第46話「岡村翔平は……」②
八月になった。
「翔くーん!」
職場の最寄り駅前で待っていた女性が元気に手を振っている。ミディアムショートのさらっとした髪と愛嬌のあるアイドル顔負けの容姿を持つ女性、水無碧だ。
彼女の挨拶に、翔平は手を軽く上げて応じる。
「お仕事お疲れ様です~! 早いですね!」
「公務員だから、定時上がりはむしろ推奨されているんだ。他の会社に示しがつかないからね」
「なるほど~!」
仕事終わりの翔平の解説に、碧はふむふむと頷いた。
翔平の職場の最寄り駅は、碧の住む家の最寄り駅と同じだ。翔平はこの地域に住んでいるわけではないが、二駅分と言えども電車通勤している。最近は、仕事終わりに碧とばったり会うことも多々あった。
「定時上がりができるなんて、やっぱいいですね~、公務員」
「碧も四月からは公務員でしょ?」
「ですね! 社会人になるのは憂鬱ですけど、そういうポジティブな話を聞くと案外悪くないかもですよね~」
翔平と会ってから終始笑顔で会話する碧。翔平も楽しそうな彼女の顔を見て、自然と笑顔がこぼれた。
駅の近くにあるショッピングモールの一階、テラス席のあるカフェにやってきた二人は、それぞれの注文を持って席に座った。翔平の前にはアイスコーヒー、碧の前にはチョコケーキとキャラメル味のフラペチーノが置かれている。
「ゴチになりま~す」
「いえいえ、おめでとう」
「翔くんがワタシの内定を祝ってくれるなんて、すごく嬉しいです~。感謝カンゲキ雨嵐です!」
「なんかちょっと違うような……。雨アラレとかじゃなかった?」
「そこは、『それじゃあ、ジャ○―ズの有名グループの曲でしょ!』ってツッこむところじゃないですか~」
「いや、分からないわ! 俺、ジャ○ーズに詳しくないから!」
翔平のツッコミを聞いていないかのように、碧はケーキとフラペチーノを満足そうに口に運ぶ。碧のキャラメル味のフラペチーノは生クリーム増量で、ケーキも見るからに甘そうだ。翔平は、なんでこんな甘いものばかり食べられるんだと疑問だった。
「ありがとうございます、翔くん。インターンのことだけじゃなくて就活のアドバイスを色々くれた上に、こんなの奢ってもらっちゃって」
「いいっていいって。どうせ就活のことを教えるのなんてインターンのアドバイスの延長だったし、碧が俺の話を聞いてインターンにも行って、それを受けて公務員になりたいと思ってくれたのは俺も嬉しかったしね」
碧は昨年、三社のインターン先に興味を持った。そのうちの一つが公務員だ。翔平がインターンの時にお世話になった部長をツテに、碧に紹介した。結果、碧はインターンで公務員に興味を持ったということだ。
理系と文系では対策の仕方が全く異なる公務員だが、そのインターン先の話を参考に、碧は勉強を開始した。
また、インターンに対してのアドバイスの延長で、就活のアドバイスみたいなものも碧に享受した。公務員試験しか受けていないので、良いアドバイスを送れたものかは疑問だが、翔平は頼りにされること自体を嬉しく思ったのだ。
「少し毛色は違いますけど、晴れてワタシも翔くんと同じ職種ですよ~」
「まぁ、俺と碧じゃ技術系と事務系で全然違うことをやりそうだけどね」
「けど、部署の中では文系も理系も混在していますからね、同じみたいなものですよ~」
まぁそれもそうかと翔平は頷いた。
碧は嬉しそうだ。長かった勉強期間が終わって自由になったのだから当然だ。それに、打算があったわけではないが、偶然にも表面上は、想いを寄せる翔平と同じ公務員という職に付けることに喜びを感じていた。
「もしかしたらワタシも、翔くんと同じ職場になったりするかもですよね~」
「いや、ないでしょ。支部は東京に沢山あるし、部署もいっぱいあるんだから」
「そんなの分からないじゃないですか~」
碧はぷくっと頬を膨らませたが、すぐに嬉しそうな表情に戻し、思いついたことを口にした。
「そうだ! ワタシが後輩になったら、どうしますか? こんなに可愛い後輩が入ってきたら、仕事も苦じゃなさそうじゃないですか~?」
自分の容姿と性格に自信を持つ碧は、そんな調子の良いことを言った。翔平はいつも通りのそんな碧に苦笑いしつつも、答える。
「……そうだね。碧と同じ職場だったら、毎日楽しく過ごせそうだよ」
碧は翔平の返答に対して、「やだ、翔くんったら素直なんですから~」と照れ隠しを行った。
だが、碧は内心ものすごく驚いていた。「え?」と声を漏らして、すぐにいつもの調子に戻ったが、本調子じゃない翔平に困惑していた。
翠と遠距離恋愛で、あまり多い頻度で会えていないということを知っている碧には、どこか、返答した翔平の顔に寂しさを感じていた。
大樹と同様、碧もそんな翔平を見て無性に心配に思えたのだった。
*
「あなた、学生の頃と何も変わってないわよね?」
「人間、そんなに簡単に趣味が変わったりなんてしないよ」
「ご自慢の若々しいお顔も何も変化ないですもんね~」
九月。喫茶店ブラウンでライトノベルを読む翔平に、綺麗な金髪を持つウェイトレス、陽ノ下朱里が皮肉を混じえて言った。
「もっと他にやることはないわけ? せっかくの土日休を有意義に使いなさいよ」
「これだって有意義な時間の使い方だと思うけど」
「そうじゃなくて、もっと色々ないわけ? 遊びに行くとか」
「大樹やモモとはたまに遊んでるよ。お前だってせっかくの休日なんだし、大樹とデートはしないわけ?」
「はんっ! 心配されなくてもするわよ! 今日もこの後、都内で開催されている絵画展に付き合ってくれることになってるんだから」
ふん、と鼻を鳴らしながら自慢げに話す朱里に対して、翔平は「はいはい、のろけ乙」と適当にあしらう。朱里はその適当な相槌を聞いて、不機嫌そうな顔をした。
「なんか、調子狂うわね……」
「……? 何か変なとこあった? 俺たちのやりとりなんて、いつも嫌味ばかりじゃない?」
「そうだけど。なんかあなた、最近覇気がないわよ?」
「俺は元々、武○色も見○色も使えないよ」
「なに訳分かんないこと言ってるわけ?」
翔平の冗談の意味が理解できずに再び嫌そうな顔をする。翔平はそんな朱里を見て、これだから冗談の通じない女は、と呆れた。
「まぁいいわ。とにかく、予定を合わせて翠さんのとこに遊びにでも行けばいいじゃない。連絡は取ってるんでしょ?」
「まぁね。けど俺たち、休みが合わないからさ。結局八月も会いに行けなかったしね」
「予定は合わせるものなのよ! テレビのチャンネルだって、自分が見たいものはリモコンで合わせるでしょ!」
「例えが意味不明すぎるんだが……」
朱里は、大樹から聞いていたので翔平と翠の事情を知っていた。翔平がそう答えるということも大方の予想はついていた。その上で、翔平に質問した。
何とか翠との仲が続いて欲しいと思い、励ましの言葉をかけて翔平を元気づけようと試みたが、不器用な朱里のこと。よく分からない励まし方になってしまい、少しばかり恥を受けた。しかし、要するに朱里も翔平のことが心配だったのだ。
「……とにかく、翠さんに悲しい思いをさせないようにしなさいよ?」
「分かってるって。大丈夫。定期的に連絡は取っているから」
朱里はぶっきらぼうにそう言い残して厨房に向かって歩き出した。
カウンターの付近まで来て、もう一度翔平の方を振り向くと、翔平はライトノベルに目を落としていた。その姿を見て、再び頭をモヤモヤさせながらも、朱里は業務に戻った。
時間が経っても、翔平の開いている本のページは進まなかった。
*
九月の中頃。翔平は休日に、友人の桜井桃果と都心に遊びに来ていた。
彼女の就職先は都内であり、翔平とも職場は離れている。
桃果は学生の頃に住んでいた家を解約し、実家に戻った。元々、実家も大学からそこまで離れてなどいなかったのだが、大学のうちに一人暮らしを経験しておいた方がいいという親の意見で、学生時代は一人暮らしをしていた。
就職してからは、翔平の住む最寄り駅から六つほど離れた場所にある実家から都内に通っている。実家に戻ったとは言え、住んでいる場所もそこまで離れていない。たまに二人の中間地点に当たる駅へ飲みに行ったり、こうして都心へ買い物に来たりもする。
「その……。翔平くん、大丈夫?」
「……大丈夫って、何が?」
翔平はわざと何について聞かれているか分からないふりをして見せた。思い当たる伏はひとつしかないが、それについて気にしていると思われたくなかったのか、結果、聞き返すという選択をした。
「その、元気ないよね? もしかして、ミドちゃんと上手くいってないの?」
「いや、そんなことはないよ。連絡だって二週に一回くらいはとっているし、喧嘩しているわけでもない。関係は良好だよ」
「けど、会えてないんでしょ? 町田くんと朱里さんから聞いたよ」
「まぁね。俺とミド姉の休みは見事に逆だからね。遠距離恋愛の辛いところだよ」
雰囲気が暗くならないように配慮して答える翔平を見て、桃果はなお心配になった。どう見ても、関係が良好な恋人のことを話す様子ではない。もしかしたら、かなり無理しているんじゃないか?
「……あ、見てよモモ。あの原作ラノベ、アニメ化するんだってさ! 気になってたんだよね。期待しちゃうな」
「え? うん、そうだね」
右手に見える書店に掲示されたポスターを見て、翔平は話を変えた。桃果も突然の話題転換に困惑しつつも相槌を打つ。
「あ、そうだ。今日はモモに前借りた漫画の発売日じゃなかった? 俺も続きから買って読むことにしたんだよね。ちょっとそこの本屋に寄って行っていい?」
「……」
以前、碧の件でも翔平に元気がないときがあった。その頃、自分は何も翔平の支えになることができなかった。うまくやれば、元気づけられたというのに。
しかし、今回はあの時とは違う。違うというのは、根本が違う。
今回は、すでに交際をしている二人同士の問題。他人の自分たちが口を挟む問題じゃない。それこそ、口を挟むとおかしな方向に話がねじれる可能性だってある。これは、当人たちがどうにかするしかないのだ。
桃果はそのように思っていた。遠距離恋愛は厄介だ。自分に出来ることは、翔平が話したくなった時に話を聞いてあげる程度。それ以外にできることはない。
桃果は察した。これ以上、この話をすべきではないと悟り、翔平の提案に「うん、いいよ」と返して、話を終わらせた。
その日、翔平と桃果の間にこれ以上、この話題が挙がることはなかった。
*
季節は更に過ぎ、十月になった。公務員の仕事も発注している業務の納期に合わせ、次第に忙しくなっていく。退社時間も少しずつ遅くなっていった。
翔平と翠の間で行われるメッセージの回数は更に減り、通話の回数も二回に一回になった。お互い忙しいためか、通話時間自体も短くなり、十月に入ってからはメッセージも通話もしていない。
十月も下旬になり、寒さが本格化し始める頃、翔平のスマホに一通のメッセージが届いた。差出人は、彼の恋人たる花森翠からだった。
翔平は夜九時を過ぎた仕事帰りに駅前の広場で立ち止まり、メッセージを確認した。
「…………」
時間が流れ、返事の文面に迷いながらもフリック入力で文字を打ち、メッセージを返した。彼はスマホをスーツのポケットにしまい、帰路についた。
以降、翔平のスマホに翠からのメッセージは来なくなった。
*