27 彼の恋人 -citrus #6-
その人は、何一つ変わっていないようで、でも確かに大きく変わっていた。
食堂で昼食を取っていると、一緒にいた同僚が「あ、あの人」と指を差した。その先には二人の男の人がいた。一人は、名前は知らないけれど何度か社内で見かけたことがある。もう一人は…。
「噂の支社から神田課長が引っ張ってきたっていう人でしょ?」
神田課長は、やり手といわれている出世株の人だ。その彼が、新しいプロジェクトのために支社から有能なスタッフを引き抜いたという噂は、社内では有名だ。
同僚が指差したその人が、こちらに視線を向けた。慌てて手を降ろした友達の隣にいる私に視線を留める。
「…真理子?」
彼の口が動いて、私の名を呼んだ。
切れ長の目に捉えられて、昔と同じように身動きが取れなくなった私は、やっとの思いで相手を示す言葉を口にした。
「…会長…」
「ああ、やっぱり。良かった、人違いじゃなくて」
ふ、と目じりを緩める笑顔は、昔と同じだ。
ランチプレートの乗ったトレーを手に近付いてきた彼は、「ここ、いいかな?」と私の前の席を示した。頷く私の隣で、同僚が私と彼の顔を交互に見遣っている。
「知り合い?」
彼の隣の席に座った彼の同僚らしき人が訊いた。
「高校で、生徒会を一緒にやってたんだ」
「沢村先輩が生徒会長で、私が会計だったんです」
私の説明に、友達が頷いた。私が彼を「会長」と呼んだことに合点がいったのだろう。
「この会社だったんだ」
「はい。経理部にいます」
「そうなんだ。俺はこの春に支社から来たばっかりで。驚いたな、本社に知り合いがいるなんて」
私も驚いた。彼が地元の大学に進学したことを知っていたし、私は東京の大学に行って就職した。まさか、もう二度と会うこともないだろうと思っていた彼と、同じ会社に勤めていたなんて。大きな会社だから、本社と支社の交流はほとんどない。だから、本社と支社にそれぞれに採用されていた私達は、互いのことを今まで知らなかったのだ。
支社から来た噂の人は、苗字くらいは聞いたけれど、沢村なんて珍しい苗字じゃないから、まさか会長だとは思っていなかった。
経理部では、新年度から新しい処理システムを導入していて、その調整に忙しかった。4月は何とか乗り切ったものの、5月末に向けて改良の必要があったのだ。定時を過ぎても、大半の人が残っていた。
「真理子」
会長が遠慮がちにドアから顔を出した。会長は、再会してからも昔と変わらずに私の名前を呼んでくれていた。
席を立って会長に近付くと、視線がついてくる。この部署の多数を占める女性のものだ。彼女達は顔を上げないまでも周りの様子を窺っている。
「忙しそうだね」
会長は手にコートと鞄を持っている。「お帰りですか?」と訊くと、取引先との打ち合わせから戻ってきたところで、これからまだひと作業あるのだという。
「これ、あげるよ」
会長が差し出したのは、チョコレートの箱だった。私が高校生のころ好んで食べていたものだ。
「打ち合わせの帰りにコンビニで見つけて、そういえば、真理子が好きだったと思って」
「ありがとうございます。でも、よく憶えてましたね」
嬉しさが込み上げる。
「茉里絵も好きだったから。二人ともよく食べてただろ」
「…会長も、好きでしたよね」
自分の分も買ってきたよと会長が笑う。甘いものが好きで、生徒会室の会長机にはいつも飴やチョコレートが入っていた。疲れた時には、よくみんなにくれたものだ。
「会長は、もういいよ。もう会長じゃないし」
「あ、じゃ、沢村先輩」
会長は微笑んで、頑張って、と励まして足早に自分の部署へ戻っていった。会長のいるチームは、ここよりもずっと忙しいのだ。
自分の方が忙しいくせに、周りに気を配って声を掛けていた姿を思い出した。
彼は、生徒から圧倒的な人気を誇る生徒会長だった。教師陣からの信頼も厚い。新しいイベントを作ったり、既存のイベントに新方式を導入したりと、生徒会行事を革新した。その分、生徒会は忙しかった。けれど、彼が役員から絶対的な信頼を与えられていたのは、ああいう気遣いがあったからなんだと思う。
会長が頑張っているのに、自分も頑張らないわけにはいかない。そんな風に思わせる人だった。
会長が廊下を歩いていくのをちょっと見送ってから席に戻った。興味津々の呈で、周りが顔を寄せる。
「ね、あれ、噂の沢村さんでしょ?」
「もしや真理子ちゃんのカレ?」
「いえ、あの、高校の生徒会で一緒だっただけで…」
会長の彼女だなんて、恐れ多い。あの人には、大人で綺麗な人が似合う。高校の時だって、そういう人と付き合っていた。
「でも、名前で呼んでるじゃない。仲いいんでしょ」
「沢村先輩は、生徒会のみんなを呼び捨てにしてましたよ」
高校の頃、会長は同級生以下はみんな苗字で呼んでいた。私が苗字で呼ばれないのは、同じ苗字の子が生徒会にいたからだ。だから私と、もう一人の鈴木くんのことは下の名前で呼んでいた。
会長が、そういう理由じゃなく名前を呼んでいたのは、茉里絵先輩くらいだ。
名前が似ているだけに、会長が茉里絵先輩を呼ぶ度にドキッとしていた。しかも会長が茉里絵先輩を呼ぶ回数は多い。
茉里絵先輩は生徒会役員ではなかったけれど、生徒会室によく顔を出していた。
そろそろ帰ろうかと上司が言って、みんなで片づけを始めた。昼間出してきた資料をしまうのを忘れていたので、帰る前に書類を資料室へ片付けにいった。資料室からの帰り、会長のいる部署の前を通りかかったら、まだ灯りがついていた。
会長が一人でパソコンに向かっている。私は給湯室へ行って紅茶を淹れた。
「どうぞ」
机に紅茶を置くと、会長が顔を上げた。
「ああ、真理子、ありがとう」
紅茶を飲んだ会長が嬉しそうに目を細める。
「俺好みの味、憶えててくれたんだ」
会長の紅茶は、砂糖が二杯と決まっている。
「茉里絵先輩に教わりましたから」
コーヒーには砂糖を一杯半、コーヒーも紅茶もミルクはなしと言われていた。茉里絵先輩は他の生徒会メンバーの好みも覚えていた。しかも、会長の気分に合わせて出すものも変えていた。普段は緑茶、単純作業をしている時にはコーヒー、疲れている時には紅茶といった具合だ。
「そういえば、茉里絵先輩は、お元気ですか?」
「うん、連休に会ったけど元気だったよ」
その返答に、彼らが今でも仲が良いのだと簡単にわかった。今は東京にいるはずの会長が、連休に実家に帰ってわざわざ茉里絵先輩に会ったのだ。
この間も電話で真理子のこと話したら懐かしがってたよ、という報告に笑顔を作る。
「相変わらず、仲がいいんですね」
まあね、と答えて会長は一瞬考えた。それから、ちょっと迷った様子で口を開いた。
「実は、今は付き合ってるんだ」
「…茉里絵先輩と?」
うん、最近なんだけどね、と会長が笑う。
「──意外、です。なんだか…」
高校生の頃、二人は仲のいい幼馴染だったけど、そういう風ではなかった。しかも、会長の彼女は大人っぽくて綺麗だったし。
「俺も、こうなるとは思ってなかった」
「どうして、付き合うことにしたんですか?」
こんなことを訊くのは失礼かとも思ったけど、我慢できずに訊いた。
「あんなに可愛い生きもの、他にいないからね」
さらりと言って、会長は紅茶を飲んだ。
確かに茉里絵先輩は可愛かったけど、会長の彼女とはイメージが違った。私の中では、やっぱり会長の彼女は、沙樹先輩のような人なのだ。




