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06

 どういうことなのか、アニエスはすぐにでもアンリに問いたかった。

 だがそうするには、そのときのアンリはあまりにも痛々しく、結局アニエスは言葉一つかけることすらできなかった。


 アンリは大きくため息をついて空を仰ぐと、そのまましばらく動かなかった。やがて手にしていたカレのマントを放し、頭を振って姿勢を正すと、馬上へと戻る。


 その後淡々と隊のたてなおしを図り、再び前進をはじめた。すぐに最前線までたどり着いたが、アンリがその場でやることはもうなかった。戦いは終わっていたのである。


 なんのために、とその場の全員が思ったことだろう。だが誰一人として、それを口には出すことはできなかった。

 言わずともみな理解していた。アンリは()められたのだ。


 アンリはただ、静かに言った。


「……エトアに向かおう」


 その旅路の途中、アンリはアニエスを側に呼んだ。

 野営の準備を終え、アニエスはアンリのいる天幕をたずねる。


 顔を見せたアニエスに、アンリは小さく頷いて側にくるよう促した。アニエスが近づくと、アンリは不意に言った。


「私の母の旧姓はカレ。クレマン殿の妹だ」


 そのことは、既に理解していた。それでもアニエスは、思わず視線を落とす。アンリに、あのクレマン・ディア・カレと同じ血が流れていると思うと、言いようのない気分になった。


「実際には血の繋がりはない。私は貰い子だからね」


 驚いて視線を戻したアニエスに、アンリはいつもの柔和な表情を見せた。その笑顔はいつもと同じようで、それでいてどこか寂しそうだった。


「記憶もない赤子のころ、子供のできないエストレ家に貰われたのだと聞いた」


 アンリは僅かに目を伏せる。


「私は幸せだった。父上も母上も何の不自由なく私を育ててくださったのだから。ただやはり、事実を知ったときはショックだった。父と母の血をひいていないことが、ただ悲しかった」


 直接の血の繋がりがないとはいえ、一応は親族であるクレマンに、なぜアンリが狙わなければならないのか。

 アニエスは結局それを聞くことができなかった。悲哀に満ちたアンリの笑顔に、そうすることがはばかられた。

 そしてその夜の会話は、それだけで打ち切られた。


 それから三日をかけて、国王領サン・リダに到着した。


 あれ以来、アンリはクレマンのことを口に出さなかった。アニエスのほうも同様に、一度としてたずねたことはない。


「アニエス」


 前方から声をかけられ、アニエスははっとして顔を上げた。一気に現実に引き戻される。アンリの軍は既にエトアに入城し、宮殿フォルド・リダまではもうあとわずかの距離である。


「どうした? ぼうっとしていたけれど、大丈夫かい?」

「……いえ、何でも。申し訳ありません、アンリ様」

「アニエス、君も疲れているのだろう。フォルド・リダで国王陛下への挨拶が済んだら、私は二、三日エトアに留まろうと思う。みなを休ませたい。君もしっかり疲れを取るといい」


 アニエスはただゆっくりと頷き、そのままアンリに続いた。


 フォルド・リダは以前アンリの言っていたとおり、美しい場所であった。


 大理石でつくられた大宮殿の建築技術、良く手入れされた庭園の造園技術もさることながら、内装も白地を基調に金と青が絶妙に配色され、豪奢でありかつ洗練された雰囲気をかもしだしていた。

 また、見事なまでに優美で均整のとれた彫刻や、いったいどうやって描いたのかと思うほど巨大な絵画があちこちに配置されている。アニエスにはわからなかったが、どれもが相当価値のあるものに違いない。


 その宮殿内を歩くうちに、アンリの気分も少しは回復してきたようだった。アンリは明るい顔をしてアニエスの方を振り返った。


「国王陛下のもとへいく。アニエス、君はここまでだ」

「はい」

「少し待っていてくれ。謁見が終わったら、君に宮殿を案内してあげよう」


 嬉しそうに笑顔を見せるアンリに、アニエスも思わず口元を緩めて頷いた。

 前方に控えていた近衛兵二人がアンリの側に寄った。そのまま先へ進むようにアンリを促す。


「アニエス、また後で」


 かつりと音をたて、アンリが踵を返したときだった。


 歩廊の向こうから、従者を三人引き連れた猛々しい風貌の男があらわれる。

 ゆるく波打つ肩まで伸びた黒い髪。同じく漆黒の長い髭。精悍な体つきをした、おそらく四十過ぎの男。


 アンリの歩みが止まったとき、アニエスはぶる、と身を震わせていた。総毛立つこの感触、恐怖からくるものでは決してない。


「アンリか」

「……伯父上」


 間違いない。忘れるはずがない。あの姿。クレマン・ディア・カレ。


 クレマンはアンリを見る深い紫色の目に奇妙な光をたたえていた。


「良くぞ帰還したな、アンリ」


 また会えて伯父は嬉しいぞ、とクレマンは笑顔をつくる。目は笑っていなかった。

 アンリは何も答えず、ただ静かに頭を下げる。


 それを見下すように冷ややかな視線で眺めたあと、クレマンはそのままアンリの側を通り過ぎようとした。

 アンリは顔をあげ、決然とした声でクレマンの背中に訴える。


「伯父上、ご理解ください。私はただ、あのロルガの地で暮らすことができれば、それで満足なのです」


 クレマンは肩越しにアンリを一瞥し、鼻で笑った。


「覚えておこう」


 アニエスは足に(くい)を打たれたように、その場から動くことができなかった。

 自分の側を通りすぎるとき、クレマンがちらりと一瞬だけ視線を送ってきたのが分かった。だがそれは本当に一瞬で、クレマンはアニエスの存在を気にもとめず、その場から去っていく。


 アニエスは強く拳を握り締めていた。体が震えているのは、おそらく気のせいではない。


 視界の端に、こちらを心配そうに見つめているアンリが映る。アンリの視線に、アニエスはこたえることはできなかった。


「アニエス……」

「エストレ様、国王陛下がお待ちです。お急ぎください」

「……わかった」


 しきりにこちらを振り返りながらアンリが遠ざかっていく。主君にそのように気づかいをさせてなお、アニエスの心を捉えて離さないもの。

 今アニエスを支配するのは、ただクレマンの存在だけであった。

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