第2話「花森翠は呼ばれたい」③
血で汚れた体を洗うために、先輩を入浴するよう説得し、お風呂に入ってもらった。
美人女子大生の部屋に招かれて、美人女子大生が風呂に入っているというのは相当に興奮するシチュエーションであるはずなのだが、先ほどの吐血騒ぎのせいであまり意識しなくなっていた。
それにしても強烈だったな……。彼女の、おそらく彼女自身でさえ知らない一面。変な性癖を開花させてしまったようで複雑だ。
ガチャ
風呂から上がり、着替えを済ませた花森先輩が部屋に戻ってきた。血は止まっている。
「さっきはごめんなさい。ちょっと取り乱してしまったわ」
少しシュンとしている。どうやら、迷惑をかけた自覚があるらしい。
「い、いえ、もう大丈夫そうで何よりです」
「まさか、あんなに私が弟萌えキャラになってしまうなんて思わなかったよ」
タオルで髪の毛を拭きながらベッドに腰をかける。色っぽい。
「そ、そうですね。吐血はやばいですからね……」
「うん、吐血だけはなんとかしないとね。それにしても……」
と顔を緩ませ、先輩はこうのたまう。
「『お姉ちゃん』って呼ばれるの、破壊力すごいわね」
「自分でもこんなに殺人的威力があるとは思いませんでしたよ……」
顔を引きつらせながら話す俺。花森先輩はうっとりさせていた表情から一変、悔しそうな顔を見せた。
「世の姉達はみんな毎日弟に『お姉ちゃん』と呼ばれているなんて……なんてうらやましい!!」
「それなんですけど、」
俺は彼女の発言を覆す意見を出す。
「僕ぐらいの年齢の弟で『お姉ちゃん』と呼んでいる人は、極少数だと思いますよ?」
「そういえば、翔ちゃんは前もそんなこと言っていたわね」
えーっと、あれは、喫茶店での「弟宣言」のときだったかな?
「そうは言うけど翔ちゃん、もしそうだとすると、世の姉たちはみんな蛇の生殺しのような思いをしていることになるわよ?」
「蛇の生殺し?」
美人女子大生の家に二人きりでいるのに手を出すことができない俺のことかな?
「そうだよ! 可愛い可愛い実の弟がいるにもかかわらず、『お姉ちゃん』って呼んでもらえない。それがどんなに辛いことだか、分かるでしょう?」
「さも当然のように同意を求められても! 世の姉達だって、みんながみんな『お姉ちゃん』と呼んで欲しいわけではないですよ。むしろ、姉の方がむずかゆくて嫌がるケースの方が多いんじゃないですか?」
「まさか!! そんな姉がいるわけがないわ!!」
「言い切った!」
すごい自信だなこの人。
「じゃあ聞くけれども、女の子と夜に二人きりのホテルにいるとき、邪なことを考えない男はいるかしら?」
「!! それは……」
一瞬、今のこの状況と重ねてしまう。ホテルではないにしても、美人女子大生の部屋。しかも、風呂上り。こっちの方がよっぽど妄想が捗る……って何考えてるんだ俺。
「これはそれと同じくらい当然の事象なのよ」
「いやいやいやいや、それとこれとは話が違うでしょうよ」
無茶苦茶な例え話にツッコミを入れる俺。
「ところで今、何考えてた?」
「え!? 別に何も考えてないですけど」
花森先輩が目を細めてニヤニヤしてくる。さっきのが顔に出てたか?
「顔が赤いぞ~♪」
そう言われて更に顔が赤くなる。くっ、この人面白がってるな。照れる俺を見て面白がってるか、愛でてるかどっちかだ。
俺はその流れに乗るまいとして少し大きな声で「とにかく、」と続けた。
「世の姉の中で弟に『お姉ちゃん』と呼ばれたい人なんてそういないってことです」
「じゃあ、世の姉は弟になんて呼ばれたがっているの?」
「う~ん、そうですね~」
俺は腕を組んで考えてみた。改めて聞かれると、分からない。周りに姉を持つ人がそういないから、参考例が浮かばない。
その様子を見て、花森先輩は何かを思いついたような表情を見せた。
「それじゃあ翔ちゃん、私にちょっと『お姉ちゃん』以外の『姉呼び』をしてみてよ!」
「え……」
唐突だなこの人。その流れでいきなり来るとは思わなかった。
ルンルン顔になり、呼ばれるのを待つ花森先輩。
「大丈夫! 今度は吐血しないから! 我慢するから!」
本当に大丈夫かな? まぁ、「お姉ちゃん」なんていう甘甘な呼び方ではないから大丈夫かな。
花森先輩が「棒読み禁止だからね~?」と釘を刺してきたので、今回はできる限り感情を込めて呼ぼう。
「分かりました。ではまず……『姉貴!』」
少し力強く言ってみた。俺の中での『姉貴』と呼ぶ弟は、声が大きいイメージがある。多分、野球部に入っていそうな短い髪の活発少年のイメージからだ。偏見にも程がある。
「……」
花森先輩は黙ってこっちを真顔で見ている。あれ? なんか変だったかな。
「じゃあ、次行ってみよう」
「は、はい。では次は……『お姉さん。』」
今度は、優しくふわりと言葉を止めるように言ってみた。俺の中では美少年が言うイメージ。これまた偏見以外の何でもない。
「なるほど」
これまた微妙な反応。あれ? 何でだろう? 花森先輩だったらどんな風に言ってもノーリアクションってことはなさそうなのに。俺の演技が下手なのかな?
「では、次行きますね。……『姉さん』」
これは、できる限り普通に、それでいて棒読みにならないように意識した。これに関しては、何のイメージもない。普通の人が言うイメージだ。今までの呼び方が普通じゃないという意味ではない。
「……」
さっきよりノーリアクション。もはや何も言ってくれない。う~ん。普通過ぎだからな~。てか、花森先輩がどこ向いているのか分からないような目をしている。
「ツヅケテ」
ん? 今、なんか先輩、カタコトじゃなかった? 気のせいかな。普段楽しそうに喋る人だからこういう時、棒読みに聞こえちゃうのか。
そうだな~。ここまであんまり良い反応もらえていないから、次は今まで以上に気合入れて呼んでみるか。
「では、行きますね……『ミド姉!』」
今度は、「名前+姉」と言う愛称に近い呼び方をしてみた。この呼び方は、姉弟仲がいいイメージがある。今までの呼び方で姉弟の仲が悪いというわけではない。ただ、実際のところ、こういう呼び方をできるのは姉弟仲が良好という証拠だと思う。
「……」
あれ? これも反応なし!? 結構気合入れて呼んでみたのに……。流石にちょっと凹む。
ツー
花森先輩の方を見ると、鼻から一筋の血が流れている。さっきの血が止まりきってなかったのか。ちょっと心配になって、先輩に尋ねる。
「あの、大丈夫ですか? 『ミド姉』?」
おっと、さっきまでの続きでついつい「ミド姉」と言ってしまった。
とそのとき、花森先輩の鼻から出る血の量が増していき……、
ドバッ
一筋どころじゃなくなった。
「うわぁぁぁぁぁーーーーー。ちょっと花森せんぱーーーい」
今まで以上に大声になる俺。目の前でここまで鼻血を噴出されたら誰でもビビる。
「もう我慢できないーーー!」
「我慢していたんですか!?」
今までの無反応ってそういうこと!? 何にも感じていないようで、心の中ではしっかり戦っていらっしゃった! 口を開けていないから、鼻から出たらしい。
「ハァーーー! 良い! 弟の言う姉の呼称良い!!」
自分の頬を触りながら上を向く先輩。不思議と血はもう止まっていた。抵抗力がついたか。鼻から垂れてはいるけれど。
「点数をつけるなら、『姉貴』は一番低くて四十点ね。今回は初めて呼ばれたからぐっと来ちゃったけど、私に対してはあまり向いていない言葉ね!」
なんか勝手にレビューを始めた。さっきまであんなに静かだったのに! 落差が激しすぎる! ついていけてない俺をよそに、先輩は評価を続ける。
「『お姉さん』は、すごく良かった! 九十点よ! 私が『THE姉』と感じることができる素晴らしい言葉ね! 『お姉ちゃん』の敷居が高い人に是非使って欲しいわ!」
誰に向けたレビューなんだろうこれ。
「次の『姉さん』は先程の『お姉さん』から『お』を取っただけで、一気にフランクになったわ! 自由な感じを演出できて、誰でも自然に呼びやすい最高の『姉言葉』ね! これが百点!!」
「姉言葉」ってなんだろう。また新しい言葉を作り出したぞ、この人。主張自体は分かるんだけど……。
「そして、『ミド姉』!! 百五十点!! 姉弟の親密さを感じるこの呼び方! 仲が良くないと使えない呼称! 天才! 翔ちゃん天才よ!」
興奮気味でさっきまでに比べると雑な評価だが、それだけ気に入ったんだろうか。ていうか、百点が上限じゃないんかい。
「あれ? 『ミド姉』が百五十点なら、『お姉ちゃん』は何点ぐらいなんです?」
あっ、しまった。お姉ちゃんって言ってしまった! また吐血される!
しかし、花森先輩は鼻をつまんで口を抑えることで吐血を防いでいた。床に這い蹲るその様は、嘔吐直前の酔っ払いみたいで見ていて悲しい。だが、どうやら血を押さえ込んだようで、血の量は先程と対して変わっていない。
「『お姉ちゃん』は、五百点よ」
「点数高っ!! 何点まであるの!?」
もはや上限が分からない。興奮状態にあるせいか、アホ毛が前後運動を繰り返している。なんだこれ。
「ねぇ、翔ちゃん! 『お姉ちゃん』じゃなくていいから、これから『ミド姉』って呼んでよ!! 私、この呼ばれ方気に入っちゃったの! できれば『ミド姉ちゃん』みたいに『お姉ちゃん』呼びして欲しいんだけど、それはきっと敷居が高いだろうから、ね! お願い! ハァハァ」
そう言って俺の肩を掴んで顔を近づける美人な先輩。目こそハートに見えるが、鼻と口から血が出ている。台無しだ。
やばい、さっきよりやばい。息が荒くなって「ハァハァ」言ってる。性別が逆なら完璧アウトな反応だ。まぁ、性別逆じゃなくても色々アウトだが……。
「花森先輩、とりあえず血を拭いてください! 部屋が汚れますって! それから、また風呂入ってください!」
さっき吐血を押さえ込むためにかがんだとき、床の血が髪についたようで、明るい茶髪が真紅に染まりつつあった。
「えーそんな呼び方じゃ他人行儀じゃない!」
「いいから風呂に入ってきてくださーーーい!」
ごねる花森先輩を風呂に入れ、俺は汚れた床を拭く。一日に二度も血を拭くことになるとは思わなかった。
拭き終わった俺は、流石に疲れ、作業台とベッドの間のスペースに寝転んだ。やはり、とんでもない性癖を開花させてしまったようだ。
もうお姉ちゃん呼びはやめたほうがいいかな。こんだけ血が出たら命に関わりそうだ……。
天井を見上げ、さっきまでのことを思い出す。
「プ……。ッハハ、アハハハハハハ」
自然と笑ってしまっていた。お腹から目いっぱい笑ってしまった。
新学期早々、どんなことに巻き込まれているんだか。
今年度が始まって一週間、全く退屈しない。やれやれ、しょうがない姉だ。
*
知らない天井だ……。
実際に使う機会があるとは思わなかった。どうやら寝てしまったらしい。あれ?けど、俺、確か床で寝ていなかったっけ?これは……ベッド?
「翔ちゃん、おはよう。もう朝だよ」
「花森……先輩?」
俺はいつの間にか花森先輩のベッドで寝ていた。すでに部屋着から普段着に着替えたらしい格好の花森先輩が俺を覗き込んで挨拶してきた。
「あー、また『花森先輩』って他人行儀な呼び方してー」
「もしかして、運んでくれたんですか?」
「そうだよ。お風呂から上がったら、翔ちゃん寝ちゃってたから。風邪ひくといけないから、お姉ちゃんらしくベッドに寝かせてあげたんだよ」
それは迷惑をかけてしまった。まさか、寝てしまうとは思わなかった……。そこまで眠いという自覚もなかったのに。
「ありがとうございます。花……いえ、ミド姉」
「え?」
俺は、昨日の呼び方を彼女に向ける。
「あ、吐血は我慢してくださいよ! 姉弟関係を演じていくのに、毎回吐血されても困りますから、ひとまずこの呼び方でリハビリしてください」
照れながらも、最後は笑顔でそう言った。ミドリさんは、嬉しそうに頷くと、
「うん! もちろん!」
と快諾してくれた。
姉弟の距離が、少しは近づいた気がする。
「あ、そういえば、絵のモデルを徹夜でやるって言ったのに寝ちゃってすみません」
「それなら大丈夫! 翔ちゃんの寝顔、たくさんスケッチできたから」
「え……」
別に構わないけど、無意識のところを許可なくスケッチされると気恥かしさがこみ上げてくる。
「寝顔の翔ちゃん、まるで天使のよう……。こんなスケッチできるなんて今日はついてるわ!」
「それ、夜中にずっと書いてたんですか? だとしたら、寝てないんじゃ」
「大丈夫よ。スケッチを終えたのは五時くらい。それからはちゃんと寝たわ」
「あ、そうなんですね。でも、きっと気持ちよく眠れなかったんじゃ……。ほら、僕がベッド専有しちゃってますし」
「翔ちゃんの隣でベッドを半分こして寝たから大丈夫よ」
「え!?」
俺の知らない間に一緒に寝るというイベントが発生したことに驚く。恋人か!
「翔ちゃんと同じ布団、いつもより温かかった……」
頬に手をやるミドリさん。俺は全く感触も温度も覚えていない。出会って一週間で一つ屋根の下で同じベッドで寝るとか……カップル顔負けの進展の早さだ。
しかし、俺にとっては心臓に悪いだけだ。一応姉(?)だし、信頼してくれている手前、手を出せないけど、柔らかい感触は味わいたい。まさに蛇の生殺し。寝ていたことが嬉しいような悲しいような。
「今回は僕がベッド奪っちゃったから何にも言えないですけど、そういうのは心臓に悪いんでやめてくださいってば!」
「え~。私、お姉ちゃんなのに~」
「お姉ちゃんなら、もっと弟との距離を考えてくださいよー」
「今、また『お姉ちゃん』って……ゲハッ」
「また!? ちょっと、ミド姉! ミドねぇーーー!」
ミド姉と出会って一週間、関係性は大きく進展した。彼女は姉心を少し理解し、新たな扉を開いた。漫画に生きるかどうかは分からない。
俺は、ミド姉という人の新たな一面と出会った。
俺が彼女に与えているモノが、本来の弟という道なのか不安だが、とりあえず進んでみないと分からない。今できることを精一杯やろうと思った。
部屋では、吐血して倒れるミド姉。そして、彼女の名前を叫ぶ俺。朝から騒がしい成り立て姉弟の姿があった。
第2話を読んでいただいてありがとうございます。
今回は、早めのペースで投稿することができました。
次も精進しますが、おおよそ三日に一回くらいの更新になるのかな?と思っています。
大体1話を3つに区切っているのですが、この量が多いのか少ないのか、分かりませんね。あまり多すぎても・・・と思って3つに区切っているのですが。
そういえば、第1話を投稿して、ブックマークしてくれた方、点数を入れてくれた方、とても嬉しかったです!ありがとうございます!作った作品が、とにかく人に見てもらえるというのは、嬉しいものですね。
私自身も、楽しく書く事ができていますので、これからも頑張っていきたいと思います。
それではまた!




