表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/51

46 カナリア -apple #19-

年度末の話

 春と言っても、日によってはまだ肌寒い。夜遅くなれば尚更だ。エレベーターを降りた瞬間、冷たい風が頬を撫ぜた。風に目を細めて、角を曲がる。

「悪いわね、主役に送ってもらっちゃって。マンションの前まででよかったのに」

「いえ、家に入るまで心配ですから」

 その部屋の前に、二人分の人影が見えて、足を止めた。どうやらその部屋の住人も今帰ってきたばかりのようだ。会社の送別会と言っていた。男は会社の同僚だろう。言葉遣いからして後輩かもしれない。

「…あの、トイレ借りてもいいですか?」

「お店で行ってくればよかったのに、もう、しょうがないなぁ」

 鍵を回してドアを開けるが、細く開いたドアを再び閉めた。

「…長田くん、やっぱり、我慢できない?」

「できないっす」

「……うーん…我慢できないんじゃあね、まあ、お手洗い貸すだけだし」

 自分を納得させるように呟いて、茉里絵はドアノブに手を掛けた。

「茉里絵さん!」

 男ががしっと両手で茉里絵の肩を掴んで自分のほうに向けた。

「ぶっちゃけ、トイレ貸して欲しいなんて口実です。大阪に行く前に、俺、ちゃんと言っておきたくて…」

 確か、今日の送別会の主役は大阪に転勤になる後輩だと言っていたか。男の赤い顔は酒によるものなのか、それとも……。

「俺、茉里絵さんが…」

「茉里絵」

 男の台詞を遮るように名を呼んだ。こんなところで告白なんか目撃させられてたまるか。

「秀明…遅かったのね」

 家のドアを背に立った茉里絵が俺に目を向けた。その肩をまだ男は掴んでいる。人の彼女に何さらしてんだ。男の肩を掴んで茉里絵から引きはがし、男と茉里絵の間に入る。

「あのね、秀明、会社の後輩の長田くん。彼、大阪本社に転勤になるから今日送別会してね、それで、家まで送ってくれたんだけど、お手洗い借りたいって言うから…」

 茉里絵がとりなすように言う。俺は男に視線を向け、にっこりと笑顔を作った。

「そうなんだ。じゃあ、上がっていけば?」

「…いっ、いえ、だ…大丈夫です!」

 今すぐ俺の目の前から消えろオーラが伝わったのか、男は回れ右して帰って行った。空気の読める奴で良かった。「じゃあ、お言葉に甘えて」なんて言い出そうものなら、確実にぶん殴っていた。

 男の背中が角に見えなくなると、茉里絵を玄関に押し込んで自分も入り、ドアを閉めた。

「…お前、警戒心なさすぎ。あんな古典的な言い訳真に受けるなよ。下心見え見えだろ」

「だって、長田くんは後輩だし、そんなんじゃないよ。今日はお酒いっぱい飲んでたから、本当にお手洗い行きたいのかもって。それに、秀明がもういると思ってたから、トイレ貸すくらいいいかと思って」

 茉里絵は拗ねたように口を尖らせた。靴を脱いで部屋に上がる。茉里絵も俺の後をついて部屋に入った。

「俺がいないってわかっても、部屋に上げようとしただろ」

 部屋の明かりがついていないことを知って少し逡巡したようだが、結局はあの男を家に招き入れようとしていたのだ。

「だって私を送ったせいで遠回りになっちゃって、トイレ我慢できないんじゃ悪いし」

「少しは身の危険を感じろよ」

 あいつが焦ってあそこで言い出したから良かったけど、家に入った後じゃ危なかった。

「何よ、それ。男の人みんなに警戒してたら、自意識過剰な女みたいでしょ。後輩にトイレ貸すくらいなんでもな…」

 茉里絵の両手首を掴んでベッドに押し倒した。

「こんな風に力づくで迫られたら、どうするつもりだった?」

「…ひで…あ、き…?」

 俺に組み敷かれた茉里絵が不安そうに目を向けた。

「…ちょっと、秀明!」

 彼女の自由を奪ったまま、首筋に口づける。

「……っ秀明、待って、ねえ…っ」


 俺以外の男の手の中で啼くなんて、許さない。


「…やっ、ひであ…き」

 身をよじり抵抗するのを無視してスカートの中に手を差し入れる。

「やだ、秀明、待ってってば!」


 いっそのこと籠に閉じ込めて、ずっとそばに───。


「…いや! ひーくん!!」

 耳元で叫ばれた懐かしい呼び名に、我に返った。そっと彼女から手を離し、体を起こす。涙で潤んだ茉里絵の瞳が見えた。

「……悪い」

 自分のしようとしていたことに動揺して声がかすれる。

「…ごめん、帰るよ」

 彼女を怖がらせないように、静かにベッドを降りた。

「───待って、秀明」

 背中に掛けられた声に振り向く。ベッドに起き上がった茉里絵が服の胸元を押さえて俺を見ていた。

「…何か、あった?」

 不安そうに茉里絵が訊く。

「何もないよ」

 笑顔を作って答え、背を向けた。

「嘘」

 茉里絵の手が俺の服の袖を掴んだ。

「…また、何も話してくれないの?」

 答えられない俺に、茉里絵の瞳がさらに尋ねる。

「私は秀明にとって、彼女になった今も、大事なことを話せないような相手なの?」

 デジャヴ。

 あの日の光景が蘇って、自分の犯した過ちに再び気付く。

「……今日、こっちの会社に来てたのは、本社のプロジェクトが一段落したから、来年度からこっちに戻る打ち合わせと引き継ぎのためだった」

 それを茉里絵のところに寄って報告する予定だった。

「だけど、それは当面なくなった。プロジェクトのほうにトラブルがあって。そっちが片付かないと、戻れない」

 会社にいる時に本社から連絡が入り、引き継ぎと打ち合わせをキャンセルして、場所と電話を借りて奔走したが、そんな簡単な問題ではなさそうだった。

「ごめん。もうしばらくは、離れ離れだ」

 だから焦った。このまま離れていたら、俺の手の中から、誰かが茉里絵をさらってしまうのではないかと。目の前で他の男に茉里絵が言い寄られるのを見て、怒りにも似た感情が沸き起こった。

 ───いや、あの男に激しくムカついたのは、きっと、自分と重なったからだ。退路を断たれた状況でないと勇気を出せない臆病さが、自分に似ていたからだ。

「大丈夫よ」

 意外にも明るい声で茉里絵が言った。

 ……ああ、やっぱり、大丈夫じゃないのは、俺のほうか。

 茉里絵に手を引かれてベッドの端に腰を下ろす。

「離れてても、近くにいても、私は秀明のもので、秀明は私のものでしょ?」

 目の前でにこりと微笑んだ茉里絵の指が頬に触れた。頬を包んだ両手が、引き寄せる。小さく触れた唇を、ついばむように確かめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ