10.好奇心
「寒くない?」
着ている上着を差し出すつもりで言ったのに、水原は拒絶するように首を横に振った。
いやいやながらも俺とのツーショットに甘んじているのは、セピア色に変色した写真のせいだろう。
まっすぐな瞳は、飽きることなく写真に向けられている。
きれいな瞳なのに見えないはずのものだって見えるのに、写真との距離はわずか十センチ。どうやらビン底眼鏡はダテではなかったようだ。
「……水原……お前さ……」
背中を思い切り後ろに逸らしてブランコをひとこぎすると、茶色に変色したブランコがきしんだ音をたてた。
前髪のすきまから覗く夕焼け空の一部が薄墨を流したようにほの暗い。
空には一番星が輝いている。
「幽霊なんかじゃ……ないよな?」
言ってから、ちらりと相手を流し見ると、一瞬だけポカンとなった水原は、肩を竦めてふふっと笑った。
「幽霊だったら、どうする?」
少し意地悪い笑顔だった。
「どうするって……」
言葉につまった俺を見て、水原は笑みを深くした。
「取り殺されたくなければ、かまわないで」
「…………」
何も言えずに固まっていたのは、ほんのわずかな時間だったと思う。
「お、おい、ありえないだろ!?」
俺はブランコから立ち上がり、手を伸ばして水原から写真を取り上げると、ビン底眼鏡におさげ髪の女の子を指差した。
「だ、だって、これ、お前じゃないし!」
水原は超度級の天才だけど、俺だってばかじゃない。
加えて言えば、俺の視力は両眼とも2.0だ。
虫眼鏡だって持っている。
水原は写真の女の子とは別人だし、加えて言えば幽霊なんかじゃない。
「幽霊は風邪をひいて学校を休んだりしない。触れれば体温だってあるし、抱き上げれば重いし、どう見たって生身の人間だ!」
逃げ出しそうな腕をつかむと、水原の顔が泣きそうに歪んだ。
明らかにいやがっている。
公園でこんな体勢を続けていたら、警察に通報されかねない。
それでも、ひるみそうになる心を叱咤して、腕をつかむ手に力をこめた。
わけのわからぬ何かにせきたてられるように、夢中で声を張り上げた。
「ばあちゃんの日記に登場する水原沙耶は、切れ長の目が印象的な大人っぽい美少女だ。老舗の旅館の一人娘で、三つ年上の恋人が出征した途端、花婿候補が山ほど現れた。男物の瓶底眼鏡はばあちゃんの入れ知恵だ。でも、恋人は戦死し、水原も亡くなった」
「お前は誰だ」と聞いたのは、水原を追い詰めるためなんかじゃなかったのに、焦点をなくした少女の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「どうして泣くんだ! ただ、俺は、お前を……」
そこまで口にした所で思考が停止した。
俺は……水原を……何だっけ?
どうしても言葉が浮かばない。
答えはすぐそこまで近づいているのに、あと少しのところで手が届かない。
水原が、ばあちゃんの名前を口にした日から、俺は水原のことばかり考えている。
よしえなんてよくある名前だし、聞き間違いで済ましてしまう程度の小さな声だったはずなのに、俺はその時から、水原の存在を強烈に意識し始めた。
彼女と一緒にいても、友達とさわいでいても、指導室に呼び出されていても、頭の隅っこにはいつも水原が居座っている。
ださい眼鏡に古臭い髪型。
仲の良い友達もいなければ、教室で笑顔を見せることもない。
でも、抜けるように色が白くて、制服の襟からのぞく首筋は折れそうに細い。
少しぽってりした唇は柔らかそうだ。
何もない空間に向かって、ふっと微笑みかけることがある。
細い指が暗号のような言葉を虚空に刻むのを見ていると、ドキドキする。
水原のことをもっと知りたい。
眼鏡の下の瞳を見てみたい。
水原にも俺を見て欲しい。
俺の存在に気付いて欲しい。
好奇心?
いや、違う。
「そうだ、俺は水原が好きなんだ」
思いを口にした途端、ひっぱたかれた。
受け取ったプリントをそこらじゅうにぶちまけた水原は、俺の拘束をほどいて逃げ出した。
そんなに俺が嫌いだったのか?
頬に手を当てたまま、茫然と視線を動かすと、空には一番星が光っていた。