第36話「恋人たちは伝えたい」②
水無碧
みどりさんから連絡を受けて、祭りの喧騒から離れた、運動場前で待機する。サークルの出し物を手伝わなくちゃいけないし、気分もあまりいい方ではなかったけれど、大事な話をしたかったみたいなので承諾した。
大事な話って? こんな、数十分の間しか話していなかった相手に、大事な話などあるんだろうか?
もしかしたら、みどりさんの知り合いがミスコン優勝者であるワタシのファンで、一目見て話したいとかかな?
ハハハ。ありそう。ワタシって、いろんな人にモテるもんね。顔だけはいいし。
運動場と通路をつなぐちょっとした坂道に腰を下ろし、ワタシは心の中でそんな皮肉を自分に向かって投げる。真っ青に染まった空を見上げながら、ダイキ先輩の言葉を思い出した。
『今更お前が翔平に会って与える影響はマイナスでしかない』
『お前と翔平の関係は、もう過去に終わってるんだ。終わったなら終わったなりに潔くするんだな』
……本当に、その通りだな……と。
考えてみれば、どうしてもう一度付き合えるなんて思ったんだろう? 着信拒否をされた時に気づけば良かった。ワタシと翔くんの関係はもう終わったんだって。
やっぱり、甘えがあったんだろうな。翔くんなら、何だかんだで許してくれる。ワタシを受け入れて、もう一度抱きしめてくれる。そんなわけ、ないのにね。
ワタシ、裏切り女だもんね……。
翔くんに甘えてはいけないと、素直な気持ちを隠したまま離れたというのに、結局は甘えた気持ちを持っているんだから、世話ないよね。結局ワタシは、あの時から何も変わっていないってことか。自己中心的でどうしようもなく子供だ。
翔くん以外の人、好きになれるかな? ワタシならその気になればすぐにカレシを作れると思うけど、翔くんほど好きになる人、現れるかな?
気持ちを切り替えて、忘れるところから始めないとね。少しずつ少しずつ……。
そんな風に望まない決意を固めながら、運動場につながる階段の上から、運動場へ続く通路を歩いてくる人を眺める。
ふと、見知った顔が校舎から歩いてくるのを見て、ワタシは驚いた。
「……翔くん!」
こちらへ向かってくる一人の男性。ワタシがずっと会いたくて、だけどもう会ってはいけない。そう考えていた愛しの人。まさに今、忘れようと決意を固めていたところだったのに。
「……久しぶり、碧」
階段の前で立ち止まり、岡村翔平先輩はまっすぐワタシの目を見てそう言った。
「久しぶりでもないか。一ヶ月くらい前に会ったし」
「なんで? 何で翔くんがここにいるんですか?」
「ミド姉……、花森翠さんから聞いたよ。俺に話したいことがあるんだってね?」
「みどりさん? 翔くん、みどりさんの知り合いなんですか?」
「うん。俺たちに気を遣って、取り計らってくれたんだ」
翔くんは答えながら運動場に続く段数の少ない階段を上り、ワタシと同じ目線の高さまで上ってきた。
そういうこと……。みどりさんは、あの時話を聞いて、ワタシのことをわざわざ気にしてくれていたんだ。まさか、翔くんの知り合いだとは思わなかったし、翔くんを連れて来るだなんて、思いもしなかった。
「パンフレットを見て驚いた。碧がこの大学に通っていたこともそうだし、ミスコンに参加しているだなんて、思いもしなかったから」
「ワタシだって、思いませんでしたよ。翔くんが、うちの大学に来ているだなんて」
「まぁ、そうだよね」
「……」
「……」
話が全然弾まない。いつものように元気なワタシはどこにいるんだろう? ずっと会いたがっていた人が目の前に現れたというのに、ワタシは表情を曇らせて話すだけで、自分を自分らしく感じられなかった。
「そういえば、駅前で会ったときは色々と言った挙句に逃げ出してごめん。あの時の俺は、冷静じゃなかった。話もろくに聞かずに帰ったりして、申し訳ないと思ってる」
翔くんは突然詫びを入れる。けど、これは別に翔くんが謝ることではなくて、むしろ、ワタシが翔くんに謝らせていること自体が何だか申し訳ないと感じるほどで……。
今の翔くんには、怒りはないように見える。少なくとも表面上は。だからワタシは、素直にその謝罪を受け取って、「いえ、こちらこそ急にすみませんでした」と言う。
「今度は、あんなみっともない真似はしない。ちゃんと話を聞くよ。それで、碧が俺に話したいことっていうのは、どんなこと?」
翔くんの心の変化をワタシは感じた。ダイキ先輩が言っていた、翔くんにできたという新しいカノジョの影響だろう。そう考えると、ワタシの口は異様に重くなる。
「……言いたくないです」
けど、ワタシは言いたくない……。
「……? 言いたくない? それは、何で?」
翔くんには、訳が分からないだろう。だって、ここに来た目的そのものと矛盾しているんだから。
「碧……?」
黙っているワタシを見て、再びワタシに尋ねる翔くん。それに対して、ワタシはつい声を上げてしまった。
「だって、ワタシがこんなこと言ったらまた翔くんを困らせる! またワタシが悪者になる!」
翔くんはワタシの急変した態度に一瞬たじろぎ、目を丸くしている。
「ダイキ先輩に言われたんですよ! ワタシが翔くんに与える影響はマイナスしかないって。高校の頃もそうでしたよ! 振り回して、振り回して、振り回して、振り回してばかりでした! ……聞きましたよ、翔くん。ワタシのせいで悪影響を受けたって。ワタシと会ったことで、色々大変だったって!」
瞳から涙が出そうになりながら、自分で自分を傷つけるような言い方で声を大にして話す。これではまるで、自分から悪者になろうとしているみたいだ。そんなことは望んでいないのに。
けど、間違っていない。悲しいけれど、全部本当のことなのだ。
「ワタシは翔くんに迷惑しかかけない! だから、言いたくないんです! どうせまた、翔くんを困らせるだけなんです! だから、ワタシから言うことはもうないんですよ!」
身勝手な意見にも程があると感じた。迷惑をかけると言いながらも、わざわざ話を聞きに来てくれた翔くんをすでに困らせている。
本当にその通り。ワタシは、迷惑しかかけない……。
言い切ってから訪れた少しの間の沈黙を破るように翔くんが口を開く。
「……そっか。碧が言いたくないって言うなら、別に無理に催促はしないよ」
翔くんはあえて追求はしないようだ。いかにも、翔くんらしい気遣いだ。
「ただ、俺からは碧に言いたいことがある」
だが、それで終わらず翔くんは続ける。ワタシに、言いたいこと……?
……聞きたくない。
翔くんが言う前から、ワタシはそう思ってしまった。糾弾されると決まったわけではないのに、そんな恐怖があったのだ。
それとも、もう二度と会うことはない、もう会わないでほしいと言われてしまうのか。決別の言葉をかけられてしまうのが、どうしようもなく怖い。
「楽しかったよ、碧と一緒にいた時間」
だが、放たれた言葉は、ワタシの考えていたものとは大きく違っていた。あまりにも不意打ちなその言葉に、ワタシは唖然としてしまう。
「以前会ったときには色々酷いことを言ったけど、改めて思い出してみると、楽しかったよ。放課後に勉強したり、ファミレスで喋ったり、休みの日にどっかに遊びに行ったりしたのも、本当に楽しかった」
表情を緩めて微笑を浮かべながら思い出すように話す翔くん。穏やかなその表情は、昔にワタシの隣にいた翔くんのそれのように思えた。
「実際俺は、今までは酷い別れ方をした碧を嫌っていたんだけどさ、今はもうそんな気持ちはないから、安心してよ」
「なんですか? 何でいきなりそんなことをこのタイミングで言うんですか?」
「以前会ったとき、俺はずいぶんと酷い態度を碧にとってしまったからさ。少なからず傷ついていると思ったんだ」
「……! そうですよ。死ぬほど辛かったですよ! 数年越しに会った大好きな人にあんな風に拒絶されて、泣いちゃうほど悲しかったですよ! けどだからって、今更ワタシにそれを伝えて何の意味があるんですか!」
……分からない。翔くんはどうしてこんなことを? 今更こんなこと言われても、ワタシはどうしていいか分からないよ! 今更こんなことを言うくらいなら、前に会った時に言って欲しかった! それか今、何も言わずに立ち去って欲しかった……。翔くんへの想いをせっかく封印しているのにこんなことを言われても、ワタシは辛いだけだよ!
そんな想いを込めて、ワタシは翔くんに疑問を呈した。翔くんは、困ったような顔をして目線を少し下げ、答えた。
「……意味か。特にこれといった意味があるわけではないんだけどさ」
意味はない……か。本当に意味ないよ、こんなの。こんなの聞いたところで、今のワタシは嬉しくない。
「けど、言わなきゃ、気持ちは伝わらないでしょ?」
「……え?」
言わなきゃ……気持ちは伝わらない……?
「偶然に今日、会うことはできたけれど、もしもこのまま俺と碧が一生会わなかったら、それは碧の中で、ずっと消えない傷として残ってしまうと思ったんだ。碧は強そうに見えて案外もろかったからね。余計なお世話だったかもしれないけど」
真面目な顔のまま、そう話す。ワタシは彼の言葉に重みを感じ、聞き入っていた。
「だけどもうこれから、碧と会うことはないかもしれないから。だからここで、どうしても伝えたかったんだ。俺がもう、碧を憎んでなんていないってこと。それと、碧と過ごした時間は、俺の中で消えることはない。あの時間があったから、今の俺があるんだからね」
言わなきゃ伝わらない……。それはまさに、昔のワタシが犯した大きな過ちを指摘されているかのようだった。
何も言わずに翔くんの元を去ってしまった。一時の事のつもりで考えていたワタシだったけど、まさかそれが本当の別れになってしまうだなんて、思ってもいなかった。
『翔くんに想いを伝えなかったばっかりに』。何度もそう思った。
そしてワタシは今だって、何も想いを告げずにいる。翔くんの迷惑になるからと、想いをしまいこんでいる。あの時と、同じだ。
「これで俺の言いたかったことは終わりだ。碧に言うことがないって言うなら、俺はこのまま失礼するよ。じゃあね、碧。元気で」
それだけ言って、翔くんは背中を向け始める。
……行ってしまう。ワタシは、また何も言わずにこのまま別れるの? 今度は本当に、もう一生会えないかもしれないのに。
そんなのは、もう嫌!
「待ってください!」
階段を降りようとする翔くんを呼び止め、ワタシは翔くんに近づいた。
「ずるいです。翔くんはずるいです! 翔くんだけ言いたいことを言って帰るなんて! ワタシだって、ずっと翔くんに言いたかったことがあるのに……! けど、ダイキ先輩に止められて、もう言わない方がいいのかなって、我慢していたのに! けど、こんなこと言われたら、ワタシ……」
我慢ができなくなってしまう。言わなきゃ。言わなきゃ、気持ちは伝わらないんだから。
「翔くんが悪いんですからね。もう知りませんよ」
声を震わせて翔くんにそう言うと、ワタシはダイキ先輩に指摘される前のワタシに戻った。勘違いを解きたい、ワタシの本当の気持ちを知ってほしいと思うワタシだ。
立ち止まった翔くんに向き合い、頭を整理してからワタシは話し始めた。
「本当はあの時、ワタシは翔くんと別れるつもりなんてなかったんです。元カレのところに行って、ワタシから元カレに決別の言葉を伝えたら、戻ってくる……つもりだったんです。それで、ワタシ……の中で……折り合いをつける……つもりだったんです」
途切れ途切れになりながらも、ワタシは事情を話す。
「ずっと……翔くんと一緒にいるために……、気持ちにけじめをつけるために……、絶対にやっておかなきゃいけ……ないと思ったんです……」
ワタシの目からは、涙がこぼれていた。本当は、あの時に話しておくべきだった。
「けれど、ワタシがその事情を翔くんに……話さなかったばっかりに、翔くんとあんな別れ方をして……。本当の……お別れになってしまうなんて、思ってもいなくて……。翔くんを……傷つけて……」
本人に直接話したかったことをいざ話すと、その場で再び後悔が押し寄せる。戻らない時間とふがいない自分を恨み、ワタシは涙を流す。嗚咽混じりのワタシの言葉を、翔くんは黙って聞いていた。
「信じられないかもしれないですけど、本当なんです……。ワタシは今でも、翔くんのこと、本当に本当に大好きなんです……」
そして伝える好きな気持ち。今更遅いのかもしれない。裏切り女の言うことだ。信じてもらえるかどうか……。けれど、今のワタシの本当の想いを知ってほしい。だからワタシは、翔くんに伝える。
ワタシの話が終わったと悟ると、翔くんは得心いったという様子でこう言った。
「そっか。だから碧は、あの時あんな顔をしていたのか」
「あんな顔……ですか?」
「うん。当時の俺には理解できなかったけど、今なら分かる。別れる時に見せたあの顔は、明るい未来を見据えていたゆえのものだったんだね。ようやく分かった気がするよ」
『だから翔くん、ワタシと別れてください』
かつて微笑を浮かべながら言ったその言葉が思い出される。甘えた気持ちを胸の内にしまい、けじめをつけて戻ってこようと思っていたあの時。言葉の裏に隠されていた、ワタシだけが知っていたメッセージ。
『安心して待っていてください』
そのメッセージを言葉に込め、ワタシは翔くんに別れることをお願いしたのだ。
「信じてくれるんですか?」
「うん。今更になってしまったけどね」
今更ではあるものの、信じてくれると言ってくれた。話を分かってもらえたことでワタシは少しだけ救われた気がした。
「翔くん。ワタシ……、ワタシ……」
震わせながらも、声を振り絞る。一番伝えたい想いの丈を、ずっと好きでい続けた人に向かって投げかける。
「ワタシは、今でも翔くんのことが大好きなんです! だから、ワタシとやり直してくれませんか! もう絶対に放したりなんてしません! ずっと、隣を一緒に歩いて行きたいんです。これから先、ずっとずっと……」
もう一度翔くんが、ワタシを受け入れてくれるなら、ワタシはもう……。
「ワタシと付き合ってください」
絶対に放さない。例えまた、心が揺れ動くことがあっても、間違えない。ワタシはそんな決意を込めながら、三度目の告白を行う。
「俺、好きな人がいるんだ」
翔くんはごまかすことは一切せずに、しっかりワタシを見て即答した。
「もう碧と付き合うことはできない」
「……そう……ですよね……」
あっけなくフラれてしまった。
そりゃ、そうだよね。翔くんにはワタシじゃない、別のカノジョがいるんだから。ワタシが翔くんの横に立つことなんて、もうできない。
その現実を突きつけられたことでワタシの目から再び涙が溢れ、地面に落ちる。
あの時、ちゃんと気持ちを伝えていたら、こんなことにはならなかったのかな? 今も翔くんの隣にいたのは、ワタシだったのかな? こんなに悔しい涙を流さずに済んだのかな?
「っう……、ううっ……」
いくら後悔しても、もう遅い。分かっている。時間は戻らない。取り返しのつかない失敗の重大さが骨身にしみる。
「じゃあ碧、元気で」
溢れる涙を抑えるように手で顔を覆っているので前は見えないが、声は聞こえる。好きな人の声。可愛い顔をしているけど、子供ではない男性の声。ずっとずっと好きでい続けた人はそう言い残し、その場からいなくなった。
誰もいなくなった運動場で、ワタシはしばらく泣き続けた。
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