2 パーソナルスペース -bee #1-
後輩の桐島と明日の会議の資料を残業して作っている時だった。
「あんなの、デマですからね!」
向かいに座っている桐島が、突然言い出した。唐突な話題に、何のこと?と後輩に目を向けた。
「俺、フタマタなんてしてませんから!」
そこで何のことだか理解した。今日の昼間、桐島の同期の富永さんが桐島にフタマタかけたと詰め寄ったのだった。私は、偶然それを目撃してしまったのだ。
なぜか必死に弁明する桐島に、「はいはい」と適当に返事をする。
「別にいいわよ。私に仕事で迷惑さえかけなければ、どんな恋愛したって構わないし」
恋愛にかまけて仕事がおろそかになるようでは、困る。けれどそうでなければ、どこで誰とどんな恋愛をしようが知ったことではない。
「ほんとにフタマタなんてデマですってば! 第一、富永と俺、付き合ってなんかないんですよ。あいつが勝手に言ってただけで」
後輩の中でも有望株として将来を嘱望されている桐島の女の子人気は高い。恵まれたルックスに心をときめかせる子もいるだろう。その桐島を本気で狙っている、と言われているのが富永さんだった。
まあ、確かに、桐島の言う通り、二人の感情の間には温度差があるみたいだ。だけど、私の知ったことじゃない。そのことで仕事がしづらくなっては困るけど、富永さんは違う部署だし、今のところ問題はない。
私は早く残業を終わらせたくて、顔も上げず仕事の手も止めずに「あ、そう」と相槌を打った。
「相田さん、俺のこと信じてくれないんですか?」
ちらりと視線を上げると、私の反応に不服そうに口を尖らせる桐島が見えた。無駄にかわいい仕種だ。男のくせに。
「そういうわけじゃないけど。まあ、どうでもいいっていうか」
今の私の最優先事項は早く残業を終わらせることで、桐島のフタマタ疑惑の真相を知ることではなかった。桐島が違うと言うならそれでいいし、真実は違ったとしても私に迷惑がかからなければどうでもいいことだ。
「人の恋愛に興味ない」
正直なところを答えると、桐島はすぐには反応を示さなかった。職場の人の恋愛事情に下手に首を突っ込みたくないという私のスタンスを、冷たい女だと思ったのかもしれない。
学生時代から、私は他人の恋愛に興味がなかった。どこのクラスの誰と誰が付き合おうと、私に影響はない。好きな人や友達ならともかく、ただのクラスメイトの恋愛に、いちいち首を突っ込む必要がどこにあるのか。そんな風なものだから、別れたという噂で初めてその二人が付き合っていたと知ることもあった。だけど、それで誰かが困るわけじゃない。
「幸せなら勝手に幸せでいいし、不幸な時はその不幸に巻き込まれたくない」
そこまで言って、さすがにこれは先輩として冷たい女過ぎるか、と思ってフォローを入れた。
「あー、まあ、友達は別ね。友達が幸せなら嬉しいし、不幸なら慰めて元気になって欲しいし幸せになって欲しいと思うよ」
友達と、仕事仲間やクラスメイトを区別するのは、心のパーソナルスペースの違いがあると思うからだ。
人には、自分のテリトリーとして他人に近付いて欲しくない心理的な距離があるのだという。半径何センチだか何メートルだか忘れたけれど、その物理的な距離をパーソナルスペースと言うのだそうだ。
きっと、心にもパーソナルスペースがあるのだと思う。それは、どの程度まで相手に心を許すかとかいった心理的な距離の範囲だ。心の近さとでも言うのだろうか。友達なら、パーソナルスペースを越えて恋愛といった至極プライベートな部分にまで触れ合えるけれど、そうではない人間関係においては、その心のパーソナルスペースを侵されたくないし、侵したくない。
「…俺のことは?」
沈黙していた桐島が作業の手を止めて、こちらに視線を寄越した。
「どうして私があんたの恋愛について気にしてやらなきゃいけないの」
興味ない、と一刀両断しようと思ったが、桐島の拗ねたような表情に考え直した。いつでも誰かに気にかけられて大切にされてきたこの甘っちょろいボンボンは、私の興味なさげな態度が気に食わないらしい。
「話したいなら、聞くくらいはするわよ」
正直なところ、人の恋愛話には興味がない。
だけど、恋愛で悩んだりして仕事にならないようなら困る。相談に乗ってくれと言われれば断りはしないし、一応真剣に考えて応援もする。
結局、その手の悩みは他人が解決できるものではなく、事情もよく知らない私が解決できるわけはないので、話を聞いて本人の主張に相槌を打つくらいしかできないのだけど。
「解決はできないだろうけど、相談くらいは乗れるし」
「じゃあ、相談してもいいですか」
普段、私から恋愛の相談に乗るなんて言うことはない。それを言わせる策士な桐島が、悩みなんてあるのかとも思う。
「どうぞ」
女の子たちにちやほやされて、恋愛の悩みなんてモテすぎて困るとか言いそうなこの男の悩みは一体どんなものなのかと顔を見遣った。
「俺、好きな人がいるんですけど、でも、なんか俺、相手にされてないっていうか」
意外と直球な相談で驚いた。しかも片想いときた。これは、解決できないわ。応援したくもない。面倒臭い。
「俺のこと、見えてんのかな、って思って」
相談しているだけなのに、ずいぶん落ち込んだ感じの桐島に、仕方がないので訊いてやった。
「それは、アプローチをしていて相手にされてないってこと?」
「いえ、アプローチというほどのことは…」
「何もアプローチしないで気付いてもらおうなんて、甘いね」
想っていれば気持ちが届くなんて、そんなの今どき少女漫画の中でもありえない。
「その人があんたのことを特別気にかけてれば別だけど、何のアピールもなしに俺の気持ちに気付いてくださいって、どんだけ図々しいのよ」
普段から「辛口」と言われる私の言葉に、桐島は黙ってしまった。そう考えているのは本当だけど、ちょっと言葉がキツかっただろうか。でも、女の子相手にだって私はこんなものだし、これくらいでへこたれるような男ではないだろうと決め付けて、下手なフォローをするのはやめた。
「…そう、ですよね」
やっと口を開いた桐島が呟いた。
「相手にされなさそうだからって何も言わずにいたら、俺の気持ちに気付かれないまま、他の誰かに持ってかれちゃうかもしれないんですよね」
「そうね」
意外に前向きな桐島の口調に相槌を打った。
「思い切って、伝えることにします」
そう言い切った桐島の決意に満ちた表情に、「そうしてみれば」と頷いた。桐島がそう決意したなら、私の相談役の務めは終了だ。
「俺、相田さんが好きです」
「ふうん」
……え? 待て。今、何て言った?
会話の流れのまま聞き流そうとした言葉に思考が立ち止まった。
「…今、何て?」
恐る恐る桐島に確認する。
「だから、俺が好きなのは、相田さんなんです」
「……は?」
中学生もビックリなストレートど真ん中超剛速球勝負の告白に、話の展開についていけなかった。他人事だと思っていた桐島の恋愛に、自分が巻き込まれたのだと認識するまでに時間が必要だった。
頭を抱えて、冷静に受け止めようと自分に言い聞かせた。のに、不意に掴まれた腕に冷静ではいられなくなる。
「…なに…?」
気付けば、向かいの席にいたはず桐島が隣の椅子に移動してきていた。痛いくらいの力で私の腕を掴む桐島の手が、グイと私を引き寄せた。
必要以上に接近した桐島の綺麗な顔に、意に反して心臓は大きく波打つ。慌てて身を引こうとすると、力強い腕に阻まれた。
「もっと、ちゃんと見てください、俺のこと」
…近い。
今まで近付いたことがないくらい近くに桐島に寄られて、その距離の近さに息苦しさを覚えた。
桐島は、物理的なパーソナルスペースと一緒に、私の心理的なパーソナルスペースをも侵そうとしていた。
心の奥深くまで入り込もうとする、鋭いくらいの真っ直ぐな目。
その目に怯えて、目を逸らそうと顔を背けた。
「…こっち、向いてください」
「やだ」
「俺のこと、見てください」
「…無理」
「力ずくで向かせますよ?」
それは嫌だと仕方なく顔を向けた。
真剣な目。振りほどけないほど強く腕を掴む手。
少し頼りない後輩だくらいにしか思っていなかった桐島が、男なのだと今更ながらに思う。もちろん、性別が男なのだということは最初から判っている。そうではなくて、雄としての男を見せられて、少し、怖い。
「…痛い」
「すみません…」
痕が残るくらいに腕に食い込む指が、ためらうように離れた。
鈍い痛みが残るその場所を、反対の手で覆った。他の場所より少し熱い。そこに残る熱が、桐島の体温の名残のように思えた。
「…桐島…」
自分のかすれた声に、少し動揺しながら息を整える。
「本気なのね? からかってるんじゃないのね?」
桐島がふざけてそういうことを言う奴じゃないことは判っていたけど、念のため確認した。
「当たり前です」
ちょっと怒ったような桐島の反応に、そうよね、と頷いた。
「少し、時間をくれる? 真剣に考えるから」
「はい」
頷いて、桐島は席を立ち、向かいの椅子へと戻って行った。
「さ、あと少しで終りだから頑張ろう」
努めて明るく言って、残業を再開した。
書類に伸ばした腕にふと視線を遣ると、侵されたパーソナルスペースの痕が赤く残っていた。