35 can’t help Loving You -bee #11-
第一印象は、キツイ女。
どうしてこの人好きになったのか、今ではちょっと思い出せない。
新採研修を終えて配属された課で、彼女が君の指導係だよ、と上司に言われた。彼女は、隙のない表情で年上の男たちと対等に議論を交わしていた。
「相田さん」
上司に呼ばれて彼女はこちらへ視線を向けた。強い視線が俺を捕え、誰?と眉間に皺が寄った。
「君の下につく新人の桐島くんだよ」
上司に紹介されて、ああ、と彼女は頷いた。
「よろしく、桐島くん」
にこりと微笑んだ彼女は、意外に可愛いなと思った。
同じ課に配属された新人は何人かいたが、それぞれの指導係は入社三年目以降の先輩たちだった。相田さんだけが入社二年目だった。だけど彼女の仕事ぶりは他の先輩たちに引けをとらず、二年目で既にホープの呼び声も高かった。
他の先輩が教えてくれたことだが、彼女は大学生の頃からこの会社で働いていたらしい。事務職のバイトだった彼女を、当時のスタッフが優秀だからとアシスタントにつけたのだという。そして上司の勧めでこの会社に入社した彼女は、入社二年目にしてスタッフに昇格し、俺が初めて下につくアシスタントということになる。
俺が仕事を覚えるまでは、相田さんは優しかった。ところが、半年も経って一人で任される仕事が出てくると、彼女は容赦なかった。日々俺に掛けられる言葉は「はい、やり直し」の繰り返し。
俺の作った書類を見て、ちょちょいと赤ペンで直しを入れて、はいやり直し。企画を立てれば、うーんと唸って問題点はこことこことここねと、はいやり直し。サンプルを作って見せれば、作りがちょっと雑、はいやり直し。
なんであの人、俺にこんなに厳しいんだろと打ちひしがれていると、先輩たちは「期待されてんだよ」「せいぜい相田にしごかれろ」と笑っていた。他の新人は優しい先輩の庇護のもと簡単な仕事をしてるっていうのに、俺ばかり大変な思いをしている気がしてならなかった。
ある日、企画書を作って相田さんに提出すると、眉根に皺を寄せて(書類を見る時の癖らしい)見ていた相田さんが頷いた。
「うん、いいんじゃない」
初めて褒められた。有頂天になる俺に、やはり彼女は容赦なく言い放った。
「でもコスト掛かりすぎ。やり直して」
ショックを顔に描く俺に、平然と彼女は続ける。それじゃ採算取れないわ。仕事として成り立たないんじゃ、会社としては企画通せないのよ。
「今度の企画会議に間に合わせたいから、今日中に直してね」
そう言い残して自分は外回りの仕事に出てしまった。
結局俺は残業して頭を抱えることになった。一生懸命考えた上での企画なのに、これ以上なにをどう削ってコストを減らすと言うんだ。
「あ、まだやってたの?」
一人残業する俺の背中に外回りから帰ってきた相田さんが言った。
残業を命じたのは誰ですか?
「それさぁ、素材変えればコスト下げられない?」
質感がちょっと変わっても雰囲気出れば問題ないでしょ。と彼女は鞄の中からいくつかのパンフレットを取り出し、その隣に缶コーヒーを置いた。顔を上げると、どうぞ、と手で示して相田さんは自分も缶コーヒーを開けた。
俺の隣の席に座って、パンフレットを広げて代替素材を提案する。外回りをしながら俺のために資料を集めてくれたらしい。
でも、こういう案があるなら最初からそう教えてくれればいいのに。そう口にすると、甘えてんじゃないわよ。と一喝された。
「私がこれを見つけたのなんて偶然なの。たまたま行った先の会社が取り扱ってただけ」
でもたぶん、相田さんは自分がこれから訪問する会社がどんな商品を扱っているかなんて、知っていたはずだ。
「相田さんて、俺にキツくありませんか?」
思わず本音がこぼれた。俺以外の新人には相田さんは意外と優しい。この間だって、同期の女の子のミスを優しくフォローしてあげていた。まあ、俺のミスだってこの人は厳しいことを言いながらもフォローしてくれるわけだけど。
「私は桐島の指導係だからね」
他の人のミスは実際問題、私にはそんなに痛くないのよ。痒い程度で。でも、桐島のミスは私には痛手なの。単に私のアシスタントだからってことじゃなくて、桐島の不出来は私の指導力が足りないってことでしょ。
予想していたとはいえ、想像よりもシビアな答えが返ってきた。
「でも、新人にここまで求めます?」
食い下がってみると、相田さんはコーヒーを飲んで、俺をじっと見やった。
「仕事って、客相手にするものよね」
首肯すると、それがわかってるならいいのよ、と言わんばかりに頷いた。
「客にはあんたが新人かどうかなんて関係ないことだわ」
あんたのミスが会社だけでなく、客にも損害を及ぼすのなら、それはもはや許されるミスではないわ。
やはりシビアなことを言って、相田さんはコーヒーを飲んだ。
「まあ、ミスするのは仕方のないことだし、新人に限らず誰にだってあるわ。それをフォローするのも仕事のうちだと思うわよ」
私だって新人の頃は先輩たちにいっぱい助けてもらったし、今だってみんなに助けられてるわ。とチームワークに重きを置く彼女は周りへの感謝を忘れない。
「だけど私は、肉屋に魚は注文しないわ」
そう言って相田さんは飲み終わったコーヒーの缶を持って立ち上がり、部屋を出て自販機の横のゴミ箱に捨てに行った。
相田さんの言葉を反芻して、彼女が俺に期待してくれているのだとやっと理解した。
彼女のわかりにくい優しさが、ちょっと嬉しくて、何だか可愛かった。
鬼の目にも涙、なんて、失礼なことを彼女に対して思ったのは、それから暫くしてからだ。俺も順調に仕事を覚えて、相田さんから注意される回数も減った頃。
外回りから直帰するはずだったのに、明日までに用意したい書類を忘れて会社に取りに行った。部屋のドアを開けようとして、ふとガラス越しに相田さんが見えた。いつもの凛とした彼女よりも心なしか元気がないように見えて、どうしたのだろうと思いながらドアに手を掛けた。
そして、彼女の頬に光るものがあることに気が付いた。
俺はどこかで、彼女は涙なんか流さないんじゃないかと思っていた。だけど、泣いている。あの相田さんが。
このまま入っていくべきか迷っていた俺を無視して、ドアがぎいと音を立てた。金具が緩くなっていたせいか、ドアノブに手を掛けただけで開いてしまったのだ。
相田さんはさっと頬を拭うと携帯電話を鞄にしまって振り向いた。
「桐島。どうしたの、今日は直帰じゃなかった?」
「書類を取りに来たんです」
相田さんの態度はまるでいつもの通りだったけど、その頬に涙の痕があることに俺は気づいていた。だけど、どうしたんですか?とは訊けなかった。彼女が泣くほどのことを、俺がどうにかできるとは思えなかった。でもだからといって、このまま帰るなんてできなくて、「飯、食いに行きません?」と誘った。
「いいね、何食べる?」
にこりと笑って相田さんは提案を受け入れた。
「焼き肉とか、どうすか?」
色気はないけど、がっつり食べられて気を遣わない。「いいね」と答えて「鳥クッパが食べたいわ」と相田さんは歩きだした。
「あ、書類、忘れないようにね」
この辺のしっかりしたところが、やっぱりこの人だなぁと思った。
あれから、彼女の涙を見たことなんて、ない。
ちらりと横を見やれば、テレビの映画に釘づけになっていた。完全に泣かしにかかっている悲恋物語の映画でも泣かなかったという彼女は、簡単には泣かないんだろうな。
今も、完全に泣き狙いのシーンなのに、涙ぐんだままきゅっと奥歯を固く噛んで彼女は泣かない。
「泣けばいいのに」
思わず口に出した俺を見やってから、相田さんはそっぽを向いた。
「人前で泣くのは嫌なの」
映画館でならともかく、俺の家で、周りには俺しかいないのに? それって、俺の前では泣かないってこと?
…泣いた顔が見たいなんて言ったら、変態とか怒られるかな。
じっと見ていたら、奥に涙を忍ばせた相田さんの目がこちらを向いた。
やべえ。かわいい。かわいすぎる。
思わず抱きよせてキスしようとしたら、「いいところなんだから邪魔しないで」と押し返された。彼女の目は再びテレビの画面に向いている。
手ぐらい握っても許されるよな、とそっと彼女の手の上に自分のを忍ばせた。それは許されたのか、あるいはテレビに夢中で気づいていないのか、彼女の手は逃げることなくそこに留まっていた。
…そういえば、あの時の彼女の涙は、何に対してだったんだろう?




