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時の螺旋  作者: 兼高由季
9/11

9.海(2)

きれいで、静かで、他の者を拒絶するような光景に圧倒されながらも、俺は何とか気を取り直し、「水原」と心の中だけで呼びかけてみた。


(……やばいかも……)

本番前のシミュレーションは一瞬で終ったけど、実行に移す勇気が全く出てこない。

俺はしばらく逡巡し、唇を真一文字に引き結び、わざと大きな足音をたててターゲットに近づいた。


七メートル、六メートル、五メートル……近づくほどに激しくなる胸の鼓動。

担任に押し付けられたプリントとノートのコピーを渡すだけの行為が、相手が水原というだけで、特別な意味を持つ気がした。

四メートルほど手前まで近づいた所で、水原はゆっくりとこちらに顔を向けた。

目が合った途端、妙な電流が身体を走り、電池切れのおもちゃか何かのように俺は動きを停止した。

無言でこちらを見つめている。

夕焼けにも染まらぬ瞳は夜を閉じ込めた海の色だった。


(直哉はさ、好奇心で身を滅ぼすタイプだよ)

まるで、今がその時だと言わんばかりに、桐谷の声がふと胸をよぎった。 


(お前は恵まれ過ぎている。家は金持ちだし、ルックスもいいし、運動神経も、理数に限って言えば成績もいい。俺のことをプレイボーイなんて言ってるけど、派手なスタンドプレイで注目を浴びているのはお前の方だ。みんなお前に近づきたがっているし、望めばたいていのものは手に入る。だからいつも退屈していて、暇つぶしのタネを探しているんだ)


あの時は、責めるような口調にむっとした。

俺と桐谷は中学一年の時からの付き合いだ。

両親の仕事の関係でずっとオーストラリアで暮らしていた桐谷が、妙な日本語をからかわれて上級生と取っ組み合いの喧嘩を始めた時、唯一加勢してやったのが俺だった。


あれも好奇心から出た行動だったのか。

帰国子女というレッテルに興味を覚えてのことだったのか。

今となっては、自分でもよくわからない。

でも、過去のことなんて、今はどうでもいい。


水原沙耶は危険だと、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響いている。

俺の想像が少しでも当たっていれば、本当に身を滅ぼすことになりかねない。

動かなくなった俺の代わりに、ダサいつっかけをひっかけた白い足がこちらに一歩踏み出した。


五メートル、四メートル半、四メートル。

「坂本君?」

三メートル半まで近づいた所で、水原は軽く息を飲み、俺の名前を口にした。

ふんわりとした暖かな声だった。

強固な鎖のようだった緊張は嘘のように氷解し、俺は肩で息をした。


「眼鏡がないとよく見えないの」

プリントを大切そうに受け取った水原は、「ありがとう」という言葉に「ごめんね」という言葉を付け加えた。

だから、こっちを凝視していたのか。

必定以上に緊張した自分が恥ずかしくなり、三つ編みをほどいた髪がゆるいウェーブを描きながら揺れるのを目の端におさめながら、俺は無言で頷いた。


「今日も中庭で須藤に会った。水原がいないと見えないのかと思ったけど、そうでもないみたい」

体調のことを気遣わしげに訊ねられ、俺は強いて笑顔を作った。

「全然平気。俺、基本的に丈夫だから」

なおも何か言いたげな水原の胸にカーディガンを押し付けると、水原はなぜか赤くなり、小さな声で礼を言った。


「芳江って、ひいばあちゃんの名前なんだ」

無言で俯いている横顔を観察しながら、俺はパンドラの箱を開ける決意を固めていた。

視線で促すと、水原は素直についてきた。

道路を渡った所にあるちっぽけな公園で、塗りの剥げたブランコが二つ揺れていた。

そのうちの一つに腰かけると、水原はもう一つに腰掛けた。


小学六年生の時に俺は親父に引き取られた。

それまで俺は、自分の肉親はこの世の中に芳江ばあちゃんだけなんだと思ってた。

ばあちゃんが、曾ばあちゃんだということさえ知らなかった。

曾おじいちゃんも祖父母も両親も知らない。

親の反対を押し切って、妻子ある男と駆け落ちした母親は、救急車で担ぎこまれた病院で、俺の命と引き換えに世を去った。


男に捨てられた母は、別の男の愛人になっていた。

その男にも捨てられ、故郷に帰ることもできず、身重の身体で無理をしたことで命を縮めてしまったのだ。

正妻が死に、跡取りのいなかった男は、かつて捨てた愛人が生んだ自分の子を、半ば強引に引き取った。

老齢の曾祖母は何も言えなかった。

そして誰にも見取られることなく、ひっそりと死んでしまったのだ。


「ばあちゃんが一人で亡くなった時、遺品と言えるものは古いアルバムと日記ぐらいしかなかった。日記には鍵がついていたから、読もうなんて思わなかった。でも、このアルバムの中にこの写真を見つけた時、気が変わったんだ」


写真の撮られた時期と日記の書かれた時期は一致していた。

八十年の人生の中で、ばあちゃんにとってもっとも濃密な時間。

それは坂本芳江にとっては青春の日々であり、この国の歴史の中で最も不幸な日々でもあった。

日記にたびたび登場する親友の名前。

当時、近所でも学校でも評判だったという美貌の少女の名は、水原沙耶といった。


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