11.輪廻
「バカだね」
桜の木の枝に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、須藤正樹は形の良い唇をシニカルな笑みの形に歪めてみせた。
「そんな状況でそんなくだらない冗談を飛ばされたら、誰だって相手をはりとばしたくなるはずだ」
「冗談なんかじゃ……」
「本気なの?」
声のトーンが少しだけまじめなものとなり、身を乗り出した次の瞬間には、須藤は同じベンチに座っていた。
「すごい、紫色になってる。よっぽど君のことが嫌いなんだ」
まじまじと俺の顔を覗き込み、左の頬の青あざを、少女めいた細く白い指で無遠慮に指差してくる。
俺はむっとして立ち上がった。
こいつの言うことはいつだって毒がある。頬が微妙にはれ上がり、いやな感じに変色しているのは、水原のせいじゃない。
朝一番でみちるを呼び出した。
別れを切り出されて、みちるがわっと泣き出したところに、颯爽と登場したのは桐谷だった。
思い切り殴られて、桐谷がどれだけみちるのことが好きなのかを理解した。
そして、同時に気がついた。俺はこれまでに何人もの女の子と付き合ってきたけど、本当に好きになった子なんて一人もいなかった。
「新たなカップルの誕生ってこと? 君たちの恋愛は本当に短絡的だな。沙耶ちゃんに対する思いもその程度なんだろ?」
須藤は意地悪い笑みを浮かべていたが、かたくなに否定する俺を見て、不快げに眉を寄せた。
この男が表情を変えるたびに、背後の桜の巨木がざわめいて、俺の背筋を冷たいものが這い上がる。
怖いとは思わないけど、やばいとは思う。
外見の可憐さとは裏腹に、生きている人間をとり殺したりするのは、きっとこんなやつだろう。
「みちるって子と付き合っていたんだろ? それなのに、どうしてそんなに簡単に別れることができるんだ? 沙耶ちゃんを救って欲しいといったことは取り消すよ。君みたいないい加減な人間に彼女が救えるはずがない」
須藤は断言し、野良猫でも追い払うように手を振った。
「沙耶ちゃんに近づくことも、ここに来ることも許さない。君が来るようになってから、沙耶ちゃんが来てくれなくなった。僕の唯一の楽しみを奪う権利は君にはないはずだ」
自分の身の安全のために、須藤の言葉に従うべきだということは、頭の中ではわかっていた。
けれども、俺はそうしなかった。
そうする気なんか微塵もなかった。
「水原をどうするつもりだ?!」
須藤はこちらを流し見た。「虫けらでも見るような」という表現がぴったりのまなざしだ。
ここで目を逸らしてはおしまいだと、俺は自分に言い聞かせた。
須藤を味方につけなくては、水原の謎を解くことはできない。
気持ちを落ち着けるために、わざとゆっくりと息を吸い込んだ。
須藤はベンチに腰掛けたまま、彫像のように動かない。
切り捨てるような言葉や態度とは裏腹に、俺の反応を待っているようにも見える。
「お前の言うことは間違っていない。確かに俺はいい加減だった」
「おや」とでも言うように、須藤の形のよい柳眉が持ち上がる。
開きかけた唇をふさごうと、俺は早口でまくしたてた。
「ばあちゃんが死んでから、俺は他人のことにも、自分のことにも、全然興味が持てなくなった。好奇心をかきたててくれる何か、俺をおもしろがらせてくれる何かを無理やりこさえては、現実から目を逸らしていたんだと思う」
桜の枝が突然ざわめき、強い風が渦巻いた。その風になぎ倒され、地面にはいつくばった俺を見下ろして、紅を刷いたような赤い唇が綻んだ。
「目を逸らさなきゃならないほど、君の現実は悲惨なの?」
須藤は笑ったがその目は笑っていなかった。
「君が沙耶ちゃんに興味を持つのは当然だ。彼女は可愛いくて、謎めいていて、はかなくて、男なら誰でも手を差し伸べたくなっちゃうよね。わかったよ。僕はもう一度、君に望みを託すことにする。沙耶ちゃんの秘密も教えてあげる。その代わり、彼女を救うのは命がけだ」
「命がけ?」
「そう、命がけ」
氷のように冷たい指がゆっくりと俺の顎を持ち上げた。
「沙耶ちゃんはね、前世の記憶を持って生まれてきたんだ」
表情をこわばらせた俺の顔に、須藤の顔が近づいてくる。
至近距離から合わせた瞳は漆黒で、ブラックホールを覗き見ているようだった。
「前世で結ばれなかった恋人が迎えにきてくれるのを、彼女は今も待っているんだよ」
前世で結ばれなかった恋人。
それは、ばあちゃんの日記に登場する学徒動員で戦場に借り出された、青年将校に違いない。
当時、不沈艦と言われていた戦艦大和に乗り込み、そのまま戻って来なかった男の名は……。
「北村修司――沙耶ちゃんは、しゅうちゃんって呼んでる」
心の声を読み取ったかのようなタイミングの良さで、須藤が男の名を口にした。
「北村はきっと迎えに来るよ。海の底を歩いて戻ってくる。いちおう、お仲間だからね。会ったことはなくても、僕には彼の考えていることがわかるんだ。沙耶ちゃんは連れて行かれちゃうよ。彼女を救うのは命がけだっていうのは、そういう意味なんだ」
「応援はする」
そういい残して、須藤は姿を消してしまった。
(あの瞬間も水原は待っていたんだな)
海を見ていた水原の横顔を、俺はぼんやりと思い出していた。