第18話「弟は姉を信じたい」②
岡村翔平
緋陽里さんに教えてもらった住所に行き、扉を開けると、そこには昨日見た、妙に威厳のある女性ではなく、単に無表情なミド姉の母親がいた。
「こんばんは、花森さん。翠さんのことで、話があって来ました」
全力で走ってきたため、息を切らせてしまっている。俺はまず、話に入る前に息を整える。ミド姉の姿が見えないのが気になるが、今用事があるのはミド姉ではない。この母親に対してだ。
「お願いします! 翠さんに、また漫画を描かせてあげてください!」
息を整えてすぐ、俺はミド姉の母親に頭を下げた。
「翠さんは、すごい人です! 絵も話も上手だし、固定のファンだっている。以前お話しましたけど、翠さんは強い精神力だって持っています。この半年で、とはいかないかもしれませんが、いつか絶対に漫画家になれます! だから、彼女に漫画を描かせてあげてください!」
「それは無理だ。言ったはずだろ? 絶対なんて存在しない。どんなに確率が高くてもな。むしろ、確率は限りなく低いんだ。夢を見るんじゃない」
母親は、冷たい目線を俺に浴びせる。だけど俺はそれにひるむこともなく言葉を出す。
「夢を見て何が悪いんですか! 確かに限りなく低い確率の夢かもしれませんが、それでも、現実ばかりを見て一歩踏み出さない人に比べたら、何倍も素晴らしいと思います!」
「別に夢を見ること自体を否定しているわけじゃないさ。だからこそ、翠には三年間、一人暮らしをさせたし、漫画を描くことに私は口を挟まなかった。だがな、今は違う。時期が悪い。今は夢を追う時期じゃあないんだ。現実を見据えなければならない時期なんだよ」
ミド姉の母親の言葉から、怒りが増していくのが分かる。話しているうちに、昨日と同じ鬼の風貌を纏った彼女になりつつある。
「翠は、その夢のせいで全く現実が見えていない。そんな夢はもう、害悪以外の何でもないだろ?」
「翠さんは、夢を追いかけてばかりじゃない!」
俺はここで、声を荒げて主張した。普段は出さないような、大きな声を出して……。
「分かっていますよ……。現実を見なければいけないことぐらい……。夢ばかり追っているからって、その夢が実現する可能性が低いことぐらい……、彼女が一番よく分かっていますよ!」
「分かっているだと? いや、分かっていないな。あいつは漫画に縛られすぎていて、現実を見えていない。だから、就活だってまともにやらなかったんだろ?」
「確かに、これまでの翠さんの就活状況は、他の就活生に比べるとかなり遅いですよ! 面接を受けた企業だって少ないですよ! けど、今はきちんとやっています! 遅めのスタートではあったけれど、全力で取り組んでいますよ! それこそ、漫画を描くのも我慢して、早く就活を終わらせようと努力しています!」
俺のそんな主張を聞いて、母親は一層不機嫌になっている様子だ。繰り返し何度も同じことを言ってきているから、いい加減イライラを抑えられないようだ。
「それは翠から何度も聞いている。だが、そんなことは信用できない。翠はどうせ、また漫画を描く。そうして職にあぶれる。親として、娘が間違っている道に進むようなことはできないな」
この人は……。昨日から何度も何度も思っていたけど本当にどうして……。
俺は抑えが効かなくなり、思いっきり大声で彼女にミド姉のことを主張する。
「どうしてあなたは、翠さんのことを信じてあげないんですか!! 翠さんが、バカが付くほどの正直者だってことは、あなたが一番よく分かっているんじゃないんですか!?」
「!!」
その言葉を言ったとき、この女性が驚くような表情を見せた。怒り以外で俺が見る、初めての表情だった。俺は、そんな彼女を見ながら話を続ける。
「だって翠さん、バカ正直じゃないですか……。僕の顔を見て、高校生みたいだとか、成人しているように見えないだとか、何回も何回も言ってくるんですよ……」
今までのミド姉とのやりとりを思い出しながら、俺は具体例を挙げる。
「友人なんか、弟の代わりにされかけたけど、やっぱり違うって、ストレートに言われたんですよ。オブラートに包めないにもほどがありますよ……」
即売会の後日、大樹から聞いた話を持ち出し、同情するように俺は語る。
「今回だって、建前で何社も受けたって嘘を付けばよかったのに、しなかったんですよ? 結果的にここまで大事な言い争いへ発展するまでになってしまうのに、それでも正直に言ったんですよ?」
俺は、昨日のミド姉と母親の会話から、状況を推測してそう話す。
昨日彼女は、
『昨日の話を聞いて、あんたが就活に力を入れていないのは明らか』
『未だに二社しか受けていない』
と言った。それはつまり、ミド姉が嘘をつかずにありのままの就活状況を伝えたということだ。
この母親がミド姉を信じられない理由、それは、ミド姉が就活に対して不真面目で、その原因が漫画にあると思っているからだ。そして、就活を不真面目だと断定しうる最大の原因が、まだ面接を二社しか受けていないということだと考えられる。教育に厳しい彼女にとって、文系の娘の七月終わりにおける就活状況で、この数字は非常に少ないものだ。ミド姉はそれを分かっていたけれど、それでも嘘はつかなかった! それだけで、ミド姉の言葉を信じられる要因になるではないか。
母親は、今まで俺が主張をすると、必ず反論を繰り出してきたのに、今はじっとこちらを見て何も言わない。表情も相変わらず怖いままだが、いつもよりも目が開かれ、驚きを隠しきれていない様子だ。何かに気づかされたって顔をしている。理由は明白だ。
「そんな翠さんが、今はちゃんと就活しているって言ってるんです! 僕も知っています! 翠さんが頑張っているって知っています!」
いつの間にか俺は目をつぶり、声だけを張り上げていた。現在は夕方。田舎で家の間隔が離れているとはいえ、ここは住宅地。周りの迷惑にならないわけがないが俺はそれでも、声を張り上げずにはいられなかった。
「だから……。だから、何に対しても努力家な彼女の言うことを信じてあげてください! お願いします!」
再度俺は頭を下げる。一度目よりも深々と下げ、そのままミド姉の母親がしゃべるまで静止する。
「あんた、一体、何なんだ? なんだって他人である翠のためにそこまで言える?」
俺は、一瞬だけ回答に迷ったが、今度は自信を持って宣言した。
「僕は、花森翠さんの『弟』です!」
「は?」という声が聞こえる。分かっていた。分かってはいたさ! そりゃこうなるよね! 他人の母親の前で、いきなり息子宣言したらそうなるよね!
だけど、俺はこう言ったことに後悔なんて何もない。今は、ミド姉を見習って正直にいようと思う。
「僕は、翠さんの……、いえ、ミド姉の描く漫画に登場する弟のモデルです! ですけど、弟であることに変わりはありません!」
言っていて恥ずかしくなってくるが、ここで羞恥に負けるわけにはいかない。呼び方もミド姉に変え、怪訝そうな顔をするミド姉の母親の眼光にひるまずに主張を続ける。
「だから、弟が姉を信じるのは当然なんです! 姉が困っていたら、弟が助けるのは当たり前なんです! そして僕は……、ミド姉が素晴らしい漫画家になれるって信じたいです! 僕をきっかけにして新しい漫画が描けるって言ってくれた彼女の言葉を僕は信じています!!」
言いたいことを全て言い終えて、俺はぜぇぜぇと息を切らす。普段こんなに大声を出さないから、酸素が足りない。思えば、さっきまで全力疾走してここまで来て、その後緊張状態の中、声を張り上げていたら、こんな状態になるのも当然だ。
今すぐ倒れてしまいたいが、この母親から了承を得られるまで倒れるわけにはいかない。ミド姉の母親は、ずっとこっちを見たまま何も喋らない。先程までひび割れかけていた鬼の表情は、いつの間にか元の無表情に戻っている。そのため、彼女が今何を考えているのか分からない。
「翔ちゃん……」
最初に沈黙を破ったのは、いつの間にか母親の横に立っていたミド姉だった。顔には泣きはらした跡があり、今も瞳が潤んでいる。
「翠、話がある。居間に来い」
「……え?」
そう言うと母親は、一階の奥にある居間に向かって歩き出し、入る前に俺に向かって一言加える。
「あんたは、二階にある翠の部屋で待っていなさい」
俺は、酸欠で頭が上手く働かないが、言う通りにすることにした。どっちにしろ、もうこれ以上何かを言うことはできなそうだ。
俺の主張は……、彼女に届いたのだろうか?
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