8.海(1)
赤い屋根の建物が私立の養護児童施設だということぐらいは知っていた。
でも、実際に足を踏み入れたことなんかないわけで、門のあたりでウロウロしていると、七歳か八歳ぐらいの女の子が興味津々という面持ちで近づいてきた。
「どちらさまですか?」
幼い声でおとなびたことを言う。
細い首をかしげると、まっすぐな髪がさらりと揺れた。
前髪の隙間から覗く眉毛が愛嬌があって、何だか雪ダルマみたいだ。
「水原……さん、いる?」
少女は値踏みするように視線を動かした。
「お兄ちゃん、沙耶ちゃんの彼氏?」
彼氏?
誰が? 誰の?
ひょっとして俺?
俺はなぜか動揺し、「違う」とひとこと言えば済むことを、その何十倍もの言葉を使って女の子の言葉を否定しようとした。
「俺はただのクラスメイトで、バーコードに言われてここに来ただけで、彼氏だなんてことはありえない。いや、ありえないというのは言い過ぎかもしれないけど、実際にそんな事実はないわけで……」
「真由ちゃん、お客様なの?」
大人の声にぎくりとした。
挙動不審で、あるいは少女誘拐の嫌疑をかけられて、通報されてはたまらない。
回れ右して退散しようとした途端、女の子に制服をつかまれた。
門を押し開けて出てきたのは、ふっくらした印象の五十歳ぐらいの女の人だった。
「何か、ご用ですか?」
「あ、あの……水原沙耶さんの」
「沙耶ちゃんの彼なんだって!」
自信満々で報告されて唖然となった。
雪ダルマめ、全然人の話を聞いてない。
なぜか誇らしげに胸をはっている女の子と、じりじりと後ずさりする俺を見て、施設の職員と思われるその人は、細い目をさらに細くして微笑んだ。
「この道をまっすぐ行って、道路を渡るでしょ。そうしたら海が見えるから……」
水原はどうやら海が好きらしい。
熱を出して寝込んでいても、少し目を離すと海を見に行ってしまうのだという。
「これ、渡してくれる?」
差し出されたレモンイエローのカーディガンを受け取って、教えられた道をたどっていくと、雪ダルマ追いかけてきた。
「ね、バーコードって?」
なんだ、ちゃんと聞いてたんじゃないか。
担任のあだ名だと答えると少女は目を丸くした。
「学校の先生に言われて来たんだ」
「そう、だから俺と水原は……」
「うん、それはわかってる」
気を取り直したように笑顔になった雪ダルマは、飛び跳ねるようにして前に回りこんできた。
「お兄ちゃんは沙耶ちゃんとは無関係。沙耶ちゃんは友達も彼氏も作らない。いつも1人で海を見てる。きっと沙耶ちゃんの大切な人は海の向こうにいるんだよ」
どこか歌うような口調だった。
(からかってんのか)
心の声が聞こえるはずもないのに、少女は一歩後ずさり、ひらひらと手を振った。
「嘘なんかじゃないよ。あのね、沙耶ちゃんはね……」
「別の世界から来たんだよ」
聞き間違えでなければ、そう聞こえた。
俺は混乱し、駆け去ってゆく少女の足音を背中で聞きながら、しばらくの間、動けなかった。
思いあたることがないではなかった。
いやむしろ、ありすぎた。
水原はそこにいた。
ジーンズにポロシャツという組み合わせのアピール度は限りなくゼロで、見慣れた制服姿の方が何十倍もましのはずだ。
でも、目の前にいる水原は眼鏡をかけてはいなかった。
ほどいた髪が海風でひるがえり、覆うもののない横顔がオレンジ色に染まってみえた。
いつの間にか燃えるような夕焼けが辺りを包んでいて、どこにでもありそうな海辺の風景をいつものは全く別のものに変えていた。
セピア色の写真に薄赤のフィルターをかけたらこんな色になるかも知れない。
幻想的な色彩に包まれて、水原沙耶はこわいほどきれいだった。