1.電波系の彼女
水原沙耶に興味を持ったのは、席替え後、間もなくのことだった。
二年のクラス替え以来、廊下側の最後列に座っていた水原は、後ろから二番目の窓際に移動し、教室のど真ん中だった俺の席は窓際の一番後ろ、つまりは水原の真後ろになった。
ウチの学校の女子の制服は可愛いと評判だけど、その秘密はほとんどの生徒がスカートの丈を膝上十センチまで短くしているからだ。
水原のスカート丈はその逆の膝下十センチ。
トレードマークは、だっさい三つ編みと黒縁セルフレームのビン底眼鏡。
茶髪も巻き髪もメイクも香水も当たり前で、制服なんて着崩すためにあるのだと思っている連中の中で、あきらかにその存在は異質だった。
「外れだな」
ため息まじりの呟きに、水原の三つ編みがかすかに揺れた。
けれども盛大にため息を漏らしていたのは初めの頃だけで、俺はあることがきっかけで、猛烈に水原のことが気になりだした。
そして今、俺の最大の関心事は、二ヶ月前に付き合い始めた彼女のことでもなければ、いくつか掛け持ちしている部活のことでもなく、水原の電波ぶりを観察し、その謎を突き止めることになっている。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰のことわりをあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ
古文の時間は今日もよどみなく進んでゆく。
教師は生徒を無視しで授業を進め、生徒は教師を無視して内職に没頭し、時だけがとどまることなく流れてゆく。
水原はと言えば、きちんと背筋を伸ばし、一見、授業に集中しているように見えるけど、時折、窓の外を気にしている。
さりげなく観察を続けていると、水色のシャーペンがすっと持ち上がり、何もない空間に字を書いた。
(あ・と・で)
俺の胸がどきんと一つ鼓動を打つ。
「あとでって?」
少し身を乗り出してささやくと、制服の肩がぴくりと震えたが、水原は決して振り返らない。
何事もなかったように黒板に向かう背中から目を逸らし、窓の向こうに目をやったけど、どんなに目を凝らしても、そこには泣き出しそうな曇天が広がるだけだ。
窓を開けて思い切り手を伸ばすと、小さな水滴が手のひらにはりついた。
二時間目が始まったばかりなのに、にわかに放課後が待ち遠しくなってきた。
「ストーカー?」
ターゲットの後を追うべく席を立つと、背後から肩をつかまれた。
仰け反りながら振り返ると、桐谷匠が華やかな微笑を浮かべて立っていた。
「直哉は物好きだな。あんなブスのどこがいいんだ?」
きれいな顔をして桐谷はかなりの毒舌家だ。
俺はフンと鼻を鳴らし、肩に置かれた手をそっけなく振り払った。
「どうしてブスだってわかるんだ? お前、あいつの顔を見たことあるのか?」
わざと真顔で訊ねると、桐谷は珍しくうろたえた。
そりゃ、そうだ。水谷の場合は眼鏡のレンズが厚すぎて、ブスという以前にどんな顔をしているのかさえわからない。
桐谷がおとなしくなったので、俺は探索を開始した。
校内を探し回るまでもない。
水原は人気のない中庭にポツンと一つだけ置かれたベンチの端に座っている。
いつだって、たった一人で座っている。
「離れて座ってね。しゅうちゃんに悪いから」
水原は滅多にしゃべらない。
けれどもその声は、意外にもふんわりと温かで、耳に心地よい。
(しゅうちゃんって、誰だ?)
心の中で自問している間も、奇妙な会話は続いてゆく。
「……そりゃあ、話ぐらいは聞いてあげられるけど……」
切れ切れに聞こえてくる言葉に俺の表情は次第に険しくなってゆく。
植木の陰に身を潜め、水原の隣の空間に目を凝らしたが、やっぱり何も見えなかった。
水原沙耶はいかれている。
成績はダントツトップだけど、天才と何とかは紙一重だなんて言うじゃないか。
だから、こんなストーカーまがいのことはやめてしまおう。
大半の人間がそんな風に考えるだろう。
大きく一つ深呼吸をして、俺はその場に立ち上がった。
「水原じゃん、何やってんの?」
たまたま通りがかった風を装って、ひらひらと手を振りながらベンチの方へと歩み寄る。
水原は身じろぎもせずに固まっていた。
席は前後ろとは言え、ろくに口をきいたこともない相手から、親しげに名を呼ばれて、驚いているのかも知れない。
「隣、座っていい?」
「だめっ!」
ほとんど反射的に返ってきた拒絶の言葉を無視してベンチに腰かけようとした途端、俺は何かに突き飛ばされていた。
三メートルばかりも吹っ飛んで、顔面から地面に直撃した俺は、うめき声を上げつつ身を起こしたが、地面についた手にポタリと落ちた赤い液体を見て絶句した。
「大丈夫!?」
飛び立つような勢いで、水原が駆け寄ってきた。
差し出されたハンカチを押し返し、手の甲で鼻血を拭った時、背後でくすりと笑う声がした。
いつからそこにいたのだろう?
俺が腰かけようとした場所に学生服を着た少年が座っていた。
その輪郭が曖昧であることに気をとられ、彼が身につけている学ランが十数年前に廃止されたこの学校の制服だということに、その時は気付きもしなかった。
「沙耶ちゃんに、なれなれしく近づいたりするからだ」
少年がベンチから立ち上がると、俺は金縛りにあったように動けなくなった。
茫然としゃがみ込む俺を庇うように、水原が両手を広げて少年の前に立ちふさがる。
その足元には、ビン底眼鏡が転がっていた。
「沙耶ちゃんは、君のものにはならないよ」
毒を含んだ声にぞっとした。
「俺には……」 俺にはちゃんと彼女がいて、水原に手を出す気はサラサラらない。
そう言おうして、咳き込んだ。
喉を絞められたように、息ができない。
急速にかすれてゆく意識の向こうで、水原の声を聞いた気がした。
意識を飛ばしていたのは、ほんの短い時間だったと思う。
ほっとして息をついたのと、水原の背中がぐらりと前方に傾いだのは、ほとんど同時だった。
鼻血まみれの手で咄嗟に水原を支えた時、俺の足元でいやな音がした。
眼鏡のひしゃげた音だった。
けれどもやばいと思ったのは一瞬で、俺の目は水原の顔に釘付けになっていた。
色が白いのは知っていたけど、血の気を失った白い頬は本当に透けるようだった。
「……ありえねえ……」
思わず漏れた声が自分のものではないように上ずっている。
これほど整った顔を見たことがない。
やわらかく閉じたまぶたを縁取る長いまつげはまぎれもなく天然で、おおた慶文の描くちょっとレトロな美少女みたいだ。
抱き上げた身体は羽根が生えているかのように軽かった。
予想外に軽さによろめきそうになりながら、俺はベンチをかえりみた。
「学ラン」はどこへ行ったのか。
その姿は夢のように掻き消えていた。