焔が揺らめいた
目の前で起こったことが、信じられなかった。
「な……に?」
高く上昇した信号弾。
それに飛来する黒い影。
「――喰いやがったッ」
そう喰われたのだ。
羽ばたく飛行魔獣に平らげられた。
信号弾は魔獣の腹の中で破裂し、色も匂いも封じ込められる。
その魔獣は自らの命と引き替えに、俺たちの救援要請を封殺した。
黒煙を吐きながら墜落していく二匹の魔獣を思わず目で追った。
けれど、すぐにそれから目を逸らして正面を向く。
「こいつは不味いな」
「あぁ、私も噂には聞いていたけれど」
信号弾を狙って封殺する。
偶然、飛行魔獣が餌と間違えて喰った、とは思えない。
あの魔獣は目的があって、信号弾を食らった。
ならば、それを指示したモノがいる。
それは知能を有し、魔獣を従えたモノ。
人の形を模した、魔獣。
「――魔人か」
獣から人になった魔の物。
知性を獲得し、魔術を会得し、人格を取得したモノ。
人語を解し、感情を解し、文明を解したモノ。
信号弾の封殺は、十中八九魔人の指示によるものだ。
「知っているぞ」
魔人は、そして現れる。
中型の魔獣を従えたように、森の奥から姿を見せた。
「人間は空に花を描き、仲間を呼ぶ。だから、封じた」
それは例えるならば、カラスだった。
連なる黒の濡羽を、まるで衣服のように纏っている。その黒々とした姿は、けれどやはり人の形を模していた。
顔も、髪も、体つきも、腕も、胴も、人間のそれと変わらない。
唯一、それを魔人だと判断できるたしかな要素は、その半身だ。
骨張った両の足から鋭い鉤爪が生えている。
そこだけが人型になるまえの、魔獣の名残として存在していた。
「どうする。正直、私たちの手に負えないぞ。戦うか、それとも……あんたの判断に従う」
「決まってるだろ。戦うに決まってる。俺たちに逃走はあり得ない」
「それが……たとえ敵わない相手でもか」
「その時は腕の一本でも道連れにして死んでやるさ。それが仲間の助けになる」
ここで倒れることになっても、必ず仲間が立ち塞がる。
例え刀傷の一つでも、後続の助けになるならそれでいい。
俺たちの役目は、魔獣や魔人を街に近づけさせないことだ。
「わかった、付き合うよ。私も、もうアスイマの生徒だからな」
その言葉に、すこし頬が緩んだ。
覚悟は、出来ているようだ。
あるいは、転校が決まったその時から。
「魔人は俺が相手をする。その間に魔獣を倒してくれ」
中型魔獣ともなると、俺には有効打がない。
短時間で仕留めるには、やはり魔法の力が必要だ。
それを成せるのは、現状カリンしかいない。
ならば、必然的に魔人の相手は俺になる。
幸い、人型になってくれているお陰で、俺でも対処は可能だ。
決して、倒せるという訳ではないけれど。
「無茶を言ってくれるな。中型魔獣を一人でなんてさ」
「出来なきゃ終わりだ。キツいだろうが、頑張ってくれ。俺はもっとキツいんだからな」
「はっ、違いないな」
互いに刀を抜き、剣先をそれぞれの敵へと向ける。
「私が加勢するまで死ぬなよ、コクト」
「あぁ、善処する。そっちこそ死んでくれるなよ、カリン」
そして、定めた相手へと向かい、地面を蹴った。
「――夜を想え」
隣から詠唱が聞こえ、噴いた焔は魔獣へと向かう。
「弔火」
目の覚めるような猛火の側で、こちらも刀を握り直す。
落ち葉を踏みしめて加速し、一息に魔人へと肉薄した。
打ち込んだ太刀筋は狂いなく首筋へと向かい、弧を描く。
しかし、その一刀は受け止められる。
羽根を模した黒い剣によって。
「――くッ」
初手を阻まれ、弾かれる。
だが、すぐに斬り返して次の一手を繰り出した。
宿した数少ない魔力を費やした、止むことのない連撃。
けれど、そのいずれも魔人に届くことはない。
ただ空しく、甲高い金属音が響くのみ。
「……弱いな」
瞬間、打ち抜かれた剣閃に身体を攫われる。
太刀筋を遮ったというのに、腕力だけで身体ごと押し返された。
手が痺れる。腕が痛む。骨が軋む。
人の姿を模してはいても、その強靱な肉体は魔獣のもの。
たった数合打ち合っただけでこれだ。
こいつは長くは持たないぞ、カリン。
「なぜ、挑む」
そう呟くや否や、魔人は空いた距離を瞬時に埋める。
まるで瞬間移動であるかのように眼前に現れ、黒剣は頭上から振り下ろされる。
到底、目で追えるような速さではなかった。
だが、それでも全感覚を駆使して、その一撃を受け止める。
酷く重い一撃に、思わず膝を付きそうになるのを必死でこらえ、堪え忍ぶ。
「なぜ、逃げない」
「――あぁ?」
こっちは攻撃をこらえるのに精一杯だって言うのに。
「不可解だ。歴然だ。明白だ。逃げるべきだ。敵わないと知っている。なぜ、逃げず。なぜ、挑む」
「ハッ、愚問だなァ!」
渾身の力を込めて、黒剣を弾き上げる。
「逃げた先に――未来はないからだ!」
出し惜しみはなしだ。
この身に宿るすべての魔力を全身に纏わせる。
身体強化の果て、ひねり出せる限界値。
そこから放つ剣撃は、僅かに魔人を押し返す。
「――ほう」
秒に至らぬ刹那に響く、連なる音。
死力を尽くした打ち合いは、ほんの微かな拮抗を生む。
すこしでも気を抜けば死ぬ。
すこしでも剣閃を見失えば死ぬ。
すこしでも冴えを鈍らせれば死ぬ。
極限を突き詰めた一瞬の時の流れに、幾つもの死線を見る。
そこに思考の余地はなく、余力を残す間隙もない。
「――ッ」
ゆえに、途切れる。
精神よりも、肉体よりも先に、魔力が底を尽きる。
「終わりだ」
まるで水中にいるようだった。
動きが、一刀が、鈍い。
ひどく鈍間になる感覚の中で、魔人の剣だけが閃いている。
まるで水底にから眺める日差しのごとく。屈折し、折れ曲がり、この首を刎ねんと迫りくる。
もはや、これまでかと諦めかけた、その瞬間。
焔が揺らめいた。
「コクトッ!」
まだだ。
まだ、終われない。
「――ぁぁああぁああああああッ!」
声にもならない声を上げ、言葉にもならない叫びを上げる。
最後の気力を振り絞り、最後の魔力を絞り出し、迫る黒剣を受け止める。
「なに――」
猛火を伴い、それは馳せた。
虚空を裂いて噴く焔が、そして魔人の背後に迫る。
黒剣は止めた。受け止めた。
焔を引く剣閃は、魔人の背後を捕らえる。
もはや防御は間に合わない。
「――其は我がうちに潜む者」
あと秒と経たず、魔人は焔に焼かれるだろう。
その僅かな間――刹那に、俺はたしかに聞いた。
「影法師」
魔術の発現を。