07
宮殿を案内すると、アンリは嬉しそうに言っていた。
その約束を守ることができないことを心の中で詫び、アニエスはまっすぐに進んでいた。
動揺はもうない。今自分は、恐いくらいに冷静であった。
「カレ公の部屋はどちらですか」
「あなたは、エストレ様の――」
「どちらですか」
アニエスの様子に、近衛兵は僅かに首をかしげながらも、結局はその場所を教えてくれた。
アンリの従者ということで、信用して教えてくれたのだろう。きっと彼は、後になってその責任を問われるだろう。そう思いながらアニエスは、その兵のことなどもう考えられなかった。
目的の場所までたどり着く。扉を叩くと、中で人の動く気配がした。アニエスは一歩下がり、剣に手を掛ける。
「誰だ」
開いた扉から見えた従者一人。姿が見えた瞬間、アニエスは剣を薙ぐ。従者はとっさにそれをかわした。
その従者の脇をすりぬけ、アニエスは体を低くして室内に走り入った。中にいた二人の従者が慌てて剣に手をかける。遅い。アニエスは彼らの抜刀を待たずに、クレマンに真っ直ぐ突き進む。
次の瞬間には、目を見開くクレマンの首筋に、剣を添えていた。
「従者を下がらせろ」
アニエスの声に、何が起こったのかと茫然としていたクレマンは、はっとする。その顔を歪めて、低く吼えた。
「貴様、アンリの従者だな。これはアンリの差し金か」
「違う。アンリ様には関係のないこと。これは私個人の、復讐」
アニエスは剣を握る手に、力をこめた。
「クレマン・ディア・カレ。お前は、私の手で殺す」
「どういうことだ、娘。私はお前など知らん」
「そうだろうな」
アニエスはかすかに薄く笑ったのち、憎悪の炎を宿した目でクレマンを睨んだ。
「では思い出してもらおう。コスタキアとの国境、ムーアの地を治める、爵位も持たない小さな領主だった。名前はジル・グノー。お前に殺された、私の父」
「ムーアだと?」
「思い出したか」
クレマンの治めるモルティアの東、二つの村と領主がいるだけの、小さな土地ムーア。懐かしい故郷。アニエスが十六の時に、目の前の男に徹底的なまでに蹂躙され、ムーアからは何もかもが消えた。
「村を焼き、民を殺し、作ったお前の別荘と庭園はさぞ美しかろうな、クレマン」
たったそれだけの理由で、アニエスは故郷を失った。戦争に巻き込まれたというのなら、まだ諦めもつく。だが事実はどうだ。気まぐれな貴族の道楽。後から知った現実の救いのなさに、アニエスは泣くこともできなかった。
「お前の姿、今日まで忘れたことはない」
そう言ってアニエスが奥歯を噛み締めたとき、不意にクレマンが声を上げて笑い出していた。
「く、ははは! これは面白いことになったぞ、アンリの従者」
いやらしく口の端を吊り上げたその顔。嫌悪感に、アニエスは身の毛がよだちそうだった。
「何がおかしい」
「く、く。いや待て。その前にまず聞かせてもらおうか。貴様、どうやって生き延びた」
「……最後の時に、父が私を逃がした。暖炉の中にもぐりこみながら、私は見た。部屋にお前と黒い甲冑を着た従者があらわれたのを」
アニエスの父親は最後まで闘った。アニエスを逃がすために。そしてクレマンの身を守る従者によって、父は倒れた。
クレマンの高らかな笑い声が響くなか、アニエスはがむしゃらに暖炉に作られた隠し通路の中を這い降りた。逃げろと言った父の言葉を忠実に守るために。
「は、ははは」
クレマンは愉快でたまらないといった様子で笑っている。
「なんという運命だ! は、は!」
「黙れ! 貴様、何を笑う!」
「く、はは! これが笑わずにいられようか。ムーアの娘」
良いことを教えてやろう、とクレマンは眉間に皺をよせながら醜悪な笑みをつくる。
「あれは五年程前だったな。アンリの父親もまだ生きていた。エストレ家はな、代々家督を継いだものが、当主の証である白銀の甲冑を受け継ぐ」
「……何を言っている」
「血にまみれて、見えなかったのだろうな。くく、皮肉なものだ。もしもお前が近くで目を凝らしていたら、気づいただろうよ。黒い騎士の鎧に飾られた、大きなエストレ家の鷲がな」
アニエスは目を見開いた。それは、どういうことだ? それは、まさか。
手から剣がすべりおちた。目の前がいきなり何も見えなくなった。アニエスはすとんと膝を落とし、そのまま動けなくなった。
「クレマン様! お怪我はありませんか!」
従者たちが駆け寄ってきて、アニエスは剣に囲まれる。
「は、ははは。娘、仇が討ちたいか。討たせてやるぞ、この私が。実のところ、私はあれが邪魔で仕方がなかった。なかなか始末がつけられぬので、どうしようかと考えていたところだ。どうだ? お前がやるというのなら、私はムーアの地をお前に返してやっても良いぞ。くく、ははは!」
顎をしゃくられた。ふん、なかなか綺麗な顔をしているじゃないか。クレマンの口がそう言った。
その時だった。
「アニエス!」
激しく扉を開け放つ音。アニエスを呼んだのは、確かにアンリの声だった。
唇を愉快そうに歪め、クレマンが耳元で囁いた。
「ほら、お前の父を殺した男だ」