23 The SPEED STAR -citrus #5-
実を言うと、私は彼に憧れていた。
彼を知ったのは、高校一年の秋。いつもは体育館で行っているバスケ部の練習が、他の部の都合で体育館が使えず、グランドで基礎体力作りになった時だった。
陸上部が練習するトラックの近くを通った瞬間、私の目は彼に釘付けになった。
しなやかに、軽やかに、まるで風のように、彼は走り抜けていった。
「…あれ、誰? すごい速い」
「ああ、7組の沢村くん。速いはずだよ、インターハイに出るくらいのスプリンターだもん」
一緒にいた友達は彼のことを知っていたらしく、7組の委員長だよ、と教えてくれた。
二年生になると、私は彼と同じクラスになった。そして、みんなの圧倒的な支持でクラス委員長になった彼につられる形で私は副委員長になった。
それから、彼のことが気になって注目していると、彼は人気がある人なんだと知った。クラスメイトからの人望も厚く、友達も多い。中学の時は生徒会長をしていたらしい。彼に憧れる女子も結構いた。
彼を知るうちに、彼に(広い意味も含めて)好意を抱いている女子に嫌われている女の子の存在も知った。
彼女でもないくせに、いつでも当たり前のように彼の隣にいるその子のことを、私も嫌いだった時期がある。
「どうしよう、あかりちゃん」
私を呼び出したカフェの席に着くや否や、彼女は言った。
嫌いだったはずの、見るからに可愛らしいこの女の子と、何で仲良くなったのかとふと考えた。そして、彼が生徒会長になって初めてのイベントの球技大会の実行委員で一緒になったのがきっかけだと思い出した。隣のクラスだった彼女とは必然的に一緒に活動する機会が多く、話してみれば、見た目よりもしっかりしていて真面目だった。
そして何故か彼女に懐かれてしまい、同性とはいえ可愛い女の子に懐かれたら悪い気はしないので、何だかそのまま友達になってしまったのだ。
「どうしようって、今度は何よ?」
彼女の「どうしよう」は、八割方「どうでもいいよ」という内容の相談だ。だから、いつものように軽く受け流した。
いつもならマシンガントークさながら相談事を話し始めるのに、今日に限って彼女は逡巡しているようだった。
「秀明と…」
思い切ったように顔を上げたかと思えば、尻つぼみに声が小さくなり、口の中でもごもご言っているだけで、何のことだかわからない。
「沢村くんと喧嘩でもした?」
当たりをつけてみても、真っ赤な顔で首を左右に振るだけだ。
「じゃ、何よ、茉里絵?」
「秀明と…………しちゃった」
まるで男の子に告白する女の子みたいに頬を真っ赤に染め上げてうつむき、消え入りそうな小さな声で彼女は言った。
彼女の様子から、その意味を理解するのに苦労はしなかった。
「…あー、そう。よかったね。おめでとう」
「全然よくないよ!」
眉を八の字にして、茉里絵は顔を上げた。
「何でよ? よかったじゃない」
「よくないよ。…だって、どういう顔すればいいのかわかんないし…」
「もしかして、その後会ってないの?」
そう訊けば、彼女は頷き、それどころか、電話もメールもしていないと言う。彼からの電話は恥ずかしすぎて出られず、メールも何と返信していいかわからない、と。
「…呆れた。沢村くん、可哀想。それじゃ、あんた、やり逃げだよ」
うぅ~と唸った茉里絵はテーブルに突っ伏した。
「だって、だって、まさか、あんなことになるとは思ってなくて。もう、どういう顔して会えばいいのか、わかんないの」
はあ、と溜め息をついて再び呆れた。
「今さら、なに照れてんのよ。今までだって端から見ればラブラブバカップルみたいなもんだったんだから、それに行動が伴っただけじゃない」
茉里絵は物言いたげにこちらを潤んだ瞳で見つめている。
「だいたい茉里絵、あんなに沢村くんと仲良くて、お互い好きだなーとか感じたことなかったわけ?」
「だって、秀明とは、そういうんじゃなかったから」
拗ねたように茉里絵はうつむいた。
「私が秀明を好きなのは当たり前のことで、秀明が私に優しいのも当たり前だったから…」
「何それ、ノロケ?」
もう、だから嫌なのよ、この人たち。
「私は、高校生の頃から、あんたたちが上手く行けばいいなって思ってたわ。もういい加減、面倒臭いから、さっさとくっついちゃってよ」
そう言って、きちんと沢村くんと話をするように命じた。
通勤途中でその背中を見つけて声を掛けた。
「おはよう、沢村くん」
「ああ、伊東。おはよう」
彼は私に合わせて歩調を緩めた。
「聞いたわよ」
ポーカーフェイスな彼に動揺が走る。「何を?」と問う彼に、たっぷり間をあけてから語を継いでやった。
「取引先の部長の娘とお見合いするんだって?」
「…何だ、その話か。それなら断ったよ」
拍子抜けしたように彼は答えた。「津田から聞いた?」と尋ねられたので、内緒ね、と前置きして私に教えた犯人の名前に素直に頷いた。
「でも、いい話だったんでしょ。小田部長、残念がってたって」
実は断ったことも津田くんから聞いていた。
「その気がないのに会っても意味ないだろ」
「そうよね、好きな女がいるんじゃね」
一瞬、彼の表情に変化が現れる。
「聞いたわよ、茉里絵から」
今度こそ核心に触れると、見たこともないくらい動揺した表情で赤面した。
「…あいつ、何か言ってた?」
すぐにいつも通りのポーカーフェイスに戻ったけど、頬はまだ赤いままだった。
「恥ずかしくて、どういう顔して会ったらいいかわからないって」
電話も出ないし、メールも返ってこないし、連絡取れなくて、本格的に嫌われたかと思ってた、と安堵したように彼は言った。
「茉里絵、今日は6時頃には仕事終わるみたいよ。会社の前で張ってれば捕まると思うわ」
「サンキュ」
私の情報提供に彼は素直にお礼を言った。
「沢村くん、ためらわないでね。欲しいものは、全速力で捕まえなくちゃ」
あの時みたいにね。
高校三年の六月。文化祭二日間、体育祭一日の学園祭を控えて、生徒会と実行委員、クラス委員は大忙しだった。当然、生徒会長である沢村くんは誰よりも忙しかった。
学園祭の実行委員をしていた茉里絵は、クラス委員だった私と、生徒会役員や他の実行委員たちを巻き込んで、疲れている沢村くんにあるサプライズを仕掛けることにした。
生徒会室で役員や実行委員たちに囲まれて、忙しなくあれこれ指示を出している沢村くんを、茉里絵が訪ねた。全てを知らされている委員たちは事の次第を見守った。
「秀明、はい、これ」
茉里絵が机に置いた箱に目もくれず、沢村くんは「ああ、うん」と適当に相槌を打って仕事の手を止めなかった。
「秀明、ちょっとくらい休憩したら」
うん、とは答えるものの、沢村くんは顔を上げない。
「秀明ってば!」
「うるさいな、邪魔するなら出てけ」
やっと顔を上げた沢村くんは、茉里絵にそう言い放った。茉里絵の目にみるみるうちに涙が溜まる。
「…なによ、人の気も知らないで。秀明のバカッ!」
茉里絵は生徒会室を出ていった。意外な展開に、私は慌てて口を出した。
「沢村くん、今のは酷いよ。今日が何の日か、わかってないの?」
茉里絵が置いていった箱を開ける。そこには、「Happy Birthday HIDEAKI」とチョコレートで書かれたホールのイチゴショート。茉里絵が作ったものだ。
それを見た瞬間、全てを悟った沢村くんは、弾かれたように生徒会室を飛び出した。
「あ、茉里絵先輩」
生徒会役員の男の子が、生徒会室の開いた窓から中庭を指した。
「あ、会長も出てきた。もう追いつく」
一斉にみんなで窓から中庭を覗き込む。校舎から中庭に出た茉里絵を沢村くんが追う。沢村くんは、インターハイ級の足を持っている。お世辞にも運動神経がいいとは言えない茉里絵が逃げ切れるはずもない。
程なく茉里絵は沢村くんに捕らえられた。
茉里絵の腕を掴んだまま、肩で息をして、沢村くんが頭を下げる。そっぽを向いている茉里絵の顔を覗き込んで何度も謝る。
「あーあ、あの二人、やっぱり付き合ってるんですかねぇ?」
後輩の女の子に訊かれたので、
「時間の問題じゃない? そのうちくっつくわよ」
と答えておいた。
「それにしても、もったいないよな、会長。あの足で陸上部辞めちゃうなんて。続けてれば、今年もインハイ間違いなかったのに」
「でも、会長の仕事量って半端じゃないぜ。部活と掛け持ちなんて無理だよ」
などという後輩の男の子たちの会話を聞きながら、私は窓の下の二人を眺めていた。
彼はきっと、他の人のためには、あんな風には走らない。
彼は既に彼女のものだから、きっと彼女もすぐに彼のものになるだろうと思った。
その割には、ずいぶんと時間が掛かったわよね、この人たち、と先を歩く彼の背中を見つめた。
「沢村くん」
呼び止めると、彼は立ち止まって私を待った。
「あの話、ちゃんとした方がいいよ」
「…わかってる」
私の忠告に頷いて、彼は再び歩き出した。




