第45話「岡村翔平は側にいたい」①
「ありがとうございました~」
九月初旬。喫茶店ブラウンの営業時間終了直前に、最後のお客さんが帰るのを見届け、俺は一息ついた。お客さんが開いた扉からは、暗くなっている外の様子が分かる。
今日も長かったけど、無事に業務が終わった。これからゼミの資料を作らないといけないし、早く帰るか。
ロッカールームで着替えを済ませ、帰り支度をする。厨房にいたマスターに挨拶をして俺は扉を開けた。
「ふむ……」
「お疲れ様です、マスター。今日も遅くまで入れてくれて、ありがとうございます」
労いの言葉を入れてくれるマスターにお礼を言って、俺は外に出た。
「ふぅ~。疲れたな」
陽が出ていないといえども、夏の夜は暑い。バイトの疲労と相まって、俺の額から汗が落ちた。
ここ二週間、俺は毎日のようにアルバイトに勤しんでいた。ミド姉の住む四国に行く資金を調達するためだ。
公務員試験は、二次試験の面接も含めて無事に合格した。俺の就活は終わったんだ。
だから今は、大学研究室のゼミとアルバイトの日々。ゼミはまだそこまで忙しくないし、できるだけ今のうちに稼いでおきたい。
来週は給料日。お金が入ったら、またミド姉のところへ遊びに行けそうだな。
「よし、もうひと踏ん張り!」
ゼミ資料の作成のため、俺は疲れた体に鞭打って、家路についた。
*
次の日のゼミ終わりに、俺はミド姉にメッセージを送った。今日はゼミがあったから時間の関係上、アルバイトは入れていない。夜には十分時間が確保できる。
メッセージのやり取りは、毎日しているわけではない。あまり頻繁に送りすぎると、何かと疲れるかなとお互いに話し合った結果だ。不定期に「おはよう」や「お疲れ」、その日の出来事などを軽く送り合う程度だ。
電話で話したかったので、とりあえず『お疲れ様です。今日、電話できませんか?』とだけ送っておいた。彼女はまだ仕事中だろうけど電車の中でスマホは見るはずだ。
夜七時半ごろにメッセージが返ってきた。電話できるとのこと。定時は五時のはずだけど、やっぱり仕事が忙しいのかな?
やがて、夜十一時ごろになって、彼女の方から着信が来た。
『ごめんね、翔ちゃん! 遅くなっちゃって!』
「ミド姉!」
電話するのは、一週間とちょっとぶりくらい。ミド姉に就活が終わったと結果を報告して、それから一回電話したくらいだ。
最近のアルバイトが終わるのは午後十時。それから、ゼミ資料を作ってと色々やることがあって、あまり連絡ができなかった。
ビデオ通話のため、パソコン画面にミド姉の顔が映る。ミド姉の顔と声には、少々の疲れが含まれているように感じた。社会人になってからもう五ヶ月くらい経つ。流石に新入社員のペースというわけにはいかなくなってきたみたいだ。
「何だかちょっと、疲れていますか?」
『うん。ちょっとね……。最近忙しくて……。何だか、また繁忙期が近いみたいでさ。酷い時は、八時を超えて仕事することもあるの』
「そうなんですか……。全然漫画描く時間とかないですね……」
『これじゃあ定時の意味がないよー! 帰ってもページ数進まないし……』
会社によるんだろうけど、やっぱり定時上がりできる会社の方が少ないんだろうか? それを考えると、俺が就く予定の公務員は比較的残業は少なそうだし、良い条件なんだろうな。
『けどね、先日、読み切りを一本描き上げたの!』
「おぉ! そうなんですね! すごいじゃないですか!」
『うん。あまり残業が多くなかった時に、頑張って描いたの~♪』
社会人になってあまり時間がないのに、また読み切りを一本描き上げるなんてすごい! 以前はあまり描けないと言っていた気がするけど、俺が就活で忙しい時に、密かに作業を進めていたみたいだ。
『けど、自信の方はあまりないな~。ほら、今までも自信満々で投稿して、落ちてきたから』
「そうですよね……。けど、自信がなくても周りが見たら面白いかもしれないですし、投稿するの自体は間違ってないと思いますよ?」
『そうだよね! うん、投稿するよ。いい結果になるといいな♪』
ミド姉は嬉しそうに笑った。良かった。さっきよりも顔の疲れが飛んだように見える。
「ところでミド姉。また今度、四国まで会いに行こうと思っているんです!」
『え!? 本当に!? けど、翔ちゃん。お金は?』
「実は、喫茶店のアルバイトを増やして交通費を稼いでいたんです! これで四国まで飛行機で一気に飛んでいけますよ!」
『そうだったの!? そっか、嬉しいな! うん、来て来て! 私も最近は仕事のストレスで翔ちゃん成分が足りないの!』
ミド姉も俺の提案に快諾してくれた。
二人で日程を決めるのが、楽しくて仕方がない。旅行だって、計画を立てるときが楽しいというけれど、まさにその通りだ。カノジョと会える日を設定するのも同じ感じで、ワクワクする。
『翔ちゃんに会えるの、楽しみにしてるね!』
ミド姉の笑顔に癒されて、俺たちは電話を切った。
よし、これでまたミド姉に会える。その日を楽しみに、ゼミもアルバイトももう少し頑張ろう!
*
「ほぉ~。じゃあ、九月中にまたミドリさんのところへ行くんだな」
「うん。バイトのおかげで資金も調達できたしね」
「最近、バイトばっかやってたもんな~」
駅前のファストフード店で友人の大樹とハンバーガーを食べながら、近況報告をする。そういえば、大樹も就活が忙しくてあまり最近会っていなかった気がする。
「マスターには感謝しかない。わざわざ夜のシフトにまで入れてくれるんだから」
「いいバイト先だよな。確か、陽ノ下の紹介だっけ?」
「そうよ、翔平。こんな好条件のバイト先、そうそうないんだから、あなたはあたしに感謝しなさいよね?」
一足遅く注文を済ませた朱里がトレーを持って席に戻ってきた。席を詰める大樹の隣に、朱里は腰掛ける。
「そうやって上からモノを言わなければ、素直に感謝したんだけどね。まぁけど、一応言っておくよ。あ・り・が・と・う!」
「態度は気に食わないけど、よろしい」
「偉そうな奴だな。だからモモにも、面倒くさい人だって言われるんだよ」
「ぐっ……」
いつだったか、モモに指摘された一言で朱里は悔しそうな顔をした。
そういえば、そのやりとりをしたのって、バレンタインの頃だっけ? それから、大樹も朱里のことを気にしてるって知って……。
「大樹と朱里ってもう、付き合い始めて結構経つんだね」
「そうだな。一昨日でちょうど二ヶ月だ」
「おぉ~、そっか。おめでとう! なんかお祝いとかしたの?」
「一応したぞ? あと、呼び方を下の名前に変えた」
「ちょっと町田先輩! 今ここで言わなくても!」
「ん~? 何だよ、別にいいだろ? な、シュリ?」
大樹が不意に朱里の名前を呼ぶと、朱里は顔を真っ赤にした。こういうところは、表情が顔に出やすいミド姉よりも分かりやすい。
「は、はい。大樹さん……」
下を向いてモジモジとしながら、朱里も下の名前を口にする。こうして朱里を見ると、すっごい恋する乙女みたいな顔をしていて普通に可愛い。いつもこんなならいいのに。
「ラブラブだね~。良かったね、朱里。大樹さんと付き合えて」
「ふ、ふんっ! まぁ、あなたをバイトに誘ったことで町……、大樹さんと知り合えたんだから? ちょっとくらい感謝してあげなくもなくもないけど?」
と、照れ隠しにポテトを不機嫌そうに食べる。いつの間にか、大樹の前でも猫かぶりはしなくなったよな。大樹もそんな素の朱里を受け入れているし、これなら朱里の本性がバレて別れるとかはなさそうだな。上手くいってくれそうで良かった。
俺は、朱里の素直じゃない感謝の言葉に対して、素直に「どういたしまして」と言っておいた。
「けど、お前とミドリさんに比べたら、まだまだ付き合い始めたばかりみたいなもんだよ」
「そうかもしれないけど、身近で会えるだけ、羨ましいな」
「遠距離恋愛ね。確かに、ちょっと大変よね。翠さんを悲しませるんじゃないわよ?」
「分かってるよ。だから、近々会いに行くってさっき話していたんだよ。バイト代も貯まったしね」
「そう、ならいいわ。楽しんでらっしゃい」
「ノロケ話をたっぷり持って帰ってこいよ! その時は全力でいじってやるからよ!」
大樹はニヤつきながらそう言った。俺もそれに対して、「その時はちゃんと一から十まで話を聞いてもらうから、付き合ってよ?」と返した。
二人も、遠距離である俺とミド姉の仲を応援してくれている。朱里の言うように、ミド姉にできるだけ悲しい思いはさせないようにしないとな。
*