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39 あのとき -citrus #9-

「お互い嫌いになったわけじゃないのに、お互いを傷つけてばかりいるなら、もうやめよう。無理に私に付き合うことないよ。甘えてばかりでごめんなさい。私、ちゃんと一人で大丈夫だから」

 別れを告げたあの電話で、彼女は震える声で、けれども彼女らしく毅然と言った。



「この間は、すみませんでした。ちゃんと返事しなきゃと思って」

 俺を呼び出した彼女は、あの時に似た少し震える声で言った。

 今にも泣きそうな彼女を、抱き締めてしまえば、時を遡って、昔のように甘えてくれるのかもしれない。

 だけど、彼女の決然とした表情に、衝動を抑えた。


「桐島くん」

 ちょうど見かけた後姿に声をかけると、綺麗な顔が振り向いた。営業課の女の子たちにも人気のイケメンだというのは、伊達じゃなさそうだ。

 俺の顔を忘れてはいなかったようで、桐島は頭を下げ、どうもと挨拶をした。

「ちょっといいかな」

 帰ろうとしていた桐島を捕まえ、飲みに誘った。断らないだろうと踏んでいた。案の定、桐島は少し身構えながらも頷いた。

 男二人で行くのに変に静かな店では気まずいので、焼鳥屋に連れて行った。ビールと串をいくつか頼んで飲み交わす。最初は俺の他愛ない話に相槌を打っていた桐島が、痺れを切らしたようにジョッキを置いて俺を見据えた。

「鳴瀬さん、何か俺に話があったんじゃないですか? まさか、俺と焼鳥を食べるために誘ったわけじゃないですよね?」

 もちろんその通りだ。

「ゆっこのことだよ」

 俺も食べ終わったネギマの串を置いて、本題を切り出した。その話題が出ることは当然桐島も想定していたことだろう。驚く様子もなく俺を見つめた。

「桐島くん、今、ゆっこと付き合ってるんだって?」

「はい」

 ためらうことなく桐島は頷いた。

「でも、それが、鳴瀬さんにどんな関係があるんですか?」

 奴は、俺とゆっこが付き合っていたことを知っているはずだ。だからこそ、俺の誘いに応じたのだろうし。なのに無関係を主張するのは、俺を牽制しているのだろう。



「鳴瀬さん、私、今付き合ってる人がいて…」

 ゆっこは俺に申し訳なさそうに言った。

「それって、…桐島って奴?」

 ゆっこは驚いたように目を瞠って、それから頷いた。

「鳴瀬さん、なんで…」

「何となくわかった」

 俺が企画課に顔を出した時のあいつの表情。奴を気遣うゆっこの視線。休憩室を出て行ったゆっことすれ違った時のあの顔。そして俺を見つめた時のあの強い瞳。

 あいつの目は、いつでもゆっこを捕え、俺を敵視していた。



「俺は今でもゆっこが好きだから」

 一瞬、桐島が息を呑んだ。

「…勝手じゃ、ありませんか。別れておいて、今でも好きだからまた付き合いたいなんて」

「──そう。これは俺の勝手」

 納得して別れたはずだった。距離が離れて、それで心が離れてしまうのなら、きっと近くにいても同じことだと。だけど、彼女を見れば、やっぱり愛おしいと思う。

「だから、君がゆっこを責める理由にはならない」

 桐島が目を見開いた。

「ゆっこ泣いてたよ。君を怒らせてしまったって。だけど、俺がゆっこを好きだと言ったからって、ゆっこに非があるのかな?」

 眉間に深い皺を刻んだ桐島の顔が歪む。テーブルの上の手がギリリと音を立てそうなほどに強く握られる。

「言っておくけど、このことは、ゆっこが積極的に話したわけじゃないよ。俺が無理やり聞き出した」

 これは牽制だ。ゆっこが俺に話したことで責められないように。そして、聞き出せばゆっこが俺に話してくれるほどには、まだ俺に心を開いているのだと知らしめるための。



「ゆっこは、今、幸せ?」

 尋ねれば、ゆっこは力いっぱい頷いた。

「大丈夫、ちゃんと幸せだよ。桐島は、私を好きだって言ってくれるし、大切にされてると思う」

「…大丈夫、ちゃんと…?」

 引っかかる言葉だった。

「それじゃあ、まるで、幸せじゃないように聞こえる」

 ゆっこが自分の失言を悔いるように口を押さえた。

「俺のせいで、何かあった? 桐島あいつと」

 余計なことを言わないように口を押さえたまま、ゆっこは激しく首を横に振った。

「ゆっこは昔から嘘つくの下手すぎ。何かあったようにしか見えない」

 問い詰めれば、ゆっこはやはりかぶりを振って、違うの、と呟く。

「違うの、鳴瀬さんのせいじゃないの。私が、私が悪くて。だから、桐島を怒らせてしまって…」

 その時のことを思い出したのか、ゆっこの目に涙が浮かぶ。



「俺がゆっこを好きなのは、俺の勝手。ゆっこは俺に応えたわけじゃない。なのに、どうして君に責められなきゃいけないんだろう?」

 眉間に皺を寄せたまま、桐島の視線が下に落とされる。

「君がゆっこを幸せにできないなら、遠慮はしない」

 桐島が視線を上げて俺を見据える。

「俺も勝手なんです。俺は幸せになりたいし、そのためには恭子ゆきこが必要だ。だから、彼女を手放す気なんてありません」

 失礼します、と桐島はテーブルに金を置いて立ち上がり、俺に頭を下げて店を出て行った。きっと、店を出た瞬間に携帯を取り出すことだろう。

「まったく、世話の焼ける…」

 呟いて、ぬるくなってしまったビールを飲んだ。苦味が口に広がって、それから喉に爽快な泡が落ちる。


 俺の勝手な想いは、ゆっこをもう一度手に入れたいと願うけど、彼女の幸せを願うのも、本当だ。

 だからこんな役回りを引き受けて、俺ってなんてお人好しなんだろう。

 でも、やっぱり悔しいから、ゆっこのあの言葉はあいつには絶対に教えてやらない。



「鳴瀬さんのことは、先輩として、今でも好きだし尊敬もしてる。だけど、今、私が一番大切にしたいのは、幸せにしたいのは、桐島なの」



 彼女の声は、あの時に似て小さく震えていた。あの時と同じように、確かな決意を持って告げられる言葉。

 だけど、あの時と違うのは、その決意の中に、あいつへの確かな想いが込められていること。

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