32 甘い名前 -citrus #8-
きっと、気づいていないのだろう。
「桐島、ちょっと手伝って」
「はい」
相田さんに言われて、桐島さんは顔を上げた。その頬が、心なしか緩んでいるように見えるのは、彼がいそいそと彼女のあとについて席を立ったからだろうか。
相田さんは、たぶん無意識なのだろうけど、何か手伝って欲しいことがあると必ず桐島さんを見る。桐島さんが手が離せない状況なら他の人に声を掛けるけど、彼が手伝えるようなら、最初に声を掛ける。
もちろん、内容によっては他の人のほうが適任ということもあるし、相田さんは効率を重視する人だから、そういう場合は最初から他の人に声を掛けるけど、荷物運びとか資料探しとか、そういう誰でもできる類の手伝いは、必ずと言っていいほど桐島さんに頼む。
そして桐島さんは、その頼みを絶対断らない。むしろ嬉々として彼女を手伝う。
仲がいいなぁ、とは、前々から思っていた。
桐島さんが入社した時の指導係が相田さんだったそうで、相田さんと同じようにバリバリ仕事をこなすようになった今でも、桐島さんは相田さんに指導を仰いだり相談したりしているらしい。
いわゆるイケメンの桐島さんは、私たち後輩女子社員の憧れの的なのだけど、彼が仲良くしている相田さんは、意外なことに後輩女子に敵視されることはなかった。というのも、彼女が桐島さんの先輩であるということと、彼女の持つさっぱりとした雰囲気が、彼と恋愛に発展しなさそうな安心感をもたらしていた。
むしろ心配なのは、桐島さんの同期の富永さんのほうだった。でも、女から見ても超絶カワイイ富永さんなら、まあ仕方ないかという感もあった。それに、彼女は左の薬指の指輪をくれた彼氏とラブラブだという噂で、後輩女子は安心していた。
だから、私も安心していた。あの二人を見るまでは。
電話を取ると、取引先の人から相田さんへの用件だった。「少しお待ちください」と言い置いて電話を保留し、私は資料室へ向かった。相田さんは桐島さんを連れて資料室へ行っているはずだ。
相田さんの名前を呼んで資料室のドアを開けた瞬間、バサバサッという音とともにいくつかのファイルが書棚から落下した。
「恭子、大丈夫?」
心配そうに桐島さんが彼女の髪についた埃を払う。
「桐島」
咎めるような口調で彼女は桐島さんを見上げたけれど、手を避けるつもりはないみたいだ。
ファイルが落ちたのと私の声とが重なって、二人は私に気づいていないみたいだった。開きかけたドアをそっと閉まるギリギリまで細めて、今初めて来たような素振りでドアを押した。
「相田さん」
今度は聞こえたようで、書棚の間から相田さんが顔を出した。
「お電話入ってます」
用件と相手を伝えると、「すぐ行く」と相田さんは答えた。「片づけておきますよ」と桐島さんが足元に落ちたファイルを指し、ありがとう、と相田さんはファイルを手に資料室のドアへ歩き出した。
「相田さん」
桐島さんが声をかけて、相田さんが振り向いた。
「一昨年の資料も探しておきましょうか?」
「うん、お願い」
頷いた相田さんは資料室を出て行った。
入れ替わりに私は資料室へ入り、相田さんの落したファイルを拾うのを手伝った。
「また派手に落としましたね」
「無理して高いところのファイルを取るからだよ」
苦笑して桐島さんは私が差し出したファイルを受け取った。落ちたファイルは書棚の上のほうのものなので私の身長では届かない。私が拾ったファイルを桐島さんが書棚に返してくれた。
「しっかりしてるくせに、こういうとこそそっかしくてさぁ、あの人って」
一瞬、間をおいてから桐島さんは、ふ、と頬を緩める。
「面白いよな」
でも桐島さん、顔は「可愛いよな」って言っているように見えますけど。
相田さんが探している一昨年の資料を探すのを手伝うと申し出て、私は桐島さんと二人、書棚を眺めていた。
「大塚さん、相田さん厳しくない? 大丈夫?」
書棚に目を配らせたまま桐島さんが尋ねた。私が今、相田さんのアシスタントをしているからだろう。
「厳しいですけど、優しくしてもらってます」
確かに、相田さんは仕事にはシビアだ。だけど彼女は、ミスをしたからといって後輩を怒鳴り散らすようなことはしない。理論的に諭して、ミスのカバーは迅速だ。
「女の子には優しいのか」
ちょっと不満そうに桐島さんは呟いた。顔を見やると、「俺にはキツかったからさぁ」と笑った。「あんたが新人かどうかなんて、客には関係ないことよね」なんて、入社二年目の自分と一つしか変わらない女に言われた時は、どういう人かと思ったけど、と、そう言う桐島さんの横顔は穏やかだ。
「今なら、わかるな」
相田さんが仕事に厳しいのは、もちろん性格もあるのだろうけど、彼女のキャリアもあるのだろう。
相田さんは大学時代からこの会社で働いていたそうだ。桐島さんの話では、最初は事務職のバイトだったけど、彼女の有能ぶりに上司がアシスタントにしたらしい。そして就職活動の際には部長に頼まれて入社試験を受け、見事合格。一年目のうちにアシスタントからスタッフに昇格し、桐島さんが入社した頃には既にホープ。そして、今やエースだ。
「でも、相田さんみたいな人って、彼氏は大変そうですね」
桐島さんが書棚から私に視線を移した。
「あんまり彼女が仕事できると、男の人は大変じゃありません?」
世の中男女平等だとか言っても、結局男は自分の自尊心を立て、支配欲を満足させる女が好きなのだ。少しくらいバカでか弱いほうがいい。相田さんみたいにバリバリ働く自立心の強い制御不能な女は、彼女以上の仕事ぶりを求められているようで、プレッシャーになりかねない。
そうかな、と呟いた桐島さんは、書棚を目で追って、一冊のファイルを引き抜いた。
「そんなの、彼氏も頑張ればいいんじゃないの」
資料見つかったよ、と私に微笑む桐島さんは、余裕さえ感じられた。資料室を出ていく桐島さんについていきながら、さっきの二人の様子を思い浮かべる。
桐島さんが口にした彼女の名前の甘い響きが耳に残る。どこにでもある普通の名前なのに、彼が口にする名のなんと甘美なことか。あんな風に、私もこの人に名前を呼ばれたいと思った。
だから、相田さんに挑戦状を突きつけるつもりで、相談のふりをして私は桐島さんが好きなのだと告げた。一瞬、彼女は目を丸くして、けれど思いのほか薄い反応で、「あ、そう」とだけ言った。
私が彼を好きなことを、何とも思わないのだろうか? それとも、私など敵ではないのだろうか?
彼の心は、彼の視線がいつも彼女に注がれるように、いつでも彼女に向けられているから。それを、彼女は知っているから。
「…余裕、なんですね、相田さんは」
仕事も恋愛も、彼女はいつだって悠々と構えている。まるで、動揺することなどないように、彼女はいつでもブレない。
羨ましい。…ああ、ちょっと違うな。
私は、彼女が妬ましいのだ。




