第6話「陽ノ下朱里は描きたい」①
陽ノ下朱里
「う~ん……」
立てかけたスケッチブックの前で、納得のいかない様子を見せる。
「やっぱり上手く描けていないわよね~」
自分の絵に満足がいかず、モヤモヤする。
あたしは、大学にある美術部の部室で先程まで絵を描いていた。その絵は、私の苦手な……、
「あーもう、人物画っていうのはどうしてこう、難しいのよ!」
人物画である。
さっきまで部室で友人をモデルとして描いていたのだが、用事があるということで、途中で帰ってしまった。今は自分の絵を見て一人反省会をしている。
「静止画だったら、結構上手に描けるのにな……」
人物画は、何故か上手に描けない。静止画のような無生物を対象とした絵であれば、上手に描けると自負している。しかし、人物画のように生物が関わってくると途端に苦手になる。人ひとりひとりの特徴を見出し、絵で表現するのが苦手なんだと思う。
「また、翠さんにコツを聞いてみたいわね」
私の尊敬する先輩、花森翠さんは漫画を描いている。そして、人物画も上手なのだ。二次元の創作されたイラストだけでなく、人物デッサンといった美術的な絵も上手に描ける。しかも、優しくて頼れる、おまけに美人なお姉さん。私の憧れの存在だ。
しかし、最近、小さな虫が飛び回っている。岡村翔平、翠さんのお気に入りの「弟」だ。あたしより年上のくせにあたしよりも幼い顔を持つ童顔小動物男。あいつのせいで、翠さんがブラコンに目覚めてしまった。
誤解こそ解け、根っからの最低男ではないと分かってはいるが、翠さんをメロメロにし、だらしなくさせている節がある。そのため、私とは敵対関係にある。
「この前は何故か翠さんが翔平を連れてきて、あまり絵の技術を吸収できなかったから、今度はちゃんと吸収しないと……」
そう思い立ち、翠さんにメッセージを送る。今回はコツだけでなく、上手く描けないことの悩みも聞いてもらおう。翠さんだったら、明確な答えを出してくれそうな気がするわ。
*
花森翠
五月も中旬を過ぎ、下旬に差し掛かろうとしている。私、花森翠は同人誌即売会に出展する原稿作りで忙しい。ここ二週間は、翔ちゃんとも会う時間が短くなっていて寂しい……。彼も、原稿作りに気を遣ってくれているようだ。だけど、私は一緒にいた方がペース上がるのにぃーー。ま、気を遣ってくれているだけでなくて、翔ちゃんは今週末に中間テストがあるらしいから、忙しくてもしょうがないか……。理系の三年生は大変だね。
私は、作業台の前に座って漫画を描いていく。締切は来週の火曜。今、水曜日だから、後一週間もない。下手にページ数を増やしたのがいけなかったのか、やることがまだたくさんある。
でも、弟成分が足りない。エネルギーが失われていく。ハァーーーー弟に、翔ちゃんに会って思いっきり頬ずりでもしたいよ~。翔ちゃんは嫌がるけど、照れてる翔ちゃんも可愛いから、それを見るだけでも二倍の回復量となる。
そうだ、せめて以前描いた翔ちゃんのスケッチでも見ましょう。私はスケッチブックを取り出し、ページをめくっていく。
わーーー、翔ちゃんがこんなにいっぱい! この顔も、この顔も、この顔も……。みんなキュートだわー!! ハァァァァ、癒される……。スリスリ……。固い……。スケッチブックは固いわ。翔ちゃんのもちもち肌に触れたいのにぃーー!
なんだか最近の私って、ブラコンがどんどん進行している気がするわ。私自身はそれで構わないのだけれど、確かそれが原因で翔ちゃんは朱里ちゃんからあまり信用されていないのよね。翔ちゃん、とってもいい子で優しいのに……。
姉として、何とか二人の仲を取り持って上げたいけれど、一体私に何ができるのかしら?
ブーブー
そんなことを考えていると、突然スマホにメッセージが届いた。差出人は……、朱里ちゃん?
『夜分遅くにすみません。翠さん、今週末の金曜日は空いていますか? 少し、相談したいことがあるんですけど、良かったらお昼ご飯をご一緒しませんか?』
朱里ちゃん、何か悩みでもあるのかしら? いつもだったら、「絵のことを教えて欲しい」っていう文面で送信してくるのに……。
何か悩みがあるのなら、協力してあげたいわね! 締切は近いけれど、お昼ご飯を食べて話を聞いてあげるくらいはできるわ! 何より、朱里ちゃんが頼ってくれているんだから、期待に応えないと!
私は、快諾した内容のメッセージを送信し、約束を取り付けた。
そして、再び気合を入れ直し、漫画の原稿に意識を戻したのだった。
*
金曜日、駅前のファミレスに着くと、既に朱里ちゃんは待っていた。
「翠さん、こんにちは。わざわざ来てくださって、ありがとうございます」
十分前に来たはずなのに、それより早いなんて流石ね朱里ちゃん。おまけにこの言葉遣い、相変わらず礼儀の正しいいい子ね。
「ごめんね、待たせちゃったみたいで。それじゃあ入ろうか」
私達は、店内に入り、注文を済ませた。料理が来るまでの間、軽く朱里ちゃんの悩んでいることを聞いてみることにした。
「それで、朱里ちゃん、今日も絵のコツを聞きたいの?」
当たり障りのない言い方で、会話を始める。
「は、はい。まぁそれもあるんですけど……、今日はちょっと、絵のことで相談事、というと大仰なんですけど、ちょっとした悩みがありまして……」
「何でも聞いて! 力になれることがあれば、協力するから」
そう笑顔を向けて、緊張をほぐいていく。朱里ちゃんは、そんな私の態度を見て、少しだけ笑ってくれた。
「今度、また部内のコンクールがあるんですよ」
「あぁ、この前、朱里ちゃんが一位になったやつよね!」
「は、はい。そうなんですけど、今度のコンクールの題材が……、人物画でして」
朱里ちゃんは、人物画を描くのが苦手だ。無生物を題材とした静止画であれば、すごく上手に描くことができるのだが、人物画は自信がないらしい。
「それでですね、今まで教えてもらったコツとかを生かして絵を描いて、前よりは格段に上手くなっていると思うんですけど、どうも、私が自分の絵を好きになれないんです……」
「そうなんだ。どこの部分が気になっているの?」
「特徴がないところ……、です」
その表情は、いつもより少し落ち込んで見えた。
「いや、もちろん、教えてもらう前なんてそりゃあひどいものだったので、バランスの良い人物画を描けるようになったことは自分自身でもすごい成長だとは思っているのですが、ただ、私の描く人物画には、特徴がない気がして……。人それぞれに備わっている個性とか、にじみ出るその人らしさって言うのが、どうにも絵にできなくて。翠さんは、人の特徴を捉えて絵に表現するのが得意だから、どうやったらできるのかなって思いまして……」
「そっかー。なるほどね」
分かる。人物を描くときに私が最も気をつけているのは、その人らしさを表現することだから。
どうアドバイスすればいいのかな。私がいつもどんな風に絵を描いているかを考えればいいかな。私が絵を描くとき……。私が、翔ちゃんの絵を描くとき……。
そうだ! 私が翔ちゃんの絵を描くときは、いつも翔ちゃんの可愛さをどうやったら表現できるか考えるようにしてるわ!
「そうね。私が絵を描くときは、確かにその人の特徴を捉えて描くようにしているわ。その人を見て、その人のどんなところを他の人に魅せたいのか、考えるようにしているね」
「どこを他の人に魅せたいのか、ですか……」
「そうそう。けど、急に特徴を掴めって言われても、難しいよね。描きたいモノがあるのが一番いいんだけど……。あとは、分かりやすい特徴がある人とかね」
「描きたいモノ、分かりやすい特徴がある人、ですか。確かに、そういう描きやすいモデルがいてくれるといいんですけど、あたしの周りでモデルをやってくれる人ってそういないんですよ。お姉さまは忙しいですし、美術部も基本的にみんな自分の絵を描きに来ているから頼みづらいです。ましてや、部内コンクールの前ですから尚更……」
そこで私は、ふと思いついた。朱里ちゃんの絵も上達できて、そして、翔ちゃんとも仲良くなれるかもしれない方法!
「そうだ、朱里ちゃん!」
「は、はい!」
「翔ちゃんをモデルに、人物画を描いてみない?」
「……はい?」
朱里ちゃんは、一瞬あからさまに嫌そうな表情を見せたが、すぐに表情を隠した。少し、引きつった笑いになっているけれど……。
「あの、翠さん、それは一体どういう意味ですか?」
「翔ちゃんだったら、私の漫画でモデル慣れしているから、ちゃんとしたモデルになってくれると思うし、それに、翔ちゃんってほら、特徴的な顔しているじゃない?」
翔ちゃんほどの童顔で小顔、大学生ではそうそういない! 顔の特徴という意味では、十分条件は満たしている。
「それに、中間テストが今日で終わるって言っていたから、明日は時間の都合がつくと思うの。どうかな? 私から話してみるから」
「えーーー!? あたしがあいつをモデルに絵を描くんですか!? 描くなら、翠さんを描きたいです! 翠さんは明日、空いてないんですか?」
「ごめんね、もうすぐ同人誌の締切だから、明日はちょっと集中したくて」
「そんな~。翠さんも知っていると思いますけど、あたしと翔平は仲が悪いんですよ。あいつがあたしのモデルを引き受けるわけないですし、何より、あたしが描きたく……」
「朱里ちゃん!」
「っ!?」
私は朱里ちゃんが言おうとしたことを力強く制止した。朱里ちゃんの口が閉じたところで、私は優しく言った。
「練習だよ、練習。人物画を上手に描くための第一歩だと思って、やってみない?」
朱里ちゃんは何かを言いたそうにしているけど、こらえて我慢しているようだ。しばらく考える様子を見せた朱里ちゃんは次にこう言った。
「ですけど、あいつもあたしの絵のモデルなんて、引き受けるわけないですよ」
私はクスッと笑って、自信を持って朱里ちゃんに言う。
「それは大丈夫だよ。翔ちゃんは、朱里ちゃんが思っているよりもずっとずっと優しくて、お人好しなんだよ」
*
陽ノ下朱里
結局、翠さんが翔平に聞いてみると言って、話は終わった。どうしてこんなことに……。よりにもよって、険悪の仲にある男にモデルを頼まなくちゃいけないのよ。
けど、翠さんの言っていた通り、成長のためだし……。何より翠さんがせっかく私のために提案してくれたことだもの。やるしかないわね。
美術部の部室で絵を描きながら、あたしは覚悟を決めた。
けれど、本当にあいつ、来るのかしら。こっちから散々悪態ついているわけだし、わざわざ敵対している奴のためなんかに予定を空けるものかしら。
翠さんは、絵のモデルに慣れているとか優しいとかなんとか言っていたけど、それは相手が翠さんだからだろうし……。
ブーブー
携帯の着信が鳴る。翠さんかしら。
「……え?」
そこに書かれていたアカウントは知らないものだったが、誰からのかはすぐに分かった。
『明日、十三時に例の喫茶店集合で』
……お人好しなのは、間違いないようね。
*