第45話「岡村翔平は側にいたい」③
十二月になった。あれから、ミド姉とはメッセージや通話はできるが、会いに行くことはできていなかった。お互いの日程が中々合わないのだ。最近では、またミド姉は繁忙期らしく、電話やメッセージの回数も減った。今年のクリスマスは、一緒に過ごすのは無理そうだ。
それに対して俺の研究室では卒業論文、修士論文の大詰めの時期に差し掛かっていた。十一月頃から、研究室は一気に忙しくなり、アルバイトもろくにできない。
ミド姉が三週間で卒論を終わらせたものだから、少々侮っていた部分もあったが、全然そんなことない。データ整理とか、解析とか、めっちゃ大変。データ多すぎ。訳分かんない。
そんな大変な研究も、ある程度は形になり、明日、中間報告会がある。今までの研究成果をまとめて、みんなの前で報告し、実験方法や解析方法が本当にそれでいいのか、最終確認する。もしも不備があった場合は、教授たちの意見をもらい、上手いこと修正していく。最悪、解析のやり直しだが、流石に教授と一緒に研究を進めてきたわけだし、そんなことにはならないだろう。
全体ゼミで、教授たちから明日の詳細を話される。「明日までに資料を十五部用意すること」「明日の報告は卒論発表に着手するための重要なゼミなので、必ず時間通りに来て、出席すること」と注意を受ける。
確かに、明日休んだら卒論発表にすごい影響出そうだな。明日は四年が主役のゼミだし、一年で二度しかない、同じ研究室の大学院生も来るゼミだもんな。
家に帰り、ご飯を済ませ、風呂に入り、明日の報告用パワーポイントを軽く見直す。とりあえず、問題はなさそうだ。あとは明日の発表次第かな?
報告会は昼からだけど、何かミスがあったら午前中に修正したいし、今日は遅くまで起きているのはやめるか。
時刻は午後十一時。ちょっと早いけど、明日早く起きて、作業するか。
ふと、スマホのメッセージアプリを開く。着信はない。今朝、「おはよう」を表すスタンプがミド姉から届いて、同じように「おはよう」を表すスタンプで返した。それ以来、メッセージが返ってきていない。
やっぱり忙しいみたいだ。繁忙期だしね。
俺は、スマホの目覚ましを普段より早くセットし、眠りについた。
*
ブーブーブーブー
次の日、スマホの着信で俺は目を覚ました。最初は目覚ましかと思ったが、それは電話のバイブレーションだった。着信相手は、ミド姉。こんな朝早くから?
『翔ちゃん……。辛い……、つらいよぉぉ』
「……!? ミド姉! どうしたんですか!?」
ビデオ通話ではないので顔は見えないが、スマホの向こうから聞こえてくる声は、ミド姉の泣き声だった。こんなミド姉の声、俺は聞いたことない。
それによく聞いていると、咳も出ているみたいだ。もしかして、風邪で苦しんでいるのか?
『今日、怖い夢を見たの……。漫画が一生、入賞しない悪夢……。翔ちゃんとずっと、離れ離れの夢……。最近仕事が忙しくて、怒られることも多くて、漫画もあまり描けない。……昨日、応募した漫画賞の結果が返ってきたけど、それもまたダメだった』
ミド姉は苦しそうに咳をし、泣きながら俺に話す。咳を聞く度に、胸が張り裂けそうになる。あのミド姉が……、強い心を持ったミド姉が弱気になって泣いているだと?
『翔ちゃんもいないし、心細くて、風邪も引いちゃって、色々と思うところもあって、弱気になってたみたい……。ごめんね、たかが夢のことで電話してくる弱い女で……』
今すぐミド姉の体を引き寄せて、抱きしめたかった。だが、できない。俺たちは遠距離恋愛だ。近くにミド姉はいない。俺はもどかしさで頭がおかしくなりそうだった。
「ミド姉、もう喋らないでください! 大丈夫! ただの悪夢です! まやかしに過ぎません!」
俺はミド姉に声援を送った。声でしか不安を取り除いてあげられない俺の、苦し紛れの声援だ。こんなの、何の効力もありはしない。
『うん、うん。ありがとう、翔ちゃん。心配かけてごめんね。翔ちゃんの声聞いたら、ちょっと、元気出たよ。もう時間だから、支度しなきゃ』
「支度!? まさか、会社に行く気ですか!? ダメですよそんなの! 休んでください!」
『けど、今日は大事な会議があるの……。担当者である私が説明しないといけないの……』
「そんなの、上司に事情を説明したら代わってくれますよ! いいから安静にしていてください!」
『……ありがとう、翔ちゃん。声聞けて、嬉しかったよ』
「ミド姉!? ミド姉!!」
通話は切れた。
俺は居ても立ってもいられなくなり、部屋干ししていた洗濯物から適当に上下を選んで着た。椅子にかけてあったコートを手に取り、机から財布とキーケースを取り出すと、リュックに放り込み、家を出た。
……が、家を出た瞬間、思い出した。今日は、卒論の中間報告会。休んだら、発表会に大きく影響する研究室の必須参加ゼミだ。この報告会の結果を学部上層部に報告するのだ。
教授も言っていた。「必ず時間通りに来て、出席すること」。そんな超重要なゼミを、休んでいいのか? 今から空港に行き、飛行機で四国に着く頃には既にゼミは始まってしまっている。
「……考えている時間はない!」
俺は走った。最寄りの駅まで全力でダッシュし、電車に飛び乗った。すぐに空港に向かおう。ここから空港までだと、二時間かかる。今から行ってもチケットが取れるかどうか……。
電車の中で息を切らせながら、スマホを確認すると、一通のメッセージが。
『熱が酷いから、今日は安静にすることにしたよ。先輩が会議は代わって説明してくれるんだって。心配かけてごめんね』
俺はそのメッセージを読んで、安堵した。
「はぁ~。良かった……。とりあえずこれで、体の方は心配ないかな」
しかし、電車はすでに発車してしまった。次の駅で降りて、戻るか。
最寄りの駅に戻ってきた俺は、ミド姉が朝、電話越しに話していたことを思い出す。
『怖い夢を見たの……。漫画が一生、入賞しない悪夢……。翔ちゃんとずっと、離れ離れの夢……』
『昨日、応募した漫画賞の結果が返ってきたけど、それもまたダメだった』
思い出し、再び胸が張り裂けそうになる。こんなにミド姉が辛そうにしているのに、俺は側にいることもできない。
「何がカレシなんだ!」
何もできない自分が情けなくなる。けど、こうしてこっちにいるときに俺ができることなんて、電話で励ましてあげることくらいしかない。距離の壁が俺たちの邪魔をする。圧倒的な距離の前には、カレシなんて無力だ。
その日、俺は予定通りに報告会に出た。何事もなく無事に終了したが、俺はその日、他の人の発表に身が入らず、何も聞いていなかった。
*
後日、ミド姉の体調は無事に回復した。回復した日に、ミド姉から「心配をかけてごめんね、もう大丈夫」と連絡が来て、俺たちはその日、電話した。
『やっぱり、クヨクヨしててもしょうがないし、前を向いて頑張って描くよ!』
そんな強い言葉をミド姉は出した。あの日のミド姉はやはり、重なるストレスで弱っていただけのようだ。
ミド姉の弱い部分を見た俺だったが、その言葉で俺は、ミド姉はやはり強いな、と思った。
それと同時に、俺は弱いな、と思った。
本当は不安もあり、弱音も吐くミド姉をカレシとして支えてあげたい。だけど、俺たちは遠距離恋愛だ。彼女の心の苦しみを、十分に浄化してあげることはできない。これが、弱いと思う理由の一つだ。
そしてもう一つ。彼女の見た夢の言葉を、間に受けてしまっている自分がいる。
ミド姉が漫画を頑張って描いているのは知っている。学生の頃から、社会人になってもなお、希望を捨てずに頑張っている。いつか、連載を勝ち取るために。
けど、それは一体いつになるんだろう? 半年後? 一年後? 二年後? 五年後?
『怖い夢を見たの……。漫画が一生、入賞しない悪夢……。翔ちゃんとずっと、離れ離れの夢……』
もしかして、ずっと? ずっと離れ離れなのか?
そんな風に思ってしまう。
ミド姉を信じていないわけではなかった。けど、実際はこんな風に不安を抱えてしまっている女々しい自分が嫌になる。
二月の中旬になり、卒論発表は無事に終わった。あとは、卒業式を待つのみ。卒業に必要な単位は全て修得しているし、就職するまで、一ヶ月半の長い春休みだ。
最近ミド姉に会ってない。電話もあまりしていないな。お互いに忙しかったし、メッセージで軽くやりとりをする程度だ。
春休みだし、四国に行ってみようかな? けど、二月~三月は繁忙期だと言っていた。会えるのだろうか?
夜、久しぶりにミド姉に電話を提案する。メッセージを送って、二時間後の夜十時頃、ようやくメッセージが返ってきた。
『今、仕事が終わったよ……。しばらくこんな感じかもしれない』
旅行会社の二月は忙しい。卒業旅行やら何やらが集中するのだから、それも当然か。
『けど、翔ちゃんと電話したい。声聞きたい。癒してーー(><)』
ミド姉は顔文字で疲れを表現した返信を送ってきた。子供っぽさに俺はクスッと笑い、「もちろんです」と返した。
ミド姉が家の最寄り駅から家に歩いて帰るまで、俺たちは電話で話した。最初、ミド姉の声からは疲労が感じられた。忙しくても、何とか漫画を少しずつ進めているらしい。
仕事に加えて漫画制作。疲れて当然だ。倒れないといいんだけど。俺は、無理はしないようにと、念を押しておいた。
そんな忙しいミド姉に、「会いに行きたいから時間を作って欲しい」と言うのは忍びなかったが、一応、また会えないか提案してみた。
しかし、やはり三月の終わり頃までは難しいらしい。仕事が落ち着かないと日程も掴みにくいので、またキャンセルすることになってしまうかもしれないと言われた。
俺も、ミド姉に負担をかけたくはなかったので、引き下がった。
少しの間沈黙ができてしまい、どんよりとした空気が流れたが、俺はその流れを断ち切るように会話を再開した。仕事が忙しいミド姉に対して、励ましの言葉をかけると、ミド姉は「ありがとう」と言った。
駅から家までの二十分間はあっという間に過ぎた。ミド姉は明日も早い。帰って少し漫画に手をつけたら、寝るそうだ。ミド姉の睡眠時間を削るわけにはいかないので、俺は「おやすみ」と挨拶し、電話を切った。
静かな自室に意識が戻る。部屋の中には静止物だけが存在し、シーンとしている。無性に寂しく感じた。
「(次はいつ……会えるんだろう?)」
四月からは俺も社会人。学生の頃より、時間の融通は利きにくい。
会えるん……だろうか?
*
三月になり、卒業式を経て、俺は大学を卒業した。
配属先は、運が良いのか悪いのか、今住んでいる地域の近くで、今の二つ隣が最寄り駅となったので、仕事のための引越しは必要なかった。
引越し代はまるまる、大樹、モモと卒業旅行に行くのに費やすことができ、それなりに充実した休みを過ごせたと思う。
しかし、春休みの間、ミド姉との連絡は次第に間隔が空くようになった。俺が卒業した日や、春休みの最後、社会人になる前日には激励の言葉をかけてくれたが、それ以外ではメッセージ自体が週に一度、二週に一度と減っていき、やがて俺は社会人になった。