最終話「設定姉弟は……」
碧が俺に告白した。
俺と碧の帰路の分岐点となる橋の前で、俺と碧は向かい合う。すっかり暖かくなった春のそよ風が、木々の葉と俺たちの髪を揺らす。
碧の瞳は潤んでいた。頬は少し紅潮しているが、それ以上に何だか悲しそうな表情が見て取れた。過去に俺たちの間にあった出来事に対する不安や、改めて俺に気持ちを伝える緊張感も含まれているだろう。それと、心配……といったところか。
「ワタシじゃダメですか、翔くん? ワタシがあなたのカノジョじゃ、ダメですか?」
碧は再び、俺に想いを告げる。
カノジョ…。カノジョか……。あの時に来たメッセージを最後に俺たちはもう、連絡を取っていない。
碧は昔から変に勘が鋭い。就職してからは、よく仕事終わりに会うこともあったし、ミド姉に会えなくて寂しいという気持ちが碧に伝播するのは当然か。
「……」
「……」
沈黙が続く。碧は俺の返事を待っている。心配そうに瞳を揺らしながらも頬を少し赤くして、じっと俺を見ている。
……碧、本当にずっと俺のことを好きでいてくれていたんだね。あんなに色々と揉め事があって、俺には新しい恋人ができたっていうのに、それでも怯まずに俺を好きでいてくれていたのか。
碧はモテるから、その気になればすぐにカレシくらい作れるだろうに。それでも俺を……。相変わらず猪みたいに真っ直ぐな奴だ。決めたことにはトコトン直進で、恐れを知らないというか何というか。
そういうとこ、ちょっとミド姉と似ていたりするんだよな……。俺は内心そう考えて、微笑した。
「碧と付き合ったら、高校の頃みたいに楽しく過ごせるんだろうね……」
俺は、昔を思い出しながら話し始めた。
「何でもないことを話して、お互いにふざけ合って、何するわけでもないのにただ一緒にいたりして……。中学も高校も違うところに通っていたけど、それでも学校帰りに会ったりなんかしてさ。……平和な日常が、また帰ってくるんだろうね……」
喧嘩もたまにしたっけな。けど、すぐに仲直りして、また碧はくっついてくるんだよな。そういうスキンシップ過多なところとかも、ミド姉にそっくりだ。
「そんな毎日も……いいかもしれないね……」
会えないミド姉のことを考えながら、そう呟く。今の俺は、ものすごく寂しい眼をしているんだろうなって思う。
遠距離じゃなくて、近くに恋人がいれば、こんな辛い気分は味わわなくていいんだろうな。本当にそう思う。遠距離恋愛は、辛いことばかりだ。好きな人と会いたい時に会うことができない。触れたい時に触れることができない。厳しい現実に何度、苦しめられたことだろうか。
遠距離恋愛でなければ、その苦しみからは解放される。そんな風に考えての一言だった。まして、碧は元カノだ。お互いの良いところ、悪いところは把握済みで、きっと上手いこと付き合っていけるんだと思う。
そうかもしれない。
……確かに、そうかもしれないけど、
「けど俺には、ミド姉がいるから」
俺は……。
「俺は……、ミド姉のことが好きだから……。だから、碧とは付き合えない」
ミド姉の恋人でいたいから……。
自分が愛しているのは、『今の』カノジョだと、改めて伝えた。それは碧にとっては残酷な返事かもしれないが、大事なことだ。離れていても、俺が好きなのはミド姉なのだから。
碧は涙を流した。ゆっくりと涙が頬を伝って、地面に落ちる。
「けど……、けど翔くん! みどりさんとは離れ離れで全然会えないじゃないですか! もしかしたら、これから先もずっと会えないままかもしれないんですよ!」
「ミド姉は、帰ってくるよ。漫画家になって帰ってくる」
「それは本当なんですか!? 漫画家になれるかどうかなんて、保証も何もないじゃないですか!」
「なれる。ミド姉ならきっと……」
「……! そうだとしても……、そんなの……いつになるか、分からないじゃないですか……」
碧は泣き顔を歪めながら辛そうに言った。
うん。その通りだ。俺も、不安は見せないようにして言ったけど、内心は不安でいっぱいだ。本当にミド姉は漫画家になれるのか。
「けど俺は、ミド姉を信じるって決めたから。『絶対に漫画家になって帰ってくる』ってミド姉は約束してくれたから。だから俺は、それを信じて彼女を待つよ」
『必ず漫画家になるよ。待ってて、すぐに帰ってくるから』
四国に発つ前、ミド姉とした約束だ。そして、ミド姉と最後に交わしたメッセージを思い出す。
あの日、ミド姉は更に忙しくなり、全然俺と会えないことを嘆いていた。そして、このままじゃダメだと思い、決意を込め直したのだ。
俺と話すと、俺に会えないことをより寂しく感じられてしまう。そして、漫画への集中力も低下してしまう。そんな自分を戒めるため、ミド姉はメッセージのやりとりをやめると言い出した。
そのメッセージを見たとき、俺は大きな不安を感じた。このまま、ミド姉との恋人関係は自然消滅してしまうのではないのか? だってもう、一年だ。恋人同士の二人が一年も会ってない。これは、付き合っていると言えるのか? そんな考えたくもないことを考えてしまった。
だが、続きの文章を見て、俺は考えを改めた。
『私は絶対に翔ちゃんの元に帰る。だから私のことを待っていて欲しい。私は、自分自身も翔ちゃんのことも信じて、頑張るから!』
あの時、交わした約束と同じ。そして、俺たちが設定上の姉弟から恋人になった日にミド姉が言ったことと同じ言葉。
『だから翔ちゃんも、私を……、桃ちゃんを信じて!』
自分のことも相手のことも、心の底から信じることができなくなっていた俺に、ミド姉が言ってくれた言葉だ。『自分を信じて』と。俺はあの時、この言葉に救われた。
夢に向かって努力するミド姉の姿を思い出した。学生時代、必死に賞を取ろうとしていた姿だ。
学生時代に何度入賞を逃しても、諦めなかった。転機が訪れてからも二度、入賞しなかったのに、それでも頑張り続けたミド姉。
そうだよ……。そんなすごく頑張り屋なミド姉の努力が報われないはずがない。
それに何より、ミド姉が『信じて欲しい』と言っているんだ。カレシであり、『弟』である俺が信じないで、誰が一体信じるって言うんだ? 真っ先に俺が、ミド姉を信じてあげなきゃいけないじゃないか!
俺は駅前で立ち止まってそう考え直し、シンプルに一言だけ返信した。
『もちろんです。待っています!』
碧の表情は、驚いたようなものに変わっている。「どうしてそこまで信じるんですか?」と、言われているようだ。俺でも不思議だ。これからも会えない時間が長く続く方が、可能性的には大きいのに。
別に、百パーセント信じきれているわけではないのだ。俺は、彼女を信じたいだけ。彼女の努力を信じたいだけなのだ。
「……そうですか」
碧は顔を下に向けた。彼女の顔が見えない状態のまま、少しの時間が過ぎて、再び碧が話し始める。
「……ワタシは酷い女ですから、これから、好き勝手なことを言います。……もしかしたら、みどりさんが遠距離恋愛に耐え兼ねて、向こうで浮気をするかもしれないですよ?」
「ミド姉はそんなことしないって、俺は信じる」
「いつになるか分からないって言いましたけど、もしかしたら、こっちに戻ってこられるようになるのは五年後とか、十年後になるかも……」
「だったら、それまで待つよ」
「けど、その間に翔くんはみどりさんに飽きるかもしれませんよ?」
断った通り、いじわるな質問をしてくる碧。遠距離の恋人より、自分を選んで欲しいと思っての発言。俺のことを好きでいてくれている碧が、当然疑問に思うことだ。
「確かに、五年後に俺がミド姉を好きでいられるかなんて、分からない。もしかしたら、碧の言う通りで、遠距離恋愛に耐え兼ねて、もう好きじゃなくなっているかもしれない」
「だったら、ずっと翔くんと同じ、都内で働くワタシと一緒にいた方が、辛い思いをしなくて済むじゃないですか……」
「それでも俺は、ミド姉を信じ続けたい。いつか、ミド姉のことを好きではなくなってしまうのかもしれないけど、この気持ちが消えない限りは、俺は待ち続ける。簡単に手放したりなんて、しない」
綺麗事ばかり言うつもりなんてない。五年後、十年後も「絶対にミド姉のことが好きです」なんて、自信を持って言うことは俺にはできない。ましてや俺は、自分に自信が持てない傾向にある人間なのだからね。
けど、「信じたい」とは言える。自身の夢のために……、俺たちの未来のために、頑張っているミド姉を、俺は信じたい。
碧は目を伏せていた。碧の中では打算も含まれていたのだろうが、俺のことを案じて提案したことだったのかもしれない。遠距離恋愛に疲れている俺への、救済の手を差し伸べてくれたのかもしれない。
けど、俺はその手を握れない。後悔も迷いもない。俺は、例え離れていようがミド姉を選ぶ!
「もう……、みどりさんには本当に、敵いませんね……」
碧は俺に背を向けて、そう言った。時々鼻をすする音が聞こえてくる。泣いているのだろう。顔は見えないけど、見られたくないかと思って、俺は碧の背中から視線を逸らした。
「翔くん、質問なんですけど、もしもワタシたちがあの時に別れていなかったら、今でも付き合っていたと思いますか?」
碧は俺に背中を向けたまま、俺に尋ねた。
「分からないよ……。『もしも』の話なんて。過去では、今も未来のことも、分かってないんだから」
もしかしたら、俺とミド姉は出会ってすらいなかったかもしれない。けど、俺たちは出会った。それは紛れもなく事実で、『もしも』の話ではない。
それに、これから俺とミド姉が、付き合っていけるのかどうかも、分からない。もしかしたら、俺かミド姉のどちらかが遠距離恋愛に耐え兼ねて、別れを切り出すかもしれない。
『もしも』なんて、知りようがないんだ。出来事は起こってからじゃないと分からない。分からないから、人生は難しい。
「……それもそうですね」
碧は背を向けたまま空を仰ぐ。陽の沈みかけた夕日の赤と空の青が混じりあった色を見せる。綺麗なグラデーションだったが、それも消えかけている。夕焼けによって、空は徐々に色を変える。
「また、フラれちゃいましたね。翔くんに」
碧は背中を向けたまま、チラリとこちらに顔を向けた。顔は赤かったが、すでに涙はなく、表情は緩んでいた。
「まぁけど、仕方ないですね。翔くんにはみどりさんがいますもんね」
「うん。ごめん、碧」
「謝るくらいなら、オーケーしてくださいよ~。今からでも、ワタシは喜んで受け取りますよ?」
「いや、それは……」
「冗談ですって。流石に今から『やっぱり』って言われても、こっちから願い下げですよ~。こちとらそんなに安い女じゃないんですからね~」
碧は笑顔に戻って、手を背中に回して冗談を言う。いつも見る、碧の笑顔だ。自分に自信があるところも、実に碧らしい。ふふん、と笑う碧に対して、俺は苦笑いを返した。
「翔くん、ありがとう」
碧は、俺にお礼を言った。チラリと見えた横顔には、笑顔と共に、一度消えた涙がまた見えた気がした。
「みどりさん、早く帰ってくるといいですね」
そう言って、橋を渡って帰っていった。碧の背中はどんどん遠ざかる。徐々に小さくなっていき、やがて、曲がり角で消えた。
「こちらこそありがとう、碧」
碧のお礼に対して、俺もお礼を言う。
ミド姉を信じたいと思う気持ちがより強くなった。自分の考えを口に出すことで、改めて整理し、強固なものにすることができた。これは、碧のおかげだ。
不安がないと言えば嘘になってしまうけど、大丈夫。俺の気分はさっきよりもすっきりとしたものになっていた。
そして、長い間、色々なことがあったにも関わらず、ずっと好きでいてくれた元カノのお礼に対して、もう一種類の返事をする。碧もそのつもりだったはずだ。
「じゃあね、碧」
俺は橋を背にして並木道を歩き始める。上を見上げると、木々の向こうに広がる空の色からは、青色がなくなり、夕焼けによる赤一色に染め上げられていたのだった。
*
碧と別れて家の最寄り駅まで戻ってきた俺は、家には真っ直ぐ帰らず、寄り道をすることにした。駅を出て、右手方向に真っ直ぐ。かつて通っていた大学の正門前の通りを左手に曲がり、並木道を歩く。
大通りにかけられた橋を渡ると分かれ道にたどり着く。まっすぐ行くと家だが、俺はここを右に曲がった。住宅街の中を通り、車通りのある通りに出て、坂を下って、更に上って、駅から歩くこと三十分、俺は目的の公園にたどり着いた。
公園内に入り、桃色の花でデコレーションされた並木道を抜け、階段を上り、俺は目的地に立つ。
そこはかつて、俺とミド姉が設定上の姉弟になった思い出深い丘。碧とさっきあんな話をしたからなのか、ミド姉のことが頭に浮かび、わざわざこんなところにまで足を運んでしまった。丘の上からは、遠くの並木道に咲く桜の木が見えた。公園内の外灯に照らされた美しい夜桜が舞っている。
俺は丘の上に茂っている雑草の上に座り、空を眺める。丸い月と、辺りにはいくらかの星。雲が少量で街に比べて比較的光の少ない丘の上で見るからなのか、月と星が綺麗に見えた。
「そういえば、夜に来るのは初めてだ」
ミド姉と来た時は、昼か夕方だった。この場所、こんなに綺麗に空が見られるんだな。学生の時に知っていれば良かった。
「ミド姉にも見せてあげたいな」
ここにはいない恋人を思い出し、俺は空を見上げながらそんなことをつぶやいた。自分で言った後に気づいたのだが、俺は微笑しながら言葉を口にしたのだ。
心に余裕と希望が生まれている。離れ離れの恋人に対して、悲しさと辛さで心が支配していた時とは違う。先程のやりとりで、更に気持ちは強くなった。碧のおかげだ。
いっそのこと別れて、別々の人生を歩んだほうがお互いに苦しくないんじゃないかと思ったこともある。メッセージは続かず、通話する機会もなくなっていき、会いに行くこともできない。メッセージのやりとりの中、スマホ越しではあるが、ミド姉にも俺と同じような心情が伺えた。
こんな状態で付き合っていると言えるのだろうか? 本当に、ミド姉は戻ってこられるのか? かと言って、それをミド姉に催促してもプレッシャーを与えるだけだ。口にすることはできない。俺の中にストレスだけが溜まっていった。
けど、今は違う。俺はミド姉を信じることができている。待とうと思えている。隣同士に座って、この夜空を見たいと思っている。
今は無理だけど、いつかきっと、またこの場所で……。
ふわっと風が吹いた。丘の上に生える草が揺れ、ザザザっと音を立てる。目を閉じて体に当たるその風の心地良さを感じる。
いっそのこと、ここで寝てしまうのも悪くはないかもしれない。明日は土曜日で、仕事も休みだ。家に帰って見慣れた天井を眺めるより、特上のプラネタリウムに癒されながら寝る方が気持ちいいだろう。
けど、暖かくなってきたとはいえ、まだ三月。今は涼しくて気持ちいいと感じるけど、羽織るものなしにここで寝たら風邪をひいてしまうかもしれない。一晩を明かすことはやめたほうがいい。
だけどもう少しだけ、ここにいようかな。せめて、この風が止むくらいまでは。
目を閉じて視覚を塞いでいるからなのか、風の感触をいつもよりも肌で感じられる。ふわりと優しい。本当にこのまま寝てしまいそうだ。
ブーブーブーブー
目を閉じて風を感じていると、ポケットの中のスマホが震えた。振動が続いているということは、通話の着信バイブレーションだ。
「……え?」
誰かと思って画面を見ると、思いがけない人物からの着信だった。俺は、目を疑いながらも無意識に震える手を画面に伸ばし、スライドした。
「ミド……姉?」
スマホを耳に当てる動作など、ちょっと前までは当たり前のように行っていたのに、今は心臓がバクバクと鳴っている。俺は声が聞こえるまで、相手の反応を待つ。
『翔ちゃん。私、やったよ……』
電話の向こうから、返事が聞こえた。聞き慣れた、だけど、とても久しぶりな声。
『夢を……叶えたよ……』
声は、待ち望んでいた答えと共に、俺の耳に響いた。俺は、一度大きく目を見開き、すぐに目を閉じた。嬉しさと安心感で、今にも涙がこぼれそうだった。
けど、泣くなんてみっともない。変なプライドを刺激され、俺は出来るだけ落ち着いて、それでも祝福の気持ちはきちんと込めて、ミド姉に返事をした。
「やりましたね……ミド姉」
『うん……!』
電話の向こうから聞こえるミド姉の声は、彼女らしい快活さを感じられるものであると同時に、彼女自身も安心しているように感じた。涙声には聞こえないけれど、もしかしたら、電話の向こうで泣いているかもしれないな。
『けど翔ちゃん、あまりびっくりしないね?』
「そうですか?」
『うん。もっと、大きな声出して驚くかと思っていたのに』
いや、驚いてはいる。仕事がすごく忙しい中、社会人になってからも何度も賞には落選していた。それなのに、ミド姉は夢を叶えたんだから、驚き自体はないわけではない。
けど、それ以上に……、
「いつかミド姉ならやれるって、信じていましたからね」
こうなる日が来るとは思っていたんだ。自分が思っていた以上に、そう思っていたみたいだ。だから、思ったより俺は冷静にいられた。
『……そっか。けど、つまらないな~。もっと驚いてくれると思ったのに』
「そんな、つまらないって……」
『翔ちゃんの仰天する声、聞きたかったのに』
そんな子供っぽいことを言ってくる。信じていたことに対して、ちょっとは感激して欲しいもんだ。俺は苦笑いで応対した。
『ところで翔ちゃん、今、どこにいるの?』
「今ですか? 急になんです?」
『いいから!』
「……? 今は、喫茶店ブラウンの近くにある例の公園の丘ですけど」
俺がそう答えると、ミド姉は「ふーん、そっかー」と妙な相槌を打つ。
『じゃあ、私は今、どこにいるか分かる?』
「え? 家じゃないんですか?」
『うん、違う』
「じゃあ、家への帰り道とか?」
『ブー。分からないかな?』
「分からないですよ。一体どこに……」
ここまで言われてある考えが浮かび、言葉を詰まらせた。突拍子もない思いつきだった。だけどもしかして、……と立ち上がる。
首と目線を下げ、丘の斜面を上から下に、正面から右へと視線を動かす。街灯の少ない丘の広場な上、斜線が切れていて見えづらかったが、人の影が見えた。
影はこちらにゆっくりと向かってくる。再び風がサーっと辺りを走り、草を揺らす。俺は、スマホを片耳へ当てながら、影を見ていた。
覆っていた雲が徐々に移動し、やがて月が姿を現すと、影も次第に月明かりに照らされて、姿を現した。明るめでロングの茶髪、髪の後ろに付けられた大きめのリボン、清楚さを感じさせる白のブラウスに水色のロングスカート。月の光は、鮮明に彼女を映し出す。
一年以上、満足に話すことができなかったカノジョ。会いたくても会えなかった最愛の人。彼女はスマホを片手に持ち、瞳に綺麗な雫を溜めて、俺に問いかけた。
『今度は、驚いたかな?』
「えぇ……。やられましたよ……」
俺は涙を流しながら返答した。不意を突かれて、涙腺が緩んでしまったみたいだ。その顔を見て、彼女も涙を流しながら、満足そうに俺に向けてニコリと笑った。
「待って……いました……。おかえりなさい、ミド姉」
「うん、ただいま」
スマホの通話を切り、俺は涙を拭いてからそう言った。ミド姉もエヘヘと嬉しそうに返事を返した。
「まさか、ここに来ているなんて予想もしていませんでしたよ」
「翔ちゃんを驚かせようと思ってね」
「驚きましたよ! だってまさか、東京にいるだなんて、思わないじゃないですか! てっきり、四国から電話しているのかと思っていましたもの!」
「びっくりしたでしょ? 実は、何日も前に結果は出ていたんだ!」
「だったら、言ってくれれば良かったのに」
「ごめんね。けど、翔ちゃんが今日、この時間に、ここに来ていたのは私もびっくりしたよ」
確かにそうだよな。四国は遠いから、結果が出てすぐにこっちへ戻って来られないと言うのは当然だけど、ミド姉が俺に電話をかけてきたタイミングで俺がたまたまここに立ち寄るなんて、相当な偶然だ。
「嬉しいですね」
「うん、本当に……」
この世に運命が存在するかなんて、とても信じられないが、今、この時だけは、信じてもいいと思った。
ミド姉は、目を伏せてこちらに駆け出し、俺に抱きついた。突然のことで少し驚く。
「翔ちゃん……。私、帰ってきたよ……」
「はい……」
ミド姉の背中に手を伸ばし、優しく体を包む。小さくて柔らかくて、弱々しい、女性の体だ。
「辛かった……。本当に、辛かった……。何回投げ出しそうになったか……分からないよ……」
ミド姉の涙で、俺の背中が濡れる。遠距離恋愛時の胸中を話すミド姉の言葉で、押さえ込んだ涙が再び出てきてしまった。
何度も、自分の無力さを嘆いた。頑張っているミド姉に対して、自身の不甲斐なさを呪った。そんな自分勝手な自己嫌悪から、また自信を失いそうになった。
けど、良かった。何もすることができなかったわけじゃない。こうして、ミド姉を信じて待つことができた。今の俺は、そう思える。
「頑張ってくれて、ありがとうございます……! 本当に……本当に嬉しいです……」
俺がそう言うと、ミド姉は俺に抱きつきながら泣いた。我慢していた分を開放するように、声を上げて泣いた。俺自身も泣きそうになったが、ぐっとこらえた。
今は、ミド姉を支えられる。俺が泣くわけにはいかない。泣いているミド姉をぎゅっと抱きしめ続けた。それに、俺にはまだ、やることがあるのだから……。
やがて泣き止んだミド姉は、一度俺から離れて、涙を拭うと、すぐに笑顔に戻った。以前、よく見ていた太陽のような笑顔だ。
俺は久しぶりに彼女の笑顔に胸を高鳴らせながらも、話を振った。
「さっき、思っていたんですよ。ここから見える星は綺麗だなって」
「本当だね。こんなに綺麗に見えるなんて、知らなかった」
「ミド姉と一緒に見られて、幸せです」
こんな幸せを、ずっと感じたい。ミド姉と一緒に感じていきたい。心からそう思う。
「ミド姉」
俺はずっと、この人と一緒にいたい。これからは、ずっと側で支えていきたい。誰よりも近くで。
設定上の弟として、恋人として、近くで彼女を見守ってきたように。今度は、もっと近くで……。
「僕と……結婚してください」