25 レーゾンデートル -apple #12-
俺にとって、茉里絵は当たり前の存在だった。
そこにいるのが当たり前で、離れることなどないと思っていた。あいつが俺から離れられるはずがないと。
おばさんに叱られた時も、友達と喧嘩した時も、誰かにいじめられた時も、男に振られた時も、茉里絵は俺を頼って甘えてきた。それは時に疎ましく感じることもあったが、俺が彼女を突き放すことはなかった。
茉里絵は俺がいなければ駄目なのだと、子どもの頃から思い込んでいたから。
だから、自立すると言われた時には少し寂しくもあった。でも、それはいいことだと言い聞かせた。俺も茉里絵も自立して、そうして幼馴染でいられればいいと思った。
だけど、茉里絵からの連絡が減って、会うことも頼られることも減ると、急に不安になった。
いつも当たり前だと思っていた茉里絵が、当たり前でなくなってしまう、と。
幼い頃からずっと、家族のように、妹のように、友達のように、時に恋人よりも深く、大切に愛しんで守ってきたはずなのに。
この手を離れてしまったら、もう手に入らない。
そこへ、あの話が出て余計に焦った。
今を逃せば、二度と抱き締められなくなるかもしれない。茉里絵が、当たり前のように俺に体を預けることはなくなるかもしれない。
だから、卑怯だとは知りつつも、あの日、彼女を落とした。ああ誘えば、拒まないと知っていた。
どんな顔をすればいいのかわからないと恥らう茉里絵を捕まえて、もう逃げられないように抱き締めた。茉里絵は俺の腕の中にすっぽり収まって、おとなしく頭を預ける。
小さくて柔らかくて、いとおしい。
「ひであき…すき…」
そう言った茉里絵を可愛いと思った。だけど、彼女にそう言わせておいて、自分は何て卑怯なんだと思った。後ろめたさを悟られないようにキスをした。
「…いや」
肩を押し返した茉里絵が顔を背けた。
「…何で?」
今まで拒否なんてしなかったのに、急に茉里絵は不機嫌になった。
「だって、秀明、何か隠してる」
「え?」
「隠し事、してるでしょ」
確信めいた口調で茉里絵は俺を上目遣いに睨んだ。
「…伊東に聞いた?」
「聞いてない。ただの勘」
てっきりあの話を知っている伊東が茉里絵に話したのかと思ったけど、墓穴を掘っただけだった。伊東は、俺にちゃんと話すように言っていたのだ。
「あかりちゃんには言えて、私には言えないことなのね」
拗ねているというよりは、怒っている口調だった。
「茉里絵」
いつもの調子で機嫌を取ろうと手を伸ばすと振り払われた。
「バカにしないで。わかるのよ、秀明のことくらい」
茉里絵が俺を睨みつける。その目には、涙が浮かんでいる。
「秀明は、ずるい。いつも何も言わない」
今にも泣きそうな茉里絵に手を伸ばしたいのに、振り払われるのが怖くて手を出せない。
「昔からそうだった。高校受験の時も大学受験の時も、志望校を教えてくれなかった」
志望校を教えなかったくらいで大げさだと思った。個人の進路だし、いちいち言う必要もないと思っていた。それに、
「同じ学校だっただろ」
「あれは、おばさんに聞いたの。同じ学校に行きたかったから。教えてもらえなかった私の気持ち、わかる?」
俺は、茉里絵に志望校を言わなかったことさえ憶えていなかった。気付けば茉里絵は俺の志望校を知っていて、自分も同じところを受けると言っていたから。単に学力レベルが一緒だから同じ学校なのだと思っていた。
「秀明は、いつもそう。大事なことは、私には言わない。生徒会長になる時も、陸上部を辞める時も、私のせいで彼女に振られた時も」
彼女に振られたのは、理由が茉里絵だなんて、本人に言えるわけがない。第一、俺が彼女に振られたのは、茉里絵のせいではなく俺のせいだ。
でも、生徒会長と陸上部の話は、報告だけでもするべきだったのかもしれない。生徒会長になることも、陸上部を辞めることも、俺が勝手に決めたことで、茉里絵には関係のないことだと思っていた。だけど、茉里絵は今も俺が話さなかったことを気にしている。
「秀明にとって私は、昔も今も、大事なことも話せないような相手なの?」
茉里絵の目はもう限界だった。立ち上がった瞬間に涙が落ちた。茉里絵は俺の手をすり抜けて玄関へ向かった。
「茉里絵!」
慌てて追いかける。部屋を出て行こうとする茉里絵の腕を掴む。俺の手を振り払って茉里絵は振り向いた。涙をいっぱいに溜めた瞳で俺を睨む。
「秀明は、私のこと疎ましいと思ってるんでしょ。面倒臭い女だって」
「茉里絵、聞いて」
伸ばした手を茉里絵は避けて耳を押さえた。
「いや、聞きたくない。あかりちゃんには話したくせに、私には話せないことなんでしょ」
両手首を掴んで動きを封じて口を塞いだ。静かになったところですかさず宥める。
「少し黙って。俺の話を聞いて」
俺を睨みつけたままの茉里絵の目からは大粒の涙がボロボロとこぼれた。
茉里絵を抱き寄せて髪を撫でる。秀明はずるいと茉里絵が小さく文句を言った。
「言わなかったんじゃない、言えなかった」
本当は、あの日、ホワイトデーのお返しを渡すのと一緒に、この話をするつもりだった。だけど、思わぬ方向に事態は展開して、機を逸した。それに、あそこで言えば、茉里絵が手に入らないと思った。離れていくことがわかっていて、茉里絵が承諾するはずがないと思った。
「…転勤が決まった」
「…どこ…?」
顔を上げた茉里絵が不安そうな声で訊いた。
「東京。前に、一ヶ月くらい出張してた時があっただろ」
「本社のプロジェクトに参加するって言ってた時?」
そう、と頷いて語を継ぐ。
「その時の上司が、新しいプロジェクトを興すことになって、そのチームに俺を呼んでくれた」
年末にこっちの上司である小田部長からその話をもらっていた。向こうで俺を指名してきたと。まだプロジェクト自体も本決まりではなかったけど、まず間違いないだろうと小田部長は言った。
いい話だとは思った。
「その話を聞いた時、最初に考えたのは、茉里絵のことだった」
右手で茉里絵の頬に触れる。茉里絵は振り払わなかった。黙って俺を見つめていた。
「東京へ行ったら、もう泣いていてもすぐに駆けつけられない。俺がいなくて大丈夫かって」
「…そんなの、心配しすぎ。もう子どもじゃないわ。大丈夫」
今までだって、自立するって言ってから、秀明にあんまり頼らなくなったでしょ、ちゃんと一人で頑張れるようになる、と茉里絵は笑ってみせた。
「大丈夫じゃないのは、俺のほう」
小さな体をきつく抱き締める。
今さらだけど、やっと気が付いた。
俺にとって茉里絵は、当たり前の存在だけど、それだけに特別だってことに。
当たり前に特別なのだと。
「本当は、迷ったんだ、こうなること」
自分の気持ちを一方的に押し付けて、去って行くなんて、卑怯だと思った。茉里絵は、遠距離恋愛を嫌う。傍にいなければ意味がないと泣いているのを見たことがある。
「でも、離れていても、茉里絵が俺のものだと思える確証が欲しい」
今まで、幼馴染のような関係だった俺達には、距離の短さしか互いを繋ぐものがなかった。離れたら、疎遠になってそのままになってしまうかもしれない。
物理的には離れていても、繋がっていると思えるものが欲しい。俺が彼女のものだと、彼女が俺のものだと思える関係が。
「…私はもうとっくに、ずっと前から秀明のものだよ。知らなかった?」
俺を見上げて茉里絵が微笑んだ。
我儘で、自分勝手で、突発的で、マイペース。とにかく手のかかる女だけど、それでも俺にはかわいくて、愛らしくて、いとおしい。
彼女こそが、俺の存在理由。




