28 One more XXX… -bee #9-
プロジェクトが終わったあと、通常業務に戻れば他部署の人と会うことは少ない。富永とも廊下ですれ違うくらいで、あまり会っていなかった。久しぶりに資料室で顔を合わせたら、彼女の左手には幸せが乗っていた。
「…訊くべきかな。その指輪は?」
左手に目を向けた俺に、富永が訊いて欲しそうに視線を返したから、一応訊いてみた。
「彼にもらったの」
芸能人の結婚記者会見のように指輪をこちらへ向けて、幸せオーラ全開で彼女は微笑んだ。
彼女の左手の薬指に光るリボンとハートをモチーフにした華奢なデザインのその指輪は、彼女の細い指にピッタリで、まるで彼女のためにあつらえたかのようだった。
それは、その贈り主が、どれほど彼女を想って選んだのかを窺えた。
「へえ、彼氏できたんだ」
前は彼氏がいないと言っていた。プロジェクトのあとのことだろう。
「うん、割と最近なんだけどね。ほら、前に水族館で会ったでしょ。あの人」
あの時はまだ付き合ってなかったけどね、と富永が付け加える。
「ああ、あの…」
相田さんが『素敵』と言っていた、あの男ね!
「…お似合いだって、相田さんが言ってた」
「ほんと? 嬉しいな」
照れたように微笑む富永は、何も知らなければ、この上なく可愛い。あの男も、この笑顔にヤラレたクチか。
「面白くなさそうな顔してるけど、どうして?」
「…いや、相田さんって、ああいう男が好きなのかなと思って」
「変なこと言うのね。相田さんが好きなのは、桐島くんでしょ?」
富永には、相田さんと付き合っていることを教えていた。
独身同士の男女の付き合いなのだから別に隠す必要もなかったが、殊更言いふらす必要もなかったし、仕事がしづらくなっても困るので公言はしていない。けど、富永には当初から俺の気持ちはバレていたし、応援もしてくれていたから、付き合い始めて少ししてから相田さんの了承を得て教えてある。
「あの時、イイ男だって褒めてたから」
「私の彼なんだから、イイ男なのは当然よね」
さらりとノロケて富永は続ける。
「相田さんと彼は気が合いそうだけど、タイプとかそういうことじゃないと思うわ。だってあの二人、何か似てる」
「似てるか?」
「うん。冷静で計画的で理論的なとこが似てる。でも、恋愛って、自分にないものを相手に求める傾向があるでしょ。だから、相田さんには、桐島くんみたいな人が合うと思うな」
「俺みたいな人?」
「そう。感情直結型行動派」
…それって、猪突猛進てことですか?
「人をイノシシみたいに言うなよ」
「あら、違うの?」
「…そうなりたいくらいだよ、いっそ」
そう。何を隠そう、付き合い始めてこのかた、いい年した男と女が、未だにチューのひとつもしていないというこの惨状!
感情のままに行動できたなら、どんなにいいか!
だけど、原因は俺にあることは明白だ。相田さんは、自ら進んでそういうことをするタイプじゃない。いや、そうしてくれても俺は一向に構わないんだけど。踏み切れないのは、俺が犯した過ちにある。
付き合う前、無理やり彼女の唇を奪ったあの時、『二度としないで』と涙を溜めて睨んだ彼女の目が忘れられない。またあんな風に拒絶されたらと思うと、身が震える。
「何? 何か悩み事? 相談に乗るわよ」
と、半ば面白がっている富永には、絶っ対に相談しない。こんなことを相談したら、富永は笑い転げるに決まっている。
くそう。男は繊細なんだよ。一度拒まれたら、なかなか手が出せないんだよ。悪かったな、小心者で。
「へえ、じゃあ富永さん、あの幼馴染の彼と付き合ってるんだ」
俺が富永から聞いた話を伝えると、お似合いだったもんね、と納得したように相田さんは助手席で頷いた。
車を停めるとドアを開けて降りる。俺も降りて、相田さんと一緒に歩き出した。前に相田さんを連れてきた海に近い展望台だ。ドライブデートをしていたら、相田さんがまた行きたいと言うので連れてきたのだ。
「じゃあ、今は幸せいっぱいなのね」
「いや、そうでもないみたい」
俺に顔を向けて首を傾げる相田さんに事情を教える。
「彼が東京に転勤になって、今は遠距離なんだって」
「そう。それは寂しいね」
「もし、俺が転勤になったら、その…」
思わず訊いたくせに、途中で勇気がなくなって最後まで言葉にしないで開いた口を虚しく閉じた。
「大丈夫、ちゃんと寂しいわよ」
俺の心を読んだかのように相田さんは微笑んだ。
彼女が、俺がいないことを寂しいと思ってくれるということが嬉しかった。そして俺が考えていることを理解してくれるということも。
「恭子」
展望台に上るのを助けるふりをして手を取った。展望台に上りきっても離されない手に幸せを感じる。何て簡単な幸せだと思ったけれど、海を眺める彼女の横顔を見ていたら、やっぱり人間とは貪欲なものだと悟った。
手を引いて彼女を引き寄せ、俺を見上げる彼女に目線を合わせる。彼女が逃げないのをいいことに、そのまま顔を近づけた。
「待って、後藤くん」
若い女の子の声に、若い男の声が続く。
「早く来いよ、楠木」
反射的に体を離した俺たちの前に現れたのは、一組の高校生カップルだった。部活帰りなのだろう、二人とも制服を着ていた。その制服は、かつて俺が通っていた高校のものだ。
「帰ろうか」
相田さんが言って、仕方なくそれに従った。高校生がぺこりと頭を下げる。
そういえば、前にもここで後輩たちに邪魔をされたと思い出した。まったくどいつもこいつも、先輩の邪魔をすんなよ。
夕食を終えて、相田さんを家まで送り届けた。シートベルトを外した相田さんは、「ありがとう」とお礼を言って車を降りた。
そして、車を回って運転席側までやってきた。腰をかがめて窓を覗く。どうしたのかとパワーウィンドウを下ろして顔を出した。口を開く前に、柔らかく口を塞がれる。目の前で相田さんの長い髪がさらりと揺れた。
「じゃあね、おやすみ」
照れたように笑って、相田さんは手を振った。そして踵を返して小走りに家に入っていく。その後ろ姿を茫然と見送って、数分前のことを脳内でリプレイしようと試みる。
彼女が触れたはずの唇に指で触れる。
「~~~やられた…」
シートに背中を預けて天井を仰いだ。
あんな不意打ち…
嬉しくないわけないだろう!!
「…高校生か、俺は」
こんなことで舞い上がって。たかがキス。されどキス。
彼女がすぐに立ち去って良かったと思った。こんなニヤけた顔、とても見せられない。車内じゃなくて良かった。もし助手席にいたなら、間違いなく今頃押し倒していた。
至福と貪欲とをない混ぜた溜め息をひとつ吐いて、サイドブレーキを降ろした。




