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18 二律背反 -bee #7-

 人の心は、まるで振り子。あっちに揺れ、こっちに揺れ、いつでも相反する感情を同じ心の中に飼っている。


 会いたいけど、会いたくない。

 近付きたいけど、近付きたくない。

 触れたいけど、触れたくない。



 桐島に目配せした富永さんが「資料運ぶの手伝ってください」と西村くんを部屋から連れ出した。

「すみませんでした!!」

 二人きりになった瞬間、桐島が深々と頭を下げた。額が机につきそうなくらいに勢いよく謝られて面食らった。

「もう絶対! しませんから! だから、あの、せめて普通に話してもらえませんか?」

 頭を下げたまま上目遣いに桐島がこちらを見た。

 あの日以来、桐島とはまともに会話をしていない。もちろん仕事の話はするけれど、今までだったら仕事の合間にしていたおしゃべりをしなくなった。桐島は私が怒っているのだと思って、こちらの様子を窺いながらも話しかけてこない。私は、まあ確かに怒ってはいたのだけど、それ以上に気まずくて話などできる状態ではなかった。

 そもそも、恥ずかしくて桐島の顔が見られないのだ。2回目のデート以来、桐島と目を合わせるのさえ恥ずかしかったというのに、それ以上の出来事が起こってしまい、どこに目を向けたらいいのかわからない。

 あの唇を見れば思い出してしまう。そしてそんなことを思い出している自分に赤面してしまう。

 桐島が私を好きだということを、私は知っている。だから、桐島の行動のすべてが好意によるものなのだとわかっている。わかっていても、やはりこちらの合意を得ないあの行為は許せなかったし、何より、桐島にそれを許した自分が情けなかった。

 男に簡単に隙を見せるような女ではありたくない、と、別に思っているわけではない。それなりに隙は必要だし、そこに付け入らせることが時に有効だとも知っている。

 けれど、そういうことではなくて、答えを保留しておきながら、桐島にその隙に付け入るチャンスを与えたということは、私のユルさではないだろうかと思う。一方では拒絶して、完全には許さないままで、でも繋ぎとめておきたいなんて、卑怯だ。

「絶対にもうしない?」

「しません。すみませんでした」

 桐島にその決意があるなら大丈夫だろうと彼を許すことにした。

「わかった。あれは、犬に咬まれたと思って忘れることにする」

「いぬ…」

 少々複雑そうな顔をして桐島が呟いた。人をあれだけ悩ませたのだから、これくらいは報復させてもらおう。



 帰ろうとして、忘れ物をしたことに気付いて会議室に戻った。プロジェクトのために仕事部屋として使用している会議室だ。部屋には桐島が残っていた。

「桐島?」

 声を掛けても、机に突っ伏している桐島は答えない。規則正しい呼吸が、寝ていることを教えた。

 ここのところ忙しいからなぁと思って覗き込むと、整った横顔が見えた。桐島は、まあ、なんというか、美形だ。閉じた目には長い睫毛、鼻筋がすっと通って、肌も綺麗。若い子たちがキャーキャーいうのも頷ける。額に落ちかかる髪をどけようと思わず手を伸ばした。

「…相田さん?」

 長い睫毛が開けられて、慌てて手を引っ込めた。

「こ、こんなところで寝てると風邪引くわよ。疲れてるなら、早く帰って休みなさい」

 ドギマギしているのを誤魔化そうと、もっともらしい注意をする。素直に頷いて、桐島は立ち上がった。

「相田さーん、忘れ物ありました?」

 ドアが開いて富永さんが顔を出した。

「あ、うん。ごめんね」

 机の上にあった手帳をバッグにしまった。

「じゃあ、桐島、お先にね」

 私は部屋を出て、「お疲れさま、桐島くん」と富永さんがドアを閉めた。



 富永さんとは、一緒に仕事をするようになってから時々食事に行くようになった。最初は自分とは違うタイプの子だから話が合わないのではないかと思っていたけど、意外にも彼女とはウマが合った。見た目の可愛さから受ける印象よりも彼女はしっかりしていて、結構毒舌だ。そのギャップが面白くて仲良くなった。

 富永さんが係長からクーポン券をもらったというお店に入ろうとした時、彼女の名前を呼ぶ声がした。見遣ると、以前、水族館で富永さんと一緒にいた彼だった。富永さんは手を振って応え、そのままお店へと入った。

「いいの、彼?」

「向こうも友達と一緒にいたじゃないですか」

 店員に案内されて席に着く。

「…どうしてかなぁ」

 ポツリと彼女が呟いた。

「会わないようにしてたのに、何で会っちゃうんだろう?」

「会わないようにって、何で?」

「私、禁秀明してるんです」

 禁煙みたいな意味だろうか。秀明というのが彼の名前だろうと推測した。

「彼氏なのにどうして?」

「幼馴染です」

 即座に訂正された。幼馴染だからこそだと。

「私、秀明依存症というか、つい甘えちゃって。でも、そういうの、もうやめなきゃと思って。この前、女の子と一緒にいるのを見て、いつまでも私がくっついてたら、恋愛の邪魔になるだろうなって」

 まあ、今までも邪魔しちゃったことはあるんですけどね、と苦笑した。

「だから、あんまり会わないようにしようと思って。会ったら甘えちゃうし」

 メニューのページを繰って彼女は頬杖をついた。

「でも、会わないようにと思うと、会いたくなっちゃうんですよね…」

 そう言う彼女を可愛いと思った。会いたいけど、会いたくない。会いたくないけど、会いたい。自分のアンビバレントな感情に彼女は正直だ。


 軽めのディナーコースを頼んで、他愛のない会話をしながら食事をしていた。すると、ところで、と前置きしてサラダを食べながら富永さんが訊いてきた。

「桐島くんと仲直りしました?」

「仲直りも何も、別に…」

 喧嘩をしていたわけではない。単に、気まずくて会話が減ったというだけだ。

「謝りたいから二人きりになるチャンスを作ってくれって言われてたんですけど」

 それでわざとらしく西村くんを連れ出したのかと合点がいった。桐島に今がチャンスよ、という合図だったのだ。

「…ねえ、どこまで知ってるの?」

 富永さんはやたらと事情に明るい。どこまで桐島に聞いているんだろうか。

「そんなに詳しくないですよ」

 今回のことは、桐島くんが相田さんを怒らせたと聞いてます、と富永さんはいたずらっぽく笑った。

「…仲いいよね、二人」

「気になっちゃう感じ?」

 若手お笑い芸人のように訊くのが、何だか憎たらしい。

「別に、そういうんじゃ…」

「心配しなくても、桐島くんは相田さん一筋ですよ。この前も、総務部の可愛い女の子に告白されたけど断ってましたし」

 そんなこと知らなかった。もちろん桐島がそんなことを私にいちいち報告する義務はないのだけど。私が知らないことを、富永さんは知っているんだと思った。

「相田さんて、本当に桐島くんのこと、何とも思ってないんですか?」

 彼女は上目遣いにこちらを見た。男ならグラリとくる可愛さだ。そういえば、以前、彼女は桐島狙いだと聞いたけど、今はどうなのだろう?

「何ともってことは、ないんだけど」

 告白されてから、考えてはいる、ずっと。桐島のことは、たぶん、どちらかと言えば好きだと思う。私がOKして彼が喜ぶなら、それもいいかもしれない。

「でも、もし仮に付き合ったとして、別れた場合、気まずいじゃない。同じ職場だし」

 同じ職場で付き合うというのは、結構なリスクが伴う。付き合っていることを同僚に隠すのもバレるのも面倒だ。

「それは、付き合うことを考えてるってことですよね」

「でも、別れる時のことを考えてる時点で好きじゃないのかなと思うのよね」

 別れることを考えたら付き合えない。それを考えないで済むほど好きな相手でなければ。別れを前提として付き合うなんて、ありえない。

 付き合うという行為は、少なからずエネルギーを必要とする。省エネ人間と友人に評される私が、熱い想いを不躾ぶしつけに向けてくる桐島と一緒にいるには、膨大なエネルギー消費を強いられる。そう思うと、そこまでして付き合いたいかという疑問が湧く。

「じゃあ、例えば、私と桐島くんが付き合うことになったら、祝福してくれますか?」

 食事の手を止めて沈黙した。この例え話に抱く自分の感情がわからない。

 自分の気持ちを持て余す。例えば、あの展望台で抱いた感情、桐島と唇を触れた時の気持ち、眠る桐島に手を伸ばした衝動。近付きたいのに、近付きたくない。許したいのに、許したくない。触れたいのに、触れたくない。振り子のように揺れる二律背反アンビバレントな感情。

「答えられない時点で、桐島くんに気持ちが向いてるってことじゃないですか?」

 にこりと笑って富永さんはワインに手を伸ばした。

 桐島を好きだって噂があったけど、あれは本当?と訊いてみると、「さあ、どうでしょう?」と小悪魔な笑顔を寄越された。

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