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31 神のまにまに -bee #10-

 二人きりの残業は、パソコンのキーボードを打つ音と紙ずれの音と、時々すするコーヒーの音だけが部屋に響いていた。

「相田さん」

 不意に、一緒に残業をしていた大塚さんが声を掛けた。今回の仕事で私のアシスタントに付いている入社2年目の女の子だ。

 なに?と目を遣ると、遠慮がちに続きを口にした。

「恋愛相談とか、してもいいですか?」

「どうぞ。私で役に立つかわからないけど」

 基本的に他人の恋愛に興味がないというスタンスは貫いているが、相談を持ちかけられれば断ったりはしない。相談するような人は、誰かに自分の話を聞いて欲しいのだ。

「実は私、好きな人がいるんですけど、何だかその人に相手にされてないような気がして」

 どこかで聞いたような相談内容だ。

「それは、アプローチしていて相手にされないってこと?」

 どこかで答えたような言葉を返す。

「好きですオーラは出してるつもりなんですが…」

「甘いね。オーラなんて、そんなの見えないわよ」

 マンガじゃあるまい、そのオーラに好きですって書いてあるのが見えるなら話は別だけど、現実問題、本人が好きなつもりなだけじゃ、相手には伝わりっこない。

「相手が大塚さんのことを好きだっていうならともかく、もっとわかりやすく伝えないと、相手には伝わらないわよ」

「…やっぱり、そうでしょうか」

「そう思うわ」

 想いを言葉や行動にしなくても、態度やオーラだけで伝えられるのならば、きっと世の多くの人は恋愛で悩んだりしない。恋の歌も生まれないし、恋愛映画も流行らないだろう。

「わかりました。もっと積極的にアプローチしてみます」

「そうしてみれば」

 自分自身で答えが出たようなので、私は再び仕事に集中しかけた。

「…本当に、いいんですか?」

 何のことだか意味がわからなくて顔を上げた。こちらに向けられた大塚さんの目は、いつになく真剣だ。

「私が好きなのは、桐島さんなんですよ」

 大塚さんの挑戦的な眼が私を見つめる。

「──あ、そう」

 他に、何と答えればいいのだろう。

 会社では公言していないけれど、桐島と私は、世間でいうところの「お付き合い」というものをしている。だけど、だからといって、私に彼女の想いを止める権利はない。彼女が桐島を好きなのは彼女の勝手で、もし万が一桐島が彼女になびいたとしても、それはそれで仕方のないことだ。「付き合う」という行為だけでは、人の心を制限することはできない。

「…余裕、なんですね、相田さんは」

 ぼそりと呟いた彼女の言葉には険があるようだった。

「いえ、仕事もできて、恋もうまくいってて、羨ましいな、って」

 彼女は取り繕うように笑顔を見せた。



 余裕なんて、本当はない。恋愛に自信なんてあるわけないし、桐島とのことは、いつでも桐島に甘えてしまって、心苦しいばかりだ。

 今日だって、本当は一緒に食事に行こうと約束していたのに、私の仕事にトラブルがあって、その約束を反故にしてしまった。しかも、今回が初めてのことじゃない。桐島は仕事のことだから仕方がないと許してくれるけれど、これが女なら「私と仕事、どっちが大事?」なんて言いかねない。

 こういう状況が桐島にだってないわけじゃない。もちろん私は桐島の仕事をわかっているから「私より仕事が大事?」なんて言うわけもないけど、そういう時、桐島は必死で謝って、どちらかというと桐島のほうががっかりしているようで、可愛く思えてしまう。

 これじゃあ、どっちが女でどっちが男かわからない。

 仕事がひと段落してキーボードを打つ手を止めて、背もたれに背を預けて両手を上げて伸びをした。

 あんな話の後では一人のほうがはかどるので、大塚さんには、もう一人で大丈夫だからと帰ってもらった。

 不意に、静かになった室内に携帯のバイブ音が響いた。バッグの中から携帯を取り出して確認する。メールの着信があったことを液晶が告げていた。桐島からだ。

 メールを開くと、

「会いたい。」

 それだけの短い文面が見えた。

 桐島は、いつでもストレートだ。自分の感情に正直で、正直羨ましくもあり、それにいつも救われている。

 返信しようとして、手を止めた。それから、アドレス帳で桐島の名前を検索し、コールボタンを押す。

「もしもし、恭子ゆきこ? 仕事終わった?」

 電話から桐島の低い声が聞こえる。うん、と返答して約束をダメにしてしまったことを謝ると、気にしなくていいよと優しく言われた。

「お疲れさま」

 低い声が耳に心地いい。電話だと桐島の声が耳に直接響いて、桐島と電話をするのは、結構好きだ。

「…今から、来る?」

 期待を込めた声で訊かれて、肯定以外の返事をできるわけもない。こういう時の桐島は、ご主人の帰りを玄関先で待っている忠犬を想像させる。

「うん」

「待ってる」

 頷くと、電話の向こうの甘やかな微笑が見えるような気がした。


 桐島の家に着いてインターホンを押すと、待ちかねたように桐島がドアを開けた。お疲れさま、と私を労って招き入れる。

「桐島、ごめんね、約束ダメになっちゃって」

「まだ言ってんの?」

 苦笑して桐島が振り向いた。

「気にしなくていいって。こういうこと、俺だってないわけじゃないし。それに、今会いに来てくれただけで嬉しい」

 桐島の両手が私の頬を包んで額を寄せられた。

 チクリとどこかが痛む。大塚さんの気持ちを知りながら、私は桐島の温もりを、愛情を両頬に感じて、桐島の優しさを独占している。

「何かあった?」

 私の顔を覗き込んで桐島が訊いた。

「え?」

「浮かない顔してる」

「何でもないよ」

 下手なごまかしが通用するわけもなく、両頬を掴まれたままじっと見据えられた。綺麗な顔に睨まれて視線を逸らそうとするけれど、桐島はそれを許さない。

「……桐島のことを好きだっていう人の話を聞いて、ちょっとね」

 仕方なく降参して正直に話した。

「ちょっと、何?」

 桐島がさらに顔を覗き込む。わざと必要以上に近付けているんじゃないかと疑いながら、その手から逃れる術もなく視線だけを泳がせる。

「ちょっと、…悪いなぁって」

「何で?」

 桐島が眉根を寄せた。

「俺が好きなのは、恭子だよ」

 まるで、それ以外のことはどうでもいいと、関係ないとでもいうかのように桐島は言い切った。

 確かに、桐島が好きだと言ってくれるのは私で、大塚さんが桐島を好きだということを知ったからといって、私が罪悪感を抱く必要はない。

 だけど、桐島が私を求めてくれるように、あの子も桐島を求めているのだとしたら…。

「恭子は、その人に悪いから、俺を差し出す?」

 私の思考を遮るように桐島が尋ねた。桐島の瞳は真摯で、私を責めているのではなかったけれど、試しているようにも思えた。首を横に振れば、満足そうに微笑んで抱きしめられた。

「頭で考えないで、心で感じてよ」

 耳元で囁かれる低音は、何だか淫靡な響きを持つ。

「…桐島、何かいやらしい…」

「そう?」

 ふう、と耳に息を吹きかけて桐島は微笑んだ。

 不意に、桐島が唇に触れた。与えられたそれは酷く熱くて、情というものが熱を持つなら、こんな温度なのかもしれないと何となく思った。

 桐島の熱に応えるのは、頭で考えた結果ではなくて、その場の流れや成り行き。でもそういうのは、心で感じた結果なのかもしれない。


 すべては、心のままに。

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