら、俺の手の中から、誰かが茉里絵をさらってしまうのではないかと。目の前で他の男に茉里絵が言い寄られるのを見て、怒りにも似た感情が沸き起こった。
───いや、あの男に激しくムカついたのは、きっと、自分と重なったからだ。退路を断たれた状況でないと勇気を出せない臆病さが、自分に似ていたからだ。
「大丈夫よ」
意外にも明るい声で茉里絵が言った。
……ああ、やっぱり、大丈夫じゃないのは、俺のほうか。
茉里絵に手を引かれてベッドの端に腰を下ろす。
「離れてても、近くにいても、私は秀明のもので、秀明は私のものでしょ?」
目の前でにこりと微笑んだ茉里絵の指が頬に触れた。頬を包んだ両手が、引き寄せる。小さく触れた唇を、ついばむように確かめた。




