第16話「花森翠は主張したい」②
それから、私たちは家に戻ってきた。セミの声が部屋に響く中、私は何もすることがなく部屋で横になっている。
「家に帰ってきても、やることがなくて暇ね」
液タブはマンションにあるし、実家の私の部屋にはパソコンもないから、文書ソフトでエントリーシートを書く事もできない。ここにあるのはスケッチブックくらいだ。被写体の翔ちゃんもいないから、想像で描くくらいしかやることがない。
「何もしないよりはマシかな。翔ちゃんでも描こーっと♪」
単純なスケッチではなく、今回はイラスト調に翔ちゃんを描く。ペンが自然と動いて止まらない。早く、本当の原稿にしたいな。
コンコン
部屋にノックの音が響く。お母さんだ。私は、「どうぞ」と言って母に入室の許可を出す。
「絵を描いていたのね」
「うん。お父さんのお墓を見たら、描きたくなっちゃって」
「そう」
母は真顔でそう答える。私は、一度目を合わせると、またスケッチブックに向き直り、絵を描き続ける。
「絵もいいけど、あんた、就活はどうなってるの?」
私の手が一瞬、ピクリと止まる。でも私は、すぐにまた描き始める。
「連絡が来ていなかったけど、ちゃんとやっているんでしょうね?」
「うん。まぁ、やってるよ」
私は曖昧な返事しかできない。母が教育に関して厳しいことは知っている。だからこそ、後ろ暗い気持ちがある。
「それで、そろそろ目処は立っているんでしょうね?」
「……」
私は即答できない。母の指導者としての威厳に圧倒される。いつの間にか、私の手はまた止まっていた。
「立っていないの? 今、何次面接まで受かっているの?」
「えっと……、まだどこも……」
「……」
雰囲気が悪くなるのを感じる。母の表情は何も変わっていないが、明らかに不機嫌になるのを感じていた。
「そう。全部落ちたってことね。まさかとは思うけど、この大切な時期に漫画なんてくだらないものを描いてるんじゃないでしょうね?」
私はその言葉にカチンと来て、ついつい言葉に熱が入ってしまった。
「なんかって何! 私にとって漫画を描くことは大事なことなの! なんかなんて、言わないで!」
「『なんか』でしょうよ。あんたは漫画家になるって言っているけど、まさか、漫画家になるって理由で就活をおざなりにしているわけじゃないでしょうね?」
「そんなことない! 漫画家になるっていう夢は本気だけど、私はちゃんと今、就活だってやっているよ!」
「そう、それなら文句はないわ。ちゃんと就職してくれれば、私はそれでいい」
その言い草は、明らかに漫画家を視野に入れていない言い方で、私はそれが気に入らない。
「お母さん、私が漫画家になれないと思ってるのね? 大学生になる時は、信じてくれていたのに」
「あの時だって、本当は止めたかったわ。それでもあんたはここじゃない大学に好成績で合格するし、一人暮らしをせざるを得なくなった。それにあんたがどうしてもって言うから、しょうがなく信じてあげたのよ。けど、今はもう大学四年でしょ? もう夢を見る期間は終わったのよ」
母は、辛辣な言葉を次々と繰り出す。夢を追う実の娘に向かって。言っていることが的を獲ているだけに、私は悔しくてしょうがない。
「とにかく、あんたがちゃんと就活してるならそれでいいわ。就活は落ちるものだから、この時期でも全部落ちたことをどうこう言いはしないけど、できるだけ早く受かりなさい。それで、今までは、何社くらい受けたの?」
「……」
私は一瞬口ごもる。嘘も方便という言葉があるように、適当な数字で母を納得させ、引き下がれば良かったのだが、私のバカ正直な性格が裏目に出る。
「……二社」
「…………は?」
母の言葉の苛立ちが明らかなものになる。
「二社? 翠、あんた、この時期にまだ二社しか受けていないの?」
無表情ではあるものの、私には母が驚いているということが分かる。同時に、いつ爆発するか分からない程の怒りを持っていることも……。あるいは、すでに内側では爆発しているのかもしれない。
「一体、今まで何をしていたの? さっき就活はちゃんとやっているって言っていたわよね? これのどこがちゃんとなわけ?」
私は、何も言えない。確かに、同人誌を描いたり持ち込み用の原稿を描いたりしていて、就活に力を入れていなかったのは事実だから……。
「やっぱり漫画を描いていたってわけね。この将来を決める大切な時期に……。よくもまぁ時間を無駄にするようなことができるわね。信じられないわ」
「無駄じゃない! 先日の同人誌即売会だって、私の印刷した同人誌は完売したんだから!」
「考えてみなさい。三年までの間にデビューできたなら、百歩譲ったとして、漫画家になることを認めてあげても良かったわよ。けど、できていないってことは、あんたに才能がないってことでしょ? あんたの話が面白くないってことよ」
「確かにそうだったかもしれないけど、今は違う! この四月に出会ったきっかけのおかげで、私は漫画家になれる自信がある! 絵だって、お話だって、両方とも上達しているんだから!」
「それはあなたの勘違いよ。同人誌と商業誌じゃあ根本が違う。読者層も広く一般になってくる。趣味だけの世界じゃないのよ」
編集者としての鬼の顔で鋭く私を睨みつける母。私はそれでもひるまずに母の目を見続ける。
「翠、現実を見なさい。漫画家なんて、そんなにホイホイなれる職業じゃないってことは、あんたも分かっているでしょう? そんなくだらない夢を追い続けていたら、いつか後悔するのはあなたなのよ? ちゃんと分かるわよね?」
「確かに、就活に力を入れていなかったのは認めるよ。想像以上に難しくて、どこにも受からない。けど、私は同人誌を描き上げたことに何の後悔もしていない! むしろ、この時を逃す方が絶対後悔するって自信を持って言える! だからと言って、就職をしなくていいなんてことも思っていないよ! その辺の現実は、私だって見えてるよ! だから今だって、本当は描きたいけれど、漫画よりも就活に力を入れてるんだよ!」
私は思いの丈を伝える。自分の正直な気持ちを母親にぶつける。自分は後悔をしてはいないと。そして、全力で今は就活に取り組んでいることを。
しかし、母親にその思いは届かない。
「信用できないな」
母は冷たい目線を向けてくる。いつもの無表情は怒気を含み、言葉遣いも変わり、いつもより刺を増す。母から感じるオーラが、私は怖くてしょうがない。
そして母は、私にとって残酷な結論を下す。
「あんた、うちに帰ってきな」
そう言う母の目は、私を一切信用していない目をしていた。目の奥に見える紫色の光が、こちらの目を射抜く。編集部で『血も涙もない鬼』と呼ばれる所以となる、鋭い眼差しだ。
「漫画なんか描かせていたことが間違いだったんだ。このまま一人暮らしを続けていても、あんたはどうせ漫画を描くだろ? その後どうなる? 就職浪人でもするのか? もう一年分の学費は誰が出すんだ? 家賃だってあるだろ? 私はそんなくだらないことに金なんか出したくないね」
私は、普段出さない荒げた声を母親に向かって出す。
「なんで信じないのよ! 漫画家の夢が狭いってことは分かってるよ! だから、ちゃんと就活しているって言ってるでしょ!?」
「だから、信用できないって言っているだろ。あんたが今までやってきた行動を見れば、それは一目瞭然だ」
「そんなっ……」
私は悔しさで、涙がいっぱいになる。それでもなお、母を睨み続け、決して弱いところは見せない。
「私は帰らない! 就活もすぐに終わらせて漫画を描く! そして、漫画家になるんだから! お母さんに文句なんて言わせない!」
勉強机に置いてあった自分のバッグに荷物をまとめ、私は家を出る準備をする。母は私を止めようとしない。依然として部屋の中に立ち続けるだけだ。
「あんたがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ」
私は、その母の言葉を無視して扉から外に出る。階段を下り、靴を履いて、玄関を乱暴に開け、家から駆け出していく。
田園風景の広がる田舎町を駆け抜け、私は駅へと向かう。田舎の日差しが照りつける中、私の目からは雨が降り続け、乾いた土を濡らしていく。
駅までの長い道を私は一度も止まることはなかった。
*
下宿先の最寄駅に着いたとき、すでに辺りは暗くなっていた。私は、トボトボと駅から自宅に向けて歩き出す。
「翔ちゃん……」
愛しい弟の名前を口に出しながら、駅から大学に続く道を歩く。ライトで照らされた道をひたすら、ぼーっとしながら歩いていたので、大学から駅に向かって歩いている学生が何度か私を避けていった。
私は、昼の母の言葉を思い出す。
『信用できないな』
漫画家の夢が否定されるのは分かる。狭き門だということはこっちも重々承知だ。
就活を遅く始めたのも私の責任だ。同人誌を描いたり、絵を描いたりしていたんだから。
だけど、私はそうしていたことに後悔なんてしていない。むしろ、やって良かったと間違いなく思っている。私が絵を描くと決めていなかったら、翔ちゃんにも出会わなかっただろうし……。
だからこそ、遅いスタートは褒められたものではないかもしれないけれど……、それでも、今まさに全力で就活に取り組んでいるというのに……。現実を見ているからこそ、大好きな漫画を描かずに頑張っているというのに……。
大学の中にあるアーケードは夜にも関わらずライトで照らされているが、誰もいない。アーケードの中にある就活サポートセンターの看板が目に入り、足を止める。先日受けた、面接対策を行う部屋の前に置かれている。
それを見たとき、闘志が湧いた。
そうよ! 私は、今やるべきことはちゃんとやっている! まだ七月。現時点で内定をもらっていない人だって、多い時期じゃない!
母親に色々言われたこれを期に、今まで以上に精を出せば、すぐに終わるはず!
「信じないなら、信じさせてやるわよ! 私が早く就活を終わらせれば、お母さんも文句は言わないはず!」
私はそう決意して、家に向かって再び歩き出した。
*
帰宅途中、道路に隣接する住宅街の中にある喫茶店の方向を一瞥する。すでに夜であるため、閉店を迎えている時間だ。バイトに入っていたとしても、翔ちゃんも桃ちゃんも緋陽里も朱里ちゃんも帰っているだろう。そう思って、喫茶店のある方向から目を離すと、
「あれ? ミド姉?」
聞き慣れた声がどこからか聞こえた。
「翔ちゃん!?」
翔ちゃんは私が向かって歩いている方から、私のところに歩いてきた。
「え? 何で? 翔ちゃんのシフトは、昼の時間じゃないの?」
「そうなんですけど、八月の中旬までにできる限り資金を集めたいと思っていて、マスターと交渉して昼から夜まで入れてもらっていたんですよ。たまたま、今日は夜もそこそこのお客さんが入ったので、感謝されてラッキーでした」
私に向かって笑いながら話す翔ちゃん。あーーー、可愛いーーーー! この笑顔を見ているだけで、元気になれるわ!
「それより、ミド姉は今帰りなんですね。てっきり、一泊ぐらいしてくるものだと思ってたんですけど」
「ううん、明日は講義が入っているから、元々帰ってくるつもりだったよ。それに……」
私は、一瞬言うのを躊躇ったが、続けて話す。
「お母さんと喧嘩しちゃって……。あはは」
私は乾いた笑いをし、翔ちゃんにそう言った。
「け、喧嘩ですか?」
「うん。ちょっと就活のことで色々言われて……、つい家を飛び出してきちゃった」
「そうでしたか。だからミド姉、元気無さそうだったんですね」
さりげなく翔ちゃんは、私の様子に気づいていたような発言をした。それが私にはたまらなく嬉しい。
「わっ!」
気づくと、私は翔ちゃんに抱きついていた。翔ちゃんの体温を感じ、私は癒される。こうしているだけで、さっきまで怒りと悲しみを持っていた私の心は落ち着いていく。
翔ちゃんは、そんな私の仕草を『不安を紛らわすための行動』と受け取ったのか、優しい声で私に言う。
「僕で良かったら、お話を聞きますよ?」
*




