09
その後どうやって過ごしていたか、良く覚えていない。
フォルド・リダ宮殿から連れられ、エトアにあるアルトワ公邸に身を移した。投獄はされず、アニエスには客人用の部屋が与えられた。
眠っていたことも、食べていたことも、良く覚えていない。ただ四日が過ぎ、それでもこうして生きているのだから、自分は気づかぬうちに眠り、食べていたのかもしれない。
背後で扉の開く音がした。椅子にかけたアニエスに、足音が近づいてくる。
「アニエス、話す気になったかね?」
覗き込んできたのは、アルトワ公、ロランだ。
この四日間、この人は辛抱強く自分に話かけてくれた。はじめの二日はまったく沈黙し、三日日からアニエスは口を開いた。
「宮殿内でカレ公に剣を向けました。罰は受けます」
「そうじゃない。私が話して欲しいのは……」
「ムーアのことでしたら、何度も申し上げました。私の故郷は、カレ公とエストレ伯の進軍により消滅しました。私がカレ公に剣を向けたのは、その復讐です。アルトワ様、私にはもう弁解する気はありません。罰は受けます」
そうじゃない、そうじゃないとロランはひたすらに首を振った。
昨日から繰り返されているやりとりだ。これ以上何を話せというのだろう。
アニエスはロランから視線を逸らし、何も言わずに空を見つめた。ロランの大きなため息が耳に聞こえる。
「アニエス、お前は知っていたか?」
「…………」
「どうやらアンリは、お前のことをとても愛しているらしい」
ゆっくりと目を見開いて、アニエスは視線を動かした。ロランの小さな微笑みは悲哀に満ちていた。
「アンリのことは良く知っている。その私でも、あんな様子のアンリははじめて見たよ。よほどショックだったのだろう。見る間に生気を失ってしまった。どんなときでも、優しく穏やかな笑顔を絶やさなかったアンリであったのに。あの笑顔は今はもう、どこにもない」
わずかにも声を出せず、アニエスはただ首を振った。
「信じられないかい? そうだろう。なんという運命の皮肉だろうな」
ロランはひざまずき、アニエスと視線を合わせた。アニエスの両肩に手をおき、力をこめる。
「アンリはお前に言い訳をしないだろう。だから代わりに私から弁明させてほしい。クレマンがムーアを併合するために戦をはじめたとき、やつはムーア側から仕掛けられたと言っていたのだ。アンリは要請された通り、クレマンの身を守るしかなかった。アンリ自身が進んで剣を振るったのではない」
アニエスは目を閉じ、瞳が濡れるのを堪えようと、強く唇を噛む。
忘れられない父の最期。追い込まれた父は、捨て身でクレマンに斬りかかっていった。応戦しなければおそらく、アンリも無事では済まなかっただろう。
「それでも私、は……」
「わかっている。故郷を奪われ、肉親を殺された恨み。忘れろとも、許せとも言わん。たが、アニエス。どうか、今だけでいい。あれを助けてやって欲しいのだ」
「……助ける?」
ロランは表情を厳しくした。
「クレマンがエトアから出た」
「な……」
「陛下の判断がよほど不服だったのだろう。いや、何も今回だけではない。クレマンは常に機会を伺っていた。ぎりぎりの線で我慢していたようだが、ついに一線を超えたらしい。やつめ、モルティアに戻り、軍を率いてエトアに入城するつもりだ。狙いはヴァレン国王の座だ」
耳に入ってきた事実に、アニエスは愕然としていた。残虐で、野心深い男なのは承知していたが、まさか国家転覆まで目論んでいたとは。
「クレマンは、陛下、そして私の命を真っ先に奪いにくるだろう。そして次に、アンリだ」
アンリ? アニエスは理解できず、顔を歪めて首を振った。
ロランは一度目を伏せ、しばらくの後、ゆっくりとまぶたを上げた。
「あれはクレマンの甥ではない。あれは、私の甥だ」
その衝撃。アニエスはめまいを感じ、頭から倒れてしまいそうだった。
「……な、ん」
「アンリは、国王陛下であり、私の兄、エドワール・ディア・ルブランの、実の息子だ」
目の前が真っ白になった。
刹那、アニエスの胸に次々と浮かび上がってきたもの。
穏やかな笑顔。素朴な優しさ。平凡な衣服に身を包まれてなお、隠すことのできない洗練された容貌。戦場で見せる、威風堂々たる姿。
「王家の血……」
アニエスは思い出した。一度だけ会うことになった国王エドワール四世。
これが国王かと、ぼんやりとそんなことを考えていた。今になって鮮やかに思い出す。エドワール四世の、深い青の双眸。
「わかるだろう? 真の王位継承者は、私ではない。アンリなのだ」
聞かされる事実を、ただ頭の中から逃がさないようにすることが精一杯で、アニエスはもう瞬きすらすることができなかった。
ロランの母は、父である前国王の側妃であった。ロランの母は嫉妬にかられた正妃、エドワール四世の母により暗殺される。ロランはその事件の後、前アルトワ公爵の養子になった。
エドワールは母の罪を自分の罪のように思い、ロランにとても目をかけた。そして罪滅ぼしのためなのだろう、いつか王位を譲ることを心に決めた。
エドワールに子供が、それも王子がいてはロランに王位を譲ることはできない。エドワールは断腸の思いで我が子を辺境の忠臣、エストレ伯に託した。
のどかなロルガの地。温厚なエストレ伯爵夫妻。野心うずまく王宮より、かえって幸せになるかもしれない。エドワールはそう願っていた。
「母、そして皇太后のことは、ただお互いに憐れだと思うばかりだ。私はね、誓って言うが、そのことでルブランの血を恨んだりしたことはない。兄は本当に良くしてくれた。感謝しても足りないほどに。兄の力になりたい。そうは思っているのは本心だ。だが、応えられないこともある。私は国王にはなれない。若いころには確かに夢見たこともあった。だが年をとり、現実が良く見えるようになればおのずと分かる。私は国王の器ではない。王位はやはり、正当な後継者、アンリが受け継ぐべきなのだ」
しかしその事実を、クレマンが知ってしまった。
野心家のクレマンは、伯父という肩書きを強みに、アンリを意のままに操ろうとした。アンリを傀儡に、ゆくゆくは政治的実権を握るためだ。
だが聡明なアンリが自分の思い通りにならないとわかると、今度はことあるごとにアンリを傷つけ、追い落とそうとする。
また、前エストレ伯やロランがまとめようとしたアンリの縁談も、なにかと難癖をつけ邪魔をする。これ以上他の貴族と関係を持たれ、力を持たれてはたまらないと、そういうつもりであったのであろう。
田舎であるはずのロルガがたびたび戦禍にまきこまれたのも、おそらくクレマンと無関係ではない。
「カッシアの戦いでアンリが受け取ったという王の書状。どうせあれもクレマンの策略だろう。だが証拠がない。クレマンは周到で、そしてその力は強大なのだ。軍事力だけをとれば、正直、今の王家とアルトワでは太刀打ちできぬかもしれん。アニエス、わかるか? アンリが危険なのだ」
「……アンリ様は、そのことを」
かすれた声を出すと、ロランは頷いた。
「知っている。あれが十六の頃に話した。王位については、自分には向かないと固辞し続けているが。どちらにせよ、クレマンはそんな話の通じる男ではない。もう戦いははじまってしまったのだ。クレマンは早ければ明日にでも攻め込んでくるだろう」
「国王陛下は――」
「迎え打つ気だ。既に軍を整えはじめている。エトアは戦場になる。布令も出された。民が避難をはじめている。私とアンリは、カドリアに向かう」
戦争状態にあるカドリアへ。何故? 眉を寄せると、ロランは言った。
「カドリアとはもともと和平交渉を進めておったのだ。我が息子はそのため、今も向こうにいる。それでも和平に合意できなかったのは、それに反対するクレマンの力が強大だったからだ。カドリアもそれを知っている。あの国へ行き、援軍と共に戻る」
それを最後にロランは立ち上がった。肩に置いていた両手はそのまま、ぎゅっと力を入れられた。
「アニエス、共に来い。アンリを助けてやってくれ」
アニエスは茫然とし、そして力なく頭をさげた。膝に置かれた自分の手を見つめ、小さく首を振る。
「アニエス!」
「……私にできることなど、何もありません」
ロランの両手が離れた。しばらくして帰ってきたのは、深い落胆の息だった。
「……分かった。こうなっては、クレマンに対するお前の罪などといっている場合ではない。外に馬を用意している。荷物も積ませてある。エトアから出て、好きな場所へ行くと良い。ただ、アニエス。ひとつだけ理解してほしい」
去り際に、ロランはゆっくりとアニエスの右肩に手を置いた。
「アンリはお前をとても愛している。あれの叔父として、最後の頼みだ。どうかそれだけは、分かってやってくれ」
扉が開き、閉じる音。アニエスはその場でしばらく動けなかった。
「アンリ様……」
呟き、いつかのジョゼとの会話を思い出す。
ジョゼは笑って言ったのだ。つくづく甘いよね、あの王子様は。
「……ジョゼ、あの人は、本当に王子様だったよ」
力なく苦笑する。そのときアニエスの胸に、アンリと過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡っていった。
君たちを守れなかった。すまない。
ただし私の側から離れぬこと。もしものときには、私が必ず守る。
アニエス、君に見せるのが今から楽しみだな。
笑った、アニエス。君の笑顔をはじめてみたよ。
私も、いつかヴィクトル殿のように、君に思ってもらえるだろうか。
優しいのはアニエス、君のほうだ。
謁見が終わったら、君に宮廷を案内してあげよう。
アニエス、また後で。
できない、アニエス。
アニエス。
「アンリ様……」
ぽたり、と膝に乗せられた手の上に、透明な液体がこぼれおちた。
ロランの話がなくとも、わかっていたはずだ。アンリがどういう人間か。
五年前。アンリもまだ十七歳の子供だった。仕方がなくて。どうしようもなくて。
「……きっと、貴方は、苦しんだんですね」
そして、これからも。そういう人だから。
アンリが苦しんだのだと思うと、ただ胸が痛かった。
頬の上を、いくつも涙がこぼれていく。その温かさに、アニエスは知った。
「私は、アンリ様を……」
アニエスは濡れた瞳を閉じる。
そしてゆっくりと呼吸をしてから、再び目を開いたアニエスは、呼んでいた。
「アンリ様」
はじめて自覚した、愛した男の名を。