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10 ディスタンス -bee #4-

 心臓が、凍るかと思った。


「ごめん。私、桐島の気持ちには応えられない」


 死刑を言い渡された被告人の気分だ。


 相田さんは、俺のことを嫌いではないが好きでもないと言った。人の感情は「好き」か「嫌い」かの二種類じゃない、決められない、と。

 それなら、「好き」じゃないなら切り捨ててしまうなんて、そんなの短絡的すぎると言い募ったら、相田さんは困った顔をした。だから、可能性がゼロでない限りは答えを出さないでくれと言った。相田さんはそれでは俺が不自由だろうと心配したけれど、そんな心配は無用だ。そんな同情で俺を勝手に見限らないで欲しい。


 俺が欲しいのは、同情でも心配でもない。


 相田あいだ 恭子ゆきこの気持ちだけだ。



 半ば強引にデートの約束を取り付けた。相田さんは困惑していたけれど、こうでもしなければ相田さんは俺を後輩としてしか見てくれない。



 デートプランは、悩みに悩んで、水族館になった。というのも、相田さんが、ペア御招待チケットをもらったから、ここでいいんじゃないの、と言ったからだ。チケットをくれたのは、富永だ。

 チケットを手に、ここでいいよね、と確認する相田さんに、正直驚いた。デートしようと誘ってはみたものの、相田さんは困っていたみたいだし、乗り気には思えなかった。

「本当にデートしてくれるんですか?」

 と訊くと、いいよ、とあっさり返ってきた。

「だって、ああ言った手前、デートしないと納得しないでしょ?」

 …確かにそうなんですけど、でもそれって、なんか、もしかして、やっつけ仕事みたいな感覚ですか?

 まあ、そうは言っても、デートはデートだ。相田さんにソノ気がなくても、俺がソノ気にさせればいいわけだ。その気に…できるのだろうか? あの人を、こちらに向けることが。



 待ち合わせ場所にやってきた相田さんは、いつもの隙のない服装ではなくカジュアルな格好をしていた。そのせいか、仕事の時よりも柔らかい雰囲気だ。

「何か、雰囲気違うね」

 俺を見て相田さんが言った。

「いつもスーツだから、不思議な感じ。若く見えるね、桐島」

 それは、いいことなんだろうか? ただでさえ年下だということがコンプレックスなのに、スーツを脱いだら子どもっぽく見えるなんて。

「相田さんだって、若く見えますよ」

 負けじと言い返すと、すかさず切り返された。

「それは普段が老けてるってこと?」

「いえ、そういう意味では…」

 困る俺に、相田さんが笑った。仕事の時とは違う、明らかに柔らかい表情で笑う。その笑顔に、ドキリとする。

 相田さんは、仕事とプライベートを分ける。個人的な問題をチームワークである仕事に持ち込むことを嫌うからだ。

 だから、会社にいる時の相田さんは仕事仕様で、どこかいつも隙のない雰囲気を作っている。ちょっと天然なところがあって、ふと可愛い仕種を見せたり、休憩時間や残業の時や、仕事が終わって飲みに行ったりする時は、仕事モードでない相田さんを見られるけど、こんな風に可愛く笑うのを初めて見た。

 俺は相田さんに、仕事の時の俺だけを見ないで他の俺も見て欲しいと言った。けれど逆に、俺だって仕事の時でない相田さんを見たことは殆どないのだ。

 仕事でない時の彼女といれば、もっとこんな風に普段は見せない顔を見せてくれるのだろうか。

 彼女は、俺にその時間を許してくれるだろうか。


 水族館は開館何周年かの記念らしく、盛況のようだった。親子連れやカップルが多く行き交う。そういえば、富永に貰ったチケットにも何周年記念チケットと書かれていた気がする。

 人込みに紛れて相田さんと水族館をゆっくり回っていた。水槽を見つめる彼女はまるで子どものようで可愛くて、思わず手を握りたいとか考えたけど、たぶんそんなことをしたら警戒されて気まずくなるだろうと想像がついたので欲望に耐えていた。

 マンボウの水槽の前で立ち止まった相田さんは「かわいい」と天然な感想をもらした。マンボウの水槽はあまり人気の水槽とは言えず、ぼうっと水中を漂うマンボウが可愛いかどうかは怪しいところだ。でもそういう相田さんを可愛いと思う俺は、結構本気で惚れているんだろう。

「相田さん、桐島くん」

 後ろから声を掛けられて振り向いた。

「やっぱり二人で来たんですね」

 いたずらが成功した子どものような笑顔で富永が言った。ここのチケットをくれたのは富永だ。しかも、俺が相田さんをデートに誘ったことを知った富永は、わざわざペア御招待チケットを相田さんに渡したのだ。

「富永さん、チケットありがとう。水族館も結構楽しいね」

 相田さんは、富永の邪悪な笑顔を気にした風でもなく、普通にお礼を言っていた。

「茉里絵ちゃん」

 下の方から声がして、そちらを見遣った。小さな女の子が富永を見上げている。女の子の手は俺と同じくらいの年の男に繋がれている。

「富永さんの子?」

 天然な質問を相田さんがした。

「違いますよ、姪っ子です」

 今日が姪っ子の誕生日で、仕事で来られなくなった兄の代わりに私が連れてくるハメになったんです、と富永が説明した。

 富永は男を見上げて、ほら、前に話した相田さんと桐島くん、と説明した。男は俺たちに会釈して「茉里絵がお世話になってます」と挨拶した。

「ねーねー、お姉さんたちは、こいびとどうしなの?」

 富永の姪っ子が俺たちを見て訊いた。顔を見合わせて返答に困っていると、更に女の子は続けた。

「こいびとどうしは手をつなぐものよ。ほら、あたしと秀明みたいに」

 女の子は自慢げに男と繋いだ手を見せた。富永が「こら」と口を塞ぎ、「すみません、ませガキで」と謝った。男も俺たち同様、苦笑していた。

 女の子がおなかが空いたと言うので、じゃあ、と富永達は会釈をして去って行った。

「一緒にいたの、彼氏かな?」

 相田さんが彼女らの後ろ姿を見送って言った。

「さあ? 彼氏いないようなこと言ってた気がしますけど」

 そう答えると、そうよね、そんなこと言ってたよね、と相田さんは頷いた。

「でも、お似合いだったよね。彼、すごく素敵だし」

「…素敵…ですか?」

 俺が余裕ある大人の男なら、そうだね、と認めることもできたんだろうけど、正直、他の男を褒めるのを平然と聞けるほど余裕がない。

「何か雰囲気あるっていうか。包容力ある感じの人じゃない?」

「…ああいうのが、好みなんですか?」

 相田さんは天然なとこあるけど、こういうのはやめてもらいたい。俺には、余裕なんかないんだと悟って欲しい。

「素敵なことと好みなことは違うわよ。世の中に素敵な人はたくさんいるけど、全部が好みなわけじゃないでしょ」

 キムタクがカッコイイのは大半が認めるけど、全員が彼のファンじゃないよね。それじゃ、スマップ成り立たないし。グラビアアイドルだって可愛い女の子ばっかりだけど、全部が全部万人の好みの女の子ってわけでもないでしょ。桐島だって、街中ですれ違った可愛い女の子全部と付き合いたいと思うわけじゃないよね。そういうのと一緒よ。

 わかるようなわからないような理屈を説明されて、はあ、と頷いた。

「私の好みは、桐島ってわけでもないけど、彼でもないわよ、安心して」

 いや、それ、安心していいセリフですかね? 俺のことを気遣って言ってくれたらしい言葉に、結構意外に傷ついてるんですけどね。

 フォローになっていない相田さんの気遣いに、やはり曖昧に、はあ、と返事をした。

「拗ねてるの?」

 おかしそうに笑って相田さんが訊いた。

「いえ、拗ねてるとか、そういうことでは…」

 どっちかっていうと妬いてるっていうか。あーもー、何でこの人はこんなにも鈍感なんだろう。

「桐島」

 意外なほどに優しい声に顔を上げた。

「今日、誘ってくれてありがとう」

 唐突な感謝の言葉に返事もできずに相田さんを見つめた。

「来てよかった。見たことなかった桐島の一面も見れたし」

 意外に子どもっぽいとこあるとかね、と少し意地悪な顔で笑った。俺が否定を口にする前に相田さんが続きを口にする。

「桐島だって、私のすべてを知ってるわけじゃないでしょ。私たち、お互いに知らないことばかりだよね」

「そうですね」

「次は、桐島の行きたいところに連れてって」

 そう言って俺に背を向けて歩き出した相田さんの言葉を理解するまでに、俺の言語理解能力は壊れたんじゃないかというくらい時間が掛かった。

 それは、つまり、俺のことをもっと知りたいと思ってくれて、だから『次』があるってことで、その『次』を相田さんから言ってくれたってことは…。

 離れていく相田さんの背中を追いかけて、その手を掴もうとした時、

「おなか空いたね。何か食べに行こうか」

 相田さんが振り向いて、俺は慌てて手を引っ込めた。富永の姪っ子が言うように、手を繋ぐというのは恋人同士のすることだとすると、さすがにまだ手を取るのは図々し過ぎたかと反省しつつ、俺は満面の笑みで「何食べましょうか?」と答えた。

 届かなかったこの手の距離は、時間をかけて縮めていけばいい。この距離が縮まって、心の距離も近付くことを願う。

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