45 It’s raining -bee #17-
テーブルの上に置いた携帯電話がバイブして、液晶に表示される名前が目に入った。その名に、背中に一斉に汗が噴き出す。汗が滝のようになった頃、相田さんが不思議そうな顔で「どうしたの?」と尋ねた。
その場所からこの名前が見えないわけがないのに、そんなことを訊くのは、暗に俺に「出ろ」と言っているのか、あるいは「絶対出るなよ」という意味なのか。
俺としては、絶対に出たくない。
何で今さらこの名前が液晶に浮かぶのか。本来なら決してそこに現れるはずのない名前なのに。ていうか、どうして削除しておかなかった、俺!
もう必要ない番号なら、削除すべきだったのに。ただナンバーが表示されただけなら、覚えてもいないナンバーにこんなに冷や汗をかくこともなかったのに。
「私、結婚するの」とか、そういう報告なら、要りませんから。今さら俺にそんなこと教えてくれなくて全然構わないから。
「やり直したい」とか、そういうのは、本当に今さらだ。大学を卒業してから一度も会うことなく、連絡を取り合うこともなく、共通の友達も特にいるわけでもない。もはや何の接点もない。
そんなことを考えているうちに、携帯電話のバイブが止まった。思わず気付かれないように深い息を吐き出した。
頼むよ、気紛れに俺の番号なんか押さないでくれ。
安心したのも束の間、再び電話が鳴った。同じ名前が液晶に表示される。一度だけならただの偶然で片づけられるが、二度も掛かってくるとなると、確かな意思を持って掛けられているのだろうと想像できる。
「桐島、鳴ってるよ」
「う、うん…」
それは、出ろって意味ですか? 出ていいって意味? それともその反対?
相田さんの目が携帯に注がれる。いたたまれずに電話を手に取った。
「…もしもし?」
声がかすれる。
「あっ、出た! ゆうくん?」
紛れもなく、聞き覚えのある声だった。
「……なに?」
間違い電話では済ませられないだろう。
「ねえ、ほら、出たでしょ。あたしの勝ち!」
「え~、出るなよ、元カレ~」
「あたしが勝ったんだから、約束通りおごってよね」
電話の向こうの妙に甲高い声に、沈黙する。絶対酔ってるな。キャハハとやけに楽しそうに聞こえる笑い声が恨めしく思えた。どうやら俺が(というか元彼が)電話に出るかどうかを友達と賭けていたらしい。
「ねー、あたしから電話掛かって来て、どう思った?」
ビックリした?ヨリ戻したいとか思った?と尋ねられるが、それらをすべて無視した。
「…出るんじゃなかった。もう二度とやめてくれ、頼むから」
深い溜息と共に電話を切った。
「ごめん。なんか、大学時代の元カノからで。友達との賭けに使われたみたい」
言い訳がましく相田さんに説明する。液晶に女の名前が出た時点で「友達」などと説明するのは白々しくて、それならいっそ、もう終わったことだし、本当のことを言ったほうがいいだろうと正直に言った。
「そう」
相田さんに怒った様子はなかった。でも気まずくて、「番号消し忘れてたんだな、何でだろ?」と見え透いたことをデカい声で独り言のように呟きながら、元カノのメモリーを削除した。
最初から、別れた時に削除しておけば良かったんだ。なのに、使いもしない番号をなぜずっと消さずにいたのだろう。
過去の恋愛は、男にとっては日記、女にとっては日めくりカレンダーだと、誰かタレントが言っていた。男は未練がましくいつまでも過去のものを取っておく傾向にあり、女はさっさと過去は捨てていく。
確か同じ人だったか、アドレス帳の例えもあった。男のアドレス帳は昔ながらの紙のもので、過去のものは残り新しいものが足されていく。女のそれは携帯のメモリーのように、上書きができ、要らないものは削除していける。
その携帯メモリーを、なぜ削除しておかなかった、俺? 第一、あいつは女のくせに、なぜ俺の番号をいつまでも取っておいた? そこはバッサリ切り捨てるところだろう?
嫌な汗をかいてどっと疲れてしまった俺は、深い溜息をこっそりとついて、隣に座る相田さんの様子を伺った。彼女は、俺のことなどまるで興味がないように、持参して来ていた雑誌に目を落としていた。
こういう時、何だか自分勝手に複雑な気分になる。追及されたら困るくせに、もう少し俺の背景に興味を持ってくれてもいいんじゃないかとも思う。
何となく手を伸ばして、彼女の手に触れた。
「やめて」
硬い声が氷のように響く。思わずビクリと手を離した。
「今、そういう気分じゃない」
雑誌から顔を上げずに相田さんが言った。以前、彼女の気持ちを無視してしまった時の、あの瞳を思い出す。俺を拒絶する、涙に濡れた冷たい瞳。
重い沈黙が二人の間に流れる。折から降り出した雨の音が、静かな部屋でやけに耳につく。
その憂鬱な響きに息苦しさを覚えた頃、ポツリ、とすぐ近くで雨が落ちるような音がした。けれど、すぐにそれが雨ではないと気付く。雑誌の上に落ちたそれは、大粒の──涙。
再び雑誌の上に、今度は反対側の瞳から零れたであろう涙が落ちた。うつむく相田さんの顔は、長い髪に隠されて見えない。思わず彼女の両手を掴んでこちらを向かせた。彼女の膝の上から雑誌が落ちる。
俺を見つめる相田さんの目には、涙が浮かび、それが堰を切ったように溢れる。
「……なんで……?」
彼女の涙の意味が、俺にはわからなかった。怒らせる覚えはあるが、泣かせる覚えはない。
「……わかってる…、桐島には、桐島の人生があって、私の知らない過去があるなんてこと、わかってる。元カノがいたって不思議はないなんて、わかってるけど…」
相田さんは、涙のせいか、声が震えていた。
「わかってるのに、嫉妬する自分が嫌で…。桐島には、自分の過去を許してもらっておきながら、桐島を責めようとしてる…」
いろんなことに、驚いた。
相田さんが泣いていること。人の前では泣かないと言った彼女が、俺の目の前でポロポロと涙を零している。そして、相田さんが嫉妬していること。俺に元カノから電話が掛かって来たことを、俺を責めたいと思うほどに気にしてくれている。
そしてそんな自分を諌めようと、必死に耐えている彼女がいじらしくて、愛おしくて、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
けれど、せっかく見られた相田さんの泣き顔を、もう少し見ていたくて、彼女が涙をぬぐえないように両手を捕まえたまま、じっと見つめていた。彼女を泣かせるようなことは、できればしたくないけど、この顔を俺にだけ見せてくれるのなら、たまには泣き顔もいい。
泣いた顔も可愛いなんて口にしらた、変態だと睨まれるかな?
「責めてもいいんだよ、俺のこと。メモリー残しておいたのは、俺が悪いんだから」
それで気が済むのなら、少しは泣かせた罪滅ぼしになるのなら、責めてくれて構わない。
「そうね。確かにそれは桐島が悪いわね」
あっさりと相田さんは俺の非を認めた。
「でも、電話をしてきたのは向こうなんだし、桐島を責めるのは、違うと思うわ」
涙で頬を濡らしながらでも、やっぱり相田さんは凛としている。
「だけど私を泣かせたんだから、ちゃんと責任取ってよね」
ああ、ヤバい。やっぱり可愛い。頬の涙に口づけして、そのまま彼女を抱き締めた。俺の手から自由になった相田さんの手が、そっと俺の背中に回された。
静寂が支配する部屋に、外の雨の音だけが静かに聞こえていた。




