第1話「岡村翔平はきっかけが欲しい」③
考え事をしている時ほど、小説の内容が頭に入ってこない時はない。待望の最新刊で、今日という日ほど読書に適した日はないというのに。
俺は、ページの進まない小説を閉じ、ベッドの横の本棚に置くと、部屋の天井を眺めた。
俺の家は、学校から徒歩で二十分程度のアパートの二階である。駅から多少距離があるからなのか、家賃は比較的安めで、部屋は同家賃の部屋よりも広いのが特長だ。1Kで八畳、ベランダ付き、トイレと風呂は別で、風呂場の前には脱衣所もある。大学生の一人暮らしにしては中々の良物件だ。
現在は午後九時四十分。晩ご飯を食べ終え、入浴も済ませてのんびりしている。本来なら読みかけの小説を読んでいるところなのだが、今日は気乗りしない。結局、彼女、花森翠さんと別れたあと、喫茶店で小説を読む気にはなれず、しばらくボーッとしたあと、帰宅した。
喫茶店での出来事を思い出す。美人な先輩女子大生に気に入られ、仲良くなった。その後、自分をモデルに絵を描きたい、あわよくば、姉弟みたいに仲良くして欲しいと告白された。
他の男子大学生が聞いたら、みんな羨ましがりそうだな。もしくは信じてもらえないかだな。実際俺も最初は告白かと思ったし。
うわ、自分で何調子乗ったこと言ってるんだ、俺。自分で自分に引くレベル。自意識過剰も甚だしい。
「綺麗な人だったなー」
彼女は本当にきれいで可愛くて、笑顔が素敵だった。あんな美人さんに告白されて、断る男はいないかもしれない。
とにかく、実際、花森翠さんは「弟になって欲しい」と言ってきたんだよな。真剣に、一切のふざけもなく。初対面にこんな要求をするなんて、一体どれほど勇気がいるんだろうか。好きな人に告白する以上に緊張するんじゃないか?
でも、俺はそれに応えることができない。だって、俺たちは本当の姉弟じゃないんだから。彼女の弟を演じるなんてできない。
それにしても……、彼女は眩しかった。趣味である漫画でさえもあんなに真剣に取り組んで、自己満足であったとしてもしっかりと目標を立て、そこに向かって全力を出す。まさしく、夢を追いかける者だ。
「俺とは、正反対だ」
考えていたことがつい口からこぼれてしまった。夢を持たず、だらだら時間を浪費するだけの生活。特技という特技もないし、自分を研鑽するでもない。そんな自虐的なことを考えてしまう。
こんなに至近距離で夢追う者を見たことはない気がする。それだけに、輝きもいつもより至近距離だった。そんな眩しい彼女を見ていると、応援したくなる。
彼女はきっといい漫画を描くんだろうな。そのために俺ができることがあるのだったら、協力してあげたい。
「……ん?」
ふと俺は自分の感情に矛盾が生じているんじゃないかという感覚を持った。
彼女に協力してあげたいと思っているのに、なんで弟になるという要求に応えられないんだろう。
非現実的だから? 本当の姉弟にはなれないから?
そこまでしなくても、言い方は悪いが、姉弟ごっこのようなことをして、花森さんがいい漫画を描ける参考になるだけでいいんじゃないか?
「それなら俺でも……」
とここまで考えて、俺は思い至る。
そうか、俺は、未知の領域に飛び込む勇気がないんだ。
彼女の弟になることを承諾して、実際、なってみたとしよう。果たして、本当に彼女は姉と弟の気持ちを理解できるのだろうか。俺は、彼女の期待に応えられるんだろうか。
絵のモデルなら、彼女好みの俺をモデルにしているわけで十分参考になるだろうが、性格も何も知らない俺を果たして彼女は弟のように思うだろうか。
「自信が……、ないんだな」
未知の領域に踏み込む勇気と自信が俺にはない。
俺は、彼女の要求を断ったわけではなかった。
俺は……、彼女の期待に応える自信がなかっただけなんだ。
*
土曜日、待ち合わせの喫茶店まで向かう。
十分早めに着いたのに彼女、花森翠さんはすでに到着していた。
「おはよう、岡村くん。今日は来てくれてありがとうね!」
相変わらずステキな笑顔である。ついドキっとしてしまう。
白のワンピースに黒のカーディガンを羽織り、大きめのトートバッグを持つ彼女。爽やかな快晴の中にいる彼女を見ると、本当にアニメや漫画から跳び出て来た人と錯覚する。
「おはようございます、花森先輩。僕でお役に立てるかどうか分かりませんが、今日はよろしくお願いします」
「うん、こちらこそ! それじゃあ、行こうか!」
「え? 喫茶店の中で描くんじゃないんですか?」
「今日は天気がいいから、近くの公園まで行こうと思ってね。しばらく外で描いていなかったから、気分転換に、ね!」
俺と花森先輩は、喫茶店の裏手にある大きな公園へ向かった。昼ごはんを食べていなかったため、途中、コンビニで昼ごはんを買い、上り坂を上って公園に到着した。
公園の中には丘があり、その中心には見晴らし台がある。運が良ければ、空気の澄んだ日に富士山も見ることができるが、本日は見ることができなかった。公園の丘には、そりすべりをする親子がいたり、デートに来ていたカップルがピクニックをしていたり、土曜日の公園風景が広がっていた。
「それじゃあ、ここにしよっか」
花森先輩は、人が比較的少ない丘の中腹辺りに立ち、芝生の上に腰掛けた。
……なんか、これってデートみたいだよな。向こうにはそんな自覚ないのかもしれないけど、やっぱり緊張する。
「それじゃあ、岡村くんはそのまま座ってたりしてくれればいいからね。別に座ったまま、何もしちゃいけないとかじゃないし、買ってきたご飯を食べていてくれたらいいからね」
「は、はい」
デートだと意識してしまったことと絵のモデルをやるってことに緊張して、声が上擦ってしまった。彼女はクスクスと笑うと、持ってきたスケッチブックに模写を始めた。
彼女は楽しそうに絵を描いていた。たまに鼻歌まじりで鉛筆を滑らせており、なんか可愛い。無邪気な子供みたいだ。
ただ座っているのも退屈なので、俺は買ってきたサンドイッチを食べる。こんな天気のいい日に最高の景色を眺めながら食べるご飯は最高だった。しかも、休日に美女と二人だなんて、最高すぎかよ! なんて良い休日の過ごし方だろう。
ただ、このあと、弟要求を再び断ることだけが億劫だった。
結局、昨日寝る前に考えた結果、断ることに決めた。彼女は真剣に取り組もうとしているのに雑念だらけの俺が軽々しく引き受けることに抵抗を感じたのだ。
だからこそ、この絵のモデルだけは真剣に取り組もう。彼女にとって、最高の絵が描けますように……。
*
こうして時間はあっという間に過ぎていき、気がつけばすでに夕方になっていた。
俺たちはずっと絵を描いていたわけではなく、途中、雑談をしたりもした。というか、雑談の時間がかなり長かった気がする。昨日と同じで、どんなアニメが楽しみだとか、好きな漫画は何かとか、何をきっかけにはまったかとか、そんな話。やっぱ趣味が同じだと話していて楽しい。
「うん、よくできた! 見て、どうかな?」
そう言って彼女は、スケッチブックに描かれた絵を見せてくれる。数ページに渡り、色んな角度からの絵が描かれていた。
「うわぁー、上手ですね」
「本当? ありがとう!」
「……けど僕、ここまで幼い顔してないですよ」
そこに描かれていた絵は、子供のような俺。ちょっと顔が幼すぎる気がする……。
「そんなことないよ。まるで高校生みたいだよ」
「突然ダメージ与えてきますね……」
「えっ? どうかしたの?」
こちらのコンプレックスなどお構いなしに心にダメージを与えてくる。そしてまさかの無自覚!
「それに後ろ髪のくせっ毛も可愛い」
「それ言ったら、あなたのアホ毛の方がよっぽどチャーミングだと思いますよ」
「あーこれ? これね、昔からなぜか一本だけ飛び出るんだよ~。切ってもまた新しい髪が飛び出るし」
「なんですかその髪!? 髪の毛全体で妙な連帯感がありますね!」
「本当にね……。しかもこの髪、勝手に動いたりするんだよ」
「えーー! もはやそれ独立した生物じゃないですか!」
「なーんて、嘘だよ。ふふっ、引っかかったね?」
楽しそうに冗談を言う花森先輩。結構お茶目な一面もあるんだな。
「なんだ、冗談ですか……。そりゃあそうですよね。切ったら新しい髪がアホ毛になるなんて、おかしい話ですし……」
「いやいや、その部分は本当だよ。冗談なのは動くってとこだけ」
「最初の方は本当なんですか!?」
マジかよこの人。そんな未知な生物を頭に隠し持ってるのか。
話がついつい脱線してしまう。
「こっちの横顔なんて、唯一格好よく描けたんだよ」
「唯一とか言うのやめてくださいよ! 無自覚に言葉の槍を刺してきますね!」
「ごめんごめん、可愛いのは本当だから!」
「男にとっての可愛いは褒め言葉としては微妙ですよ?」
「そうかな? けど、こんなにノリノリで描けたのは、岡村くんが私の理想的なモデルだったからだよ? 本当にありがとうね」
そこで彼女は改めてお礼を述べた。
「私ね、この漫画を最高の出来にして、いつか、持ち込みに行こうかなって思ってるの。それで、漫画家になるんだ」
彼女の口から、突然夢が語られた。ただ漫画が好きで趣味で描いているものとばかり思ってけど、まさかプロを目指しているとは思わなかった。大きな目標だ。
「そ、そうなんですね! 花森先輩の絵、上手だし、きっと、上手くいきますよ……」
俺は彼女がまた眩しく見えて、直視できずにそう答えた。彼女はそんな俺の様子を少し変だと思ったのか、「どうしたの?」と声をかけてくれた。
俺は、どうしても気になって、尋ねてみた。
「花森先輩は、どうして、漫画家を目指そうとできるんですか」
花森先輩は、キョトンとしてその質問を聞いていた。俺は自分の話を続けた。
「僕、将来の目標とか何もないんです。就きたい職業もなければ、自分に適していると思える職業も分からない。だからといって、興味のない職業を調べる気にもならない。大学に入れば、何か見つかるかと思ったけど、適当に過ごした結果、いつの間にか三年になってました」
俺は、過去の情けない自分をさらけ出す。何も誇れない、自分を語る。
「今はまだ三年生が始まったばかりだから、そこまで本腰入れなくていいんですけど、多分、今までの僕通りだと三年後半・四年になってもずるずると何もしなくて……。それで、大学受験の時みたいに、入れるところに適当に入るのが目に見えるんです。本当にどうしようもないですよね……」
自分のだらしない部分をひけらかしていく。本当に情けない。
「だから、気になったんです。花森先輩は、どうして漫画家を目指すことができるのか。自分に合っていると確信できてるんですか? 好きだからっていうだけで、職業にしたいほど熱中できるものなんですか?」
自分でも情けないと思う質問を花森先輩は黙って聞いていた。
そして、少し考えたあと、
「私も、不安でいっぱいだよ?」
と不安そうな表情を見せながら笑顔で応じてきた。
「自分に合っているかどうかなんて、なってみないと分からないよ。それこそ、漫画家以外の道もたくさんあるわけだし、どちらかというと漫画家の方が、不安定で薦められない職業だよね……」
花森先輩はスケッチブックを閉じながら、話を続ける。
「よく『やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい』って言うじゃない? 私は、後悔自体したくない人なんだ。そして今、私が後悔したくないことは、君を弟にすることをあっさり諦めることなんだ」
こちらを向きながらそう続ける。
「将来のことはさ、まぁちゃんと考えているけれど、将来になってみないと分からないんだし、今、後悔したくないことを私は大事にしたい。君という人を見つけた、このきっかけを逃したくないって思うの」
彼女はやっぱり眩しくて、やはり俺は直視できなかった。夢を追う人は不安に潰されず、前を向いて歩いているんだな。やっぱりすごい。一歩を踏み出すことのできる、俺とは違う、勇気を持った素晴らし……、
「それに君、就活始められる気がしないって言っているけど、もう十分立派に始めているじゃない?」
……え?
「三年生になったばかりなのに立派だね! 君、とっても真面目なんだね」
俺は彼女が何を言っているのか分からず、質問する。
「いやいや、僕の話聞いていましたか? 始められる気がしないから悩んでいるって……」
「だからさ、そうやって自覚しているってことはさ、もう君は一歩踏み出したのと一緒なんだよ」
「え?」
当然のようにそう語る先輩の言葉に、俺は驚きの言葉を発することしかできなかった。そんな風に考えたことは、なかったから……。
「君は、自分がどうしようもないって言うけどさ、私はそうは思わないよ。だって、こんなに一生懸命自分のことを考えているじゃない。それって将来の夢を持っている人と同じくらいすごいことだと、私は思うな」
目を丸くする俺に向かって優しく微笑みながら、花森先輩は話を続ける。
「それに君が何もしてこなかったと言っている二年間だけど、どんなに何もしなかったとしても人は何かしら経験しているんだよ。その二年間で何かに打ち込んだ人もいるし、友達とたくさん遊んで大学の思い出を作った人もいるかもね……」
花森先輩は微笑みを絶やさないまま、言葉をつなげる。
「けれど、みんな平等に二年間を過ごしているんだよ。その二年で感じたことはみんな違うし、その時に経験したことはその人だけのものだよ。君がこの二年で何をしたかは知らないけれど、君が過ごした二年は、間違いなく君だけが持つ経験値となっていると思うよ。少なくとも私は、君がこの二年間という時間を過ごしたことでそういう考えを持てたって感心しちゃうけどなぁ」
花森先輩の自論に俺は甘さを感じつつも、感動していた。涙は流していないけれど、心の中では感動していた。そんな考え方もあるのか。
「少し、難しく考えすぎじゃないかな? いろいろと言ったけれど、まだ君は三年生をスタートさせたばかりなんだし、たくさん遊んでおいたほうがいいかもよ? ほら、社会に出たら遊べなくなるって言うし、その時しか経験できないこともあるしね」
花森先輩はさっきとは打って変わって実にあっけらかんとしたことを言ってきた。心に余裕を持たせるための彼女なりの配慮なのか、それとも配慮など何もないのか。俺には、何となく後者のような気がしていた。
「君がまだ、それでも一歩を踏み出していないって思うなら、これをきっかけにして、ちょっとずつ調べていけばいいよ。一応先輩だし、分からないことがあるなら、私も協力するからさ」
昨日から何度も見てきた、彼女の笑顔だ。
花森先輩の背後の空はきれいな夕陽で赤く染まり、同時に彼女も美しく照らしていた。俺はその光景に見とれてしまっていた。まるで、光が手を差し伸べているみたいだ。
そこで俺はようやく笑い、その表情を見て彼女も安心したのか、声に出してクスクス笑った。いつの間にやら、俺の中の不安の塊は限りなく小さくなり、自信のなさも軽減していた。
「弟になる件ですが、」
彼女はビクッと肩を震わせる。さっきまであれだけ前向きな発言をしていた人のものとは思えない、少し不安な表情だ。昨日の拒絶がまだ心の中に残っているのだろう。だからこそ、信用してもいいと思える。
「僕でよければ、協力してみます。本当にできるかどうか、分からないですけどね」
相変わらず確固たる自信を持っては発言できないが、昨日までのネガティブの塊などではない。きっと今の俺はいい表情をしているだろう。
彼女の不安の表情は、みるみる変化していき、今まで見てきた中で最高の笑みを俺に向けた。
「ありがとう!!」
そう言って、なぜか抱きついてきた。
ちょっと、苦しいです。そんなに密着されると、ほら、柔らかい部分当たってますから! もっと自覚して!
彼女は十秒くらい俺を抱きしめたあと、俺に向き直り、
「これからよろしくね、岡村翔平くん! 改めて、私は花森翠。君のお姉ちゃんです! これからは『お姉ちゃん』って呼んでね♪」
「いやいや、呼ばないから! 『お姉ちゃん』なんて恥ずかしくて呼べないから!」
「いいもん。お姉ちゃんらしくして、呼ばずにはいられなくしちゃうもんね」
「そうは言いますけど、お姉ちゃんらしくって一体どんなんですか?」
「それはもう、朝毎日起こしに行ったり、お弁当毎日作ったりとか?」
「……それって幼馴染じゃないですかね?」
「いいの! とにかく、君にいつか必ず『お姉ちゃん』って呼ばせてみせるんだから!」
夕焼けの中、くだらないやりとりをしながら、自称「姉」の言葉を思い出す。
『これがきっかけになるかもしれないの!!』
『君を見た、この出来事がきっかけで、面白い物語が描けるかもしれないの』
昨日の喫茶店での言葉。彼女が声を大きくした、思いの詰まった言葉。
きっかけ……か。彼女にとってのきっかけが俺になるんだったら、俺のきっかけも彼女になるかもしれないな。彼女と一緒にいると、変われる。そんな気がする。
桜の花びらが散っていく。それは、終わりを迎えているのではなく、新たな季節の始まりを予感させていた。
第一話を読んでくださってありがとうございました!
初めまして。七乃瀬雪将です。
この小説が、私の初作品となります。
ライトノベルは読むのですが、実際に書いてみるとなると、とても難しいということが実感できました。小説のことを対して知らないので、情景描写とか全然書けず、苦労しています・・・
それでも、何とか第一話を完成させることができて本当に良かったです。
私はそれまで創作活動というものをしたことがありません。絵や漫画を描いている友人がいるのですが、その方たちが自分で一から話も作って、絵も描いて、ということをしているのをすごいなと思っていました。私が今回、初めて創作活動をしてみようと思ったのも、少なからずその友人の影響があったからです。
いざ、書き終えてみると、とても達成感がありました。何より、楽しかったです!
これからも楽しく小説を書いていけたらいいなと思っています。
長くなってしまってもあれなので、今回はこの辺で。
更新ペースについてですが、未定です。書き上がり次第更新したいと思います。
長いあとがきになってしまって申し訳ないです。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。