第46話「岡村翔平は……」①
カタカタカタカタ
キーボードが押され、画面に文字が増えていく。一人の青年は、机の上にある書類を参考にし、時々う~んとうなっては文字を減らして、またキーボードを鳴らす。
室内に鐘の音の放送が流れると、同じようにパソコンモニターに目を向けていた人たちの何人かは大きく背筋を上に伸ばした。終業時間だ。
まだモニターに向かって作業をする人もいれば、広めにスペースを取られた机に何枚かの書類を並べて打ち合わせをする者もいる。楽しそうに会話をしている者もいる。内容は華の金曜日にふさわしく、飲み会の話だ。
「岡村、お疲れ」
二十代後半の男性が、一人の男性に声をかけた。声をかけられた方の男性は、いかにも新入社員という程に若々しい容姿だ。顔の大きさは小さく、スーツ姿ではあるが、その男性はフレッシュな新入社員というより、大学の入学式に混じっていても何も違和感がなさそうだ。
「お疲れ様です」
「せっかくの華の金曜日だってのに残業? 頑張るね」
「えぇ、この書類だけ片付けたいので」
「今日はプレミアムフライデーだけど、早く帰って遊びに行くとかしないの?」
「はい。それより、今は早く仕事を覚えたいですしね」
「まだ入社して三ヶ月かそこらなんだから、そんなに気負わなくてもいいのに」
新入社員の青年はキーボードの手を休めて話す。上司に当たる男性は「真面目だね~」と感心し、「程々に」と付け加えて帰っていった。
新入社員の青年、岡村翔平は再びモニターに向かい、キーボードを打つ作業を再開する。
「(帰ったら撮り溜めたアニメを見ようかな。お酒を飲みながらでも)」
ひたすらパソコンモニターを眺め、打ち込む作業を続けながらそう考える。表情を変えることなく、ただひたすらと文字を増やしていく。
机の上に置かれたスマホが震えた。翔平は手を止め、通知画面を見た。どうやら、友人からの飲みの誘いのようだ。
『今日、飲みに行かね?』という文章に対して賛同するかどうか迷ったが、続けて『ていうか、行くぞ! 十八時に新宿な!』と立て続けに返ってきた。
十八時に新宿なんて、今から出てもギリギリじゃないか。マイペースな奴。そう思いながらも、翔平は開いていた文書ファイルを保存してパソコンの電源を切り、帰り支度を始めた。
「(一人で酒を飲みながらアニメ見るよりはいいか)」
そんな風に考えながら、彼は待ち合わせの場所に向かった。
*
「お前最近さ~、どんな感じなわけ?」
飲み始めて三十分くらいして、翔平の友人、町田大樹はそう尋ねた。青みを帯びたストライプのスーツに身を包む彼は、銀行の営業マンだ。学生時代は明るかった髪色は、今では落ち着いている。
「最近はやれることも増えてきたし、充実してるよ。まだまだ先輩に手伝ってもらわないと分からないことばかりだけど、それなりに仕事を任せてもらってる」
翔平は、グラスに注がれたビールを飲みながら言った。
「それに、社会人は学生と違って給料が多いからやれることも増えていいよね。俺、一年目だけど最近ボーナスが入ってさ、そのお金でテレビを買ったんだ。大きいし画質は綺麗で最高! 高性能な録画用HDDも買ったから、アニメも撮り溜めできるんだ。綺麗な画質で見るアニメは本当に良い」
「いやいや、そうじゃなくてさ」
饒舌に語る翔平に対して、大樹が言葉を遮る。翔平はビールの入った容器の傾きを小さくしながら頭にハテナを浮かべた。
「ミドリさんとのことだよ。社会人になってから、一度でも会いに行ったのか?」
大樹は心配そうに尋ねた。翔平は変わった態度を見せず、ビールを飲み進める。彼の持つグラスは、もうすぐ空になりそうだった。
「いや、会ってない。ミド姉と俺の休日は、合わないしね」
「……そうだったな」
カウンターの上段に置かれた注文の品を取り、大樹は残念そうに言った。
翔平と翠は、しばらく会っていない。最後に会ったのは昨年の十月ごろだったから、もう半年以上になる。
今年の四月から社会人になった翔平は、かつて通っていた大学の最寄り駅から割と近くの駅を最寄りとする職場で働いていた。公務員である彼は、毎週土日、確実に休みをもらえ、仕事もそこまで忙しくはない。
しかし、四国で働く彼の恋人は違った。昨年までは基本土日休だったのだが、今年から平日不定休の土日出勤となった。土日でもお客さんが来るいわば接客サービス業。職場によって休みはまちまちだが、よりにもよって翠は土日が基本的に出勤日となってしまった。
これにより、翔平と翠の休みは完全に合わなくなった。社会人になっても土日なら会いにいく時間がある。お金の心配も学生の頃に比べたらしなくていいと考えていた翔平だったが、上手いこと事は運ばなかった。
三月に翠が繁忙期を終えてから、連絡こそとってはいるが、その頻度も最近は減ってきている。お互いに時間にゆとりのあるタイミングが合わないのだから、当然といえば当然かもしれない。
翔平は追加でアルコールを注文した。日本酒だ。飲みやすい銘柄ではあるが、度数はビールよりも高い。
グラスビール二杯しか飲んでいないが、翔平はアルコールに弱い。大樹は、それを踏まえて言った。
「……お前、飲み過ぎじゃないか?」
「職場の飲み会が結構あってさ、俺もアルコール耐性が少しはついたみたいなんだよね。日本酒とか焼酎も、多く飲めるようになったんだ」
「そうなのか? けど、アルコール耐性ってのは人それぞれの体質によるものだから、そうそう変わるもんでもないんだぞ?」
翔平は日本酒を大樹のお猪口にも注ぎ、二人で飲む。大樹はぐいっと半分ほど飲んだ。コメの旨みとまろやかな香りが鼻に届く。飲みやすくて、いい酒だ。
翔平も大樹と同様、半分ほどぐいっと飲んだ。そこまで無茶な飲み方をしているわけでもないのに、大樹は心配だった。大樹には、翔平がお酒を飲むことで翠に会えない寂しさを紛らわそうとしているように思えた。
「まぁなんだ。大変だろうけど、頑張れよ」
大樹にはそう言うしかなかった。話くらいなら聞いてやることはできる。だが、遠距離恋愛が孕む問題をまるっと解決するなんて、彼にはできない。これは、交際を続けている二人が向き合う問題なんだ。
翔平はそんな大樹に対して、「うん、ありがとう」と返し、お猪口に残ったあと半分の日本酒をぐいっと飲み干した。
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