38 Don’t say sorry,baby -bee #14-
直感、というものが存在するとしたら、こういうことを言うのだろう。
それは誰に言われたわけでもなく、ただ、何となくそう思っただけなのだけど。
だけど、俺はたぶん本能で感じ取っていた。
あの人が、俺の敵だってこと。
相田さんの話では、もともとはうちの課にいた人で、数年前に大阪に転勤になって、今年こっちの営業に戻ってきて、その時には挨拶に来たらしいのだが、俺は会っていない。たぶん、その頃は忙しく外回りをしていたからだろう。
初めて見たのは、相田さんと仲良さそうに歩いている時だ。相田さんを「ゆっこ」なんて親しげに呼んで、彼女の髪を撫でて、彼女はそれを全然嫌がっていなくて。
どんな関係なんだと邪推して、でも意気地なしの俺は、訊けずにいた。
相田さんの荷物を持ってあの人が現れた時も、やはり二人は親しげで、「相変わらずそそっかしいな、ゆっこは」と優しく相田さんを見つめるその瞳は、果たして本当にただの先輩のものなんだろうか。
「仲、良さそうでしたね」と訊いてみても、彼女は「私に仕事の基礎を教えてくれたのは鳴瀬さんだからね」と答えるだけだ。その答えは、他の人の目があったからなのだろうか。それとも、俺と二人きりでも、彼女はそう答えただろうか。
今にも追及してしまいそうな俺の雰囲気を悟ったのか、相田さんは部屋を出て行ってしまった。
彼女を追いかけたわけではないけれど、必要な資料を取りに行くついでに飲み物でも買おうと休憩コーナーへ向かった。
何にしようかと自販機を眺めていると、休憩コーナーの奥にある休憩室から人の声が聞こえた。普通、この時間なら誰もいないはずだ。不思議に思って休憩室のある廊下を覗くと、不意にドアが開いた。
勢いよく飛び出してきた相田さんとバッチリ目が合う。頬を紅潮させた彼女の目じりは赤く見えて、泣いたのかと胸がざわつく。俺の姿を認めた相田さんは、気まずそうに目を伏せて、そのまま足早に俺の脇を通り抜けた。
彼女が出てきたドアの中には、一人の男。鳴瀬さん、だ。男は、バツが悪そうに俺を見遣る。
見てはいけない場面に出くわしてしまったのだと、言われなくてもわかる。
「…あ、ええと、今のは、見なかったことに」
「心配しなくても、誰にも言いませんよ」
自分の彼女が、男と密室に二人きりだったなんてね!
「…鳴瀬さん、でしたっけ? 恭子とはどういう関係なんですか?」
と喉元まで出かかった台詞を飲み込んだ。こういうことは、彼女の口から聞くべきだ。俺がこんな場面を目撃してしまった以上、何も聞かないのは不自然だ。
それに、彼女も話してくれるだろう。
俺が誰にも話さないと断言して安心したのか、それ以上そこに留まるのは居心地が悪かったからか、鳴瀬さんは足早にその場を去った。
俺は、このまま相田さんの顔を見たら辺り構わず詰問してしまいそうだったので、少し冷静になろうと予定通り休憩コーナーでコーヒーを買って、椅子に座った。
「あれ、桐島くん」
そこへ、休憩に来たらしい富永が現れた。
案の定、相田さんから話したいことがあるから部屋に行ってもいいかと携帯メールが入っていた。俺たちは会う約束は殆ど携帯メールでしている。了承のメールを返信して、俺は夜を待った。
俺の部屋にやってきた相田さんは、居心地悪そうに俺の斜め前に座っていた。
「それで、話って?」
少々意地の悪い俺の問いにビクリと相田さんの肩が揺れる。
「…あの、鳴瀬さんのことなんだけど…」
沈黙したまま目で続きを促す。
「昔、付き合ってた人なの」
聞きたかった、いや、聞きたくなかった言葉が予想通りに告げられる。覚悟していたとはいえ、冷静に受け止めるには、俺にはまだ余裕が足りない。
「そう、なんだ」
それだけ言って深く息を吐いた。
鳴瀬さんが去った後、休憩コーナーにやってきた富永は、小声で俺に尋ねた。
「今の、営業の鳴瀬さんでしょ? うちの女の子たちが騒いでた」
精悍な顔立ちに長身でたくましい体躯の鳴瀬さんは、あっという間に営業トップに上り詰めたやり手ということもあって、女の子に人気があるようだった。
「相田さんと知り合いなのかな。この間、二人が話してるのを見かけたから」
何の気はない問いだったのだろう。だけど、俺は思わず溜息をついていた。
「…相田さんの、元彼──かもしれない」
俺の言葉に一瞬目を丸くした富永は、ああ、じゃあ、と呟いた。
「遠距離で別れた彼って、あの人のことなのかな」
富永を見上げると、そんな怖い顔で睨まないでよ、と苦笑された。
「この間ね、そんな話が出たの。この歳なんだから、元彼の一人や二人いても不思議はないわよね」
諭すように富永は言う。
「詳しい話は聞いてないわ。知りたければ、自分で訊くことね。だけど、過去の男のことなんか聞いて、いいことなんて一つもないわよ」
富永はそう忠告したけれど、それに従う冷静さは、今の俺にはなさそうだった。
「ごめん、桐島。でも、付き合ってたって言っても、だいぶ前のことだよ。とっくに別れてるし」
俺の深い溜息に慌てたように相田さんが弁明する。鳴瀬さんが大阪に転勤になって半年くらいで別れたという。俺は鳴瀬さんと入れ替わるように入社しているから、ああそうか、相田さんの涙を見た、あの頃だ。あの涙も、彼のために流されたのかもしれない。
「その割には、仲良さそうだったよね」
責めるような口調になっていると自覚していても、それを飲みこめるほどの器量は俺にはない。
「そ、それは、尊敬する先輩であることに変わりはないから。ごめん」
鳴瀬さんは、事務職だった学生バイトの相田さんを企画アシスタントにした人で、相田さんに企画の仕事を教えた先輩なのだという。
俺が沈黙すると、相田さんも黙って俺の様子を伺い、気まずい空気が流れる。
「もしかして、俺と付き合うのをためらったのは、あの人のせい?」
訊きたかったことを口にしてみる。相田さんはハッとしたように顔を上げた。
「…ごめん。未練とか、そういうのではないんだけど、また同じ職場の人と付き合うってことには、ちょっと抵抗があって。一度失敗しちゃってるわけだし」
別れてもなお、あの人は相田さんを支配する。
相田さんに仕事を教えたのはあの人。つまりは、今のバリバリ仕事をする、俺の憧れた相田さんを生んだのは、あの人。俺は見ることのできない涙を彼女に流させたのも、あの人。俺が好きになった相田さんは、あの人の痕跡を確かに残している。
衝動的に俺は相田さんの腕を掴んで立たせ、乱暴にベッドに放り込んだ。
「き、桐島!?」
驚いて声を上げる彼女を無視して、胸をはだけ、キスを落とす。彼女の中に残るあの人の影を払拭してしまいたかった。首筋に、胸元にキスを繰り返して、俺の痕だけを残したかった。
「ちょっと待って、桐島!」
両手で懸命に俺を押し返した相田さんの目が濡れている。その顔に、俺は手を止めた。
「あの時、休憩室で鳴瀬さんと何してた?」
相田さんの眼が揺れて、俺を押していた手の力が弱まった。
「……やり直せないかって、言われた。…ごめん」
「何で謝るの? 俺のこと話してくれたんだよね?」
そんなことできないと、俺という彼氏がもういるのだと彼女が告げれば、それで済む話だ。
「ごめん。突然のことで、びっくりして、それで、逃げ出しちゃって……ごめん」
怯えたように彼女の眼が俺を見つめる。
「ごめん、桐島。ごめんね」
「謝るな。ムカつく」
──まるで、拒絶されているような気がする。
彼女を解放した俺は、彼女に背を向けてベッドの端に座った。
「…き…り、しま…」
掠れた声に耳を貸さずに答える。
「帰ってくれ」
このままじゃ、俺は何をするかわからない。
取り返しがつかないほどに彼女を傷つけてしまいそうで、怖い。
「頼むから、帰って」
背後で布の擦れる音がして、ベッドのスプリングが軋む。その気配で彼女がベッドから降りたのだとわかった。
「…桐島、ごめんね。鳴瀬さんには、ちゃんと言うから」
振り返らない俺の耳に、彼女が出ていく音が聞こえた。
『ごめん、ごめんね』
お願いだ、そんな風に謝らないでくれ。
俺が好きだと言ってから、彼女は俺に謝ってばかり。
謝らせたいわけじゃない。
俺の想いを受け止めて、ほんの少し返してくれたら、それでいいのに。




