3.名前
トレードマークのビン底眼鏡に二つ分けの三つ編み。
いつもと変わらぬ姿で目の前に立たれても、今の俺には別人にしか見えない。
「どうしてここにいるの?」
「須藤と友達なんだ」
しれっとした顔で告げると、色白の頬に朱がのぼる。
どうやら怒らせてしまったらしい。
でも、これまでのように無表情でスルーされるよりは、ましだろう。
水原沙耶に対する俺の興味はうなぎのぼりだ。
たとえ彼女が噂通りのブスだとしても、ちっとも構わなかったけど、やっぱり美人の方がいい。
「眼鏡、直したんだ? 残念だな。俺、すっごく期待してたのに。なあ、眼鏡をかけないで校内を一周してみろよ。明日の朝には告白の嵐だ」
おどけていられたのは、腕をつかまれるまでだった。
「あ、あの、水原?」
返ってくる言葉はない。
強引に連行されながら、首をよじってベンチの方を見ると、須藤がぽつりと立っていた。
「消えたり現れたり便利だな」
何気なく呟くと、水原が呆れたようにこちらをかえりみた。
「怖くないの?」
「同じクラスの女子が怖がっていないのに、なんで怖がるわけ? そんなことより、俺をどこへ連行するつもり?」
「あっ!」という小さな叫びとともに離れた手を、今度はこっちがつかまえた。
グラウンドでは一組と二組の連中が体育の真っ最中だ。
ひたすら走らされている連中がてんでにこちらを指差して口々に何か叫んでいる。
体育教師に見つかったらかなりやばい。
たぶん、いや、絶対、指導室に逆戻りだ。
水原の手を強引に引っ張って、裏門から外に飛び出すと潮の香りがした。
陰鬱な空の色を映して暗い海。
少し走っただけなのに、水原は息も絶え絶えだ。
それなのに、吸い寄せられるように、ふらふらと海へと近づいてゆく。
「危ない」と思った時には、勝手に身体が動いていた。
背後から抱きしめた身体は、昨日、抱き上げた時の印象そのままに華奢だった。
もう少し、力を入れたら壊れてしまうかも知れない。
(俺って、結構、浮気者かも)
心の声が聞こえたかのように、水原が俺の身体を押しのけた。
「さわらないで!」
どこか、泣きそうな声だった。
そんな風に拒絶の言葉をぶつけられたのは初めてで、少しだけ傷ついた。
「ごめん」と小声で謝ると、水原は小さく首を横に振った。
「須藤君と話ができるの?」
「うん」と返事すると、いつからだと重ねて訊ねられた。
医者の問診を受けているようで妙な感じだ。
けれども、水原が発する真剣なオーラに抗えず、俺は次々と発せられる問いかけに大真面目な顔で答え続けた。
ひとしきり質問を終えた後、水原は口をつぐんでしまった。
俺の存在など忘れて、ただ、波の音を聞いているようにも見える。
「すっごく迷惑そうだけど、接点を作ったのはそっちなんだから、責任を取れよ」
砂浜に転がった流木の端と端とに腰かけている俺たちの間には、不自然なほどの距離があいていた。
空いている距離を一気に詰めてしまいたい衝動と戦いながら、わざと不機嫌な声を出してみた。
水原は心から悔いているに違いない。
あのひとことがなかったら、俺は一生、水原に興味を持つことはなかったはずだ。
すれ違いざまにかけられた言葉は消え入るように小さかったけど、強烈なインパクトをもって俺の鼓膜を震わせた。
「よしえちゃん」
はじかれたように振り返った俺を見て、水原ははっとしたように後ずさり、回れ右して駆け出した。
ほとんど無意識に発したものに違いない。
よしえちゃん……坂本芳江。
それは、昨年亡くなった俺の曾祖母の名前なのだ。