20 hot chocolate -apple #9-
昼休みに食堂で津田と一緒に昼食を取っていると、同期の伊東がやってきた。
「沢村くん、はい、これ」
バレンタインだから、と綺麗に包装されたチョコレートをくれた。律儀にも、クラス委員で一緒になった高校生の頃から彼女はバレンタインにチョコをくれる。
「ああ、ありがとう」
茉里絵の友達でもある彼女からのチョコは、いつも有り難くもらっていた。
隣で拗ねた子どものように「いいなー」と頬を膨らませる津田に、伊東は「ちゃんと津田くんの分もあるわよ」とチョコを渡す。すると、子どものように津田は喜んだ。そのはしゃぎっぷりに視線を向けると、津田は「今、バカにしただろ?」と睨んできた。
「お前にはわからないよな。モテない男がバレンタインにどんな思いをしてるのか」
「別に、モテてなんかないけど」
俺に渡されるチョコレートは、大方はホワイトデーのお返し目当てだ。どこからか俺のお返しは美味しいという噂が出ているらしく、それ狙いの子が殆どだ。
「でも、沢村くん、バレンタインにチョコもらえなかったことなんてないでしょ?」
「それは、まあ…」
高校生の頃から知っている伊東に嘘をついても仕方がないので曖昧に頷いた。
「ほら、やっぱり」
「いや、幼馴染から一個は貰えるってだけだから」
母親と姉以外からチョコレートがもらえるのは、それが毎年渡しているからという慣例に倣った義理だったとしても、嬉しくないわけはない。毎年必ず茉里絵からのチョコレートが約束されていた俺にとって、バレンタインは、他の男子ほどチョコレートにソワソワする必要はなかっと言えば、そうかもしれない。
「あんな可愛い子から貰えるなら、それだけでいいだろ」
津田は「モテない男は辛いんだよ」と拗ねて見せた。伊東が「津田くん、茉里絵に会ったことあるの?」と首を傾げたので「前に津田と一緒の時に茉里絵と会って」と説明した。
「ところで沢村くん、風邪気味?」
「え、何で?」
「唇赤いし、目も腫れっぽいから、熱でもあるのかと思って」
鋭い。男より女の方が人の変化に敏感だっていうのは、本当なんだなと感心する。実は昨日からだるくて、今日は本格的にヤバそうだった。午後に抜けられない会議があるから来たけど、今すぐにでも横になりたいくらいだ。
「今日は真っ直ぐ帰ってゆっくり寝ることね」
伊東の忠告に素直に頷いた。
インターホンが鳴って、目が覚めた。だるい体を起こすと、もう一度インターホンが鳴る。夢ではなかったことを確認してベッドから降りた。
インターホンの受話器を取って、不躾な訪問者を確認する。
「秀明、大丈夫?」
意外な声に驚いた。慌てて玄関に向かい、ドアを開ける。
「茉里絵、何で?」
「あかりちゃんに聞いた。秀明具合悪そうだったって」
伊東から茉里絵に連絡が行ったらしい。
「仕事終わってすぐ来たんだけど、遅くなってごめんね」
当たり前のように家に上がって部屋に歩き出した茉里絵の後をついて俺も戻る。
「ごはんは食べた? 薬は?」
茉里絵は手にしていたバッグと袋をテーブルに置いて訊いた。
「おかゆ作って食べたよ。薬も飲んだ」
「面倒の見がいのない男ね」
「何それ? お前が面倒見てくれんの?」
ベッドに戻る途中で足もとがふらついてバランスを崩した。
「ちょっと、大丈夫?」
腕を回せばすっぽり俺の胸に収まってしまう小さな体が俺を受け止めて支える。思わず、その背中に腕を回した。
「ひ…であき…?」
俺に抱き締められる形になって、戸惑う声が耳元でする。
「私、そんなに薄情じゃないよ。病気の時くらい、いくらでも面倒見てあげる」
躊躇いがちに俺の背中に回された茉里絵の手が、俺の背中を軽く叩いた。泣いた茉里絵にいつも俺がしていたように、茉里絵が俺の背中に手を添える。
「…何だか、いつもと逆みたい」
胸の中で茉里絵が小さく笑った。
腕を緩めると、茉里絵は逃げるように体を離し、俺の背中をベッドへ向けて押した。
「体が冷えちゃうから、早く布団に戻って」
俺がベッドに戻ると、茉里絵はカーテンの外を覗いた。
「ほら、雪が降ってきた。寒いわけよね」
茉里絵が開けたカーテンの間から、窓の向こうにひらひらと落ちていく雪が見えた。
「何か温かいものでも飲む?」
カーテンを閉めた茉里絵が訊いて、俺の返事を待たずにキッチンへと向かった。
少しして、キッチンから戻ってきた茉里絵が俺にカップを渡した。湯気と甘い香りが立ち上る。
「はい、ホットチョコレート。バレンタインだからね」
「サンキュ」
甘い香りが口と鼻に広がって、体を温めていく。
「相変わらずね」
ベッドから離れてソファの前のテーブルに向かった茉里絵が、俺が置きっ放しにしていたチョコレートを見て言った。
「どうせ、お前が選ぶホワイトデーのお返し狙いだよ」
ホットチョコレートを飲みながら答える。前に茉里絵は本命チョコもあるなんて言ったけど、この年齢になってバレンタインのチョコレートに告白の期待をするなんて、少しアレだな、自意識過剰かなと思う。
「今年はマカロンがいいな」
そう言って、自分の持ってきた紙袋の中から茉里絵が箱を取り出した。
「元気になったら食べて。チョコブラウニーだから、日持ちはするから」
他のチョコの隣に箱を置いて、茉里絵は微笑んだ。
実を言うと、バレンタインには少し苦い思い出がある。
高校二年の時、初めて付き合った彼女から告白されたのがバレンタインだった。生徒会長をしていた俺は、1月に開催した全校百人一首大会の実行委員長だった彼女とは仲がいい方だった。彼女が俺に好意を抱いてくれているとは告白されるまで知らなかったけど、彼女のことはいい子だと思っていたし、告白されたのが嬉しくてOKした。
けれど、その二ヵ月半後に彼女から別れを告げられた。理由は、俺の浮気だった。正確に言うと、俺は浮気なんかしていないし、彼女の誤解なのだけど。
俺と茉里絵が生徒会室で抱き合っていたのを見たと、彼女は言った。それは多分、泣いている茉里絵を俺が慰めた時のことだろう。誤解だと訴えると彼女は怒ったように訊いた。
「ねえ、じゃあ、あの子が泣いてたら、いつでもああやって慰めるわけ?」
彼女がそれを目撃したのは四月のことで、彼女がそれを言い出したのは五月だった。ずっと我慢してきたのだと彼女は言った。
「何かって言うと、沢村くん、あの子を一番に大事にしてるよね。彼女の私より、あの子が大事なの?」
「そんなこと…」
ない、と言う前に彼女に選択を迫られた。
「じゃあ、私とあの子が溺れてたら、沢村くんはどっちを助ける?」
答えられなかった。それが、決定打だった。
嘘でも彼女だと言えば良かったのかもしれない。だけど、ずっと長い間、妹のように家族のように、大切に愛しんできた女を、彼女が出来たからといって突然遠ざけるなんて出来なかった。
それから、俺にとってバレンタインは、ほろ苦い想いを呼び起こす行事になった。
けれど、俺が喜ぶことを知っていて渡されるチョコレートの菓子たちがそれを払拭してくれていた。
ひやりと冷たい感触が額にあった。目を開けると茉里絵が俺を覗き込んでいた。右手には濡れタオル、左手は俺の額に添えられていた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ホットチョコレートを飲んだ後、早く寝ろと茉里絵に寝かしつけられ、随分眠った気がするが、照明を落とされた部屋では時計も見えない。
「秀明、私、そろそろ帰るね」
額から離された手を、思わず捕まえた。いつも俺の手よりも冷たい茉里絵の手が、戸惑ったようにそこに留まる。
「ひであき?」
暗くて表情は見えないが、困った顔をしているかもしれない。
「…もう少し、いて欲しい」
茉里絵の手が、俺の手を握り返したのか、強張ったのか判断できなかったけれど、逃げられないように指に力を込めた。
「…うん、わかった。いるよ。ここにいる」
その手がもう逃げないことを知りつつも、冷たい手が俺の熱でチョコレートのように溶けてしまえばいいと強く握り締めた。




