05
冬の風がぴりぴりと肌を刺す。アニエスは白い息を吐きながら、アンリの待つ天幕へと急いだ。
失礼します、と断わってからアニエスは入り口をくぐる。
ランプの側に立っていたアンリが顔をあげた。手には国王の印が入った羊皮紙を持っている。
「アンリ様、国王陛下は何と」
「すぐにでも前線に戻り、他の国王軍と合流せよとのお達しだ」
アニエスは怪訝に眉を寄せた。
開戦から二ヶ月が過ぎ、今回もやはりヴァレンの勝利に終わりそうであった。
アンリが出なくとも戦いはまもなく終結するだろう。そこにわざわざ行かせる理由が分からない。そもそも一月前に前線からさがれと指示したのは国王のはずだ。
「出陣の理由がわかりませんが」
そう言うと、アンリも同じように思っていたのだろう、苦笑しながら頷く。
「それでも、だ。国王陛下の命とあれば私は出ねばならない」
結局、すぐに準備に取り掛かった。アンリの指揮のもと、隊を整え、まもなく西に向けて出発した。
馬を進める途中、兜の前面を上げたアンリが、独りごとのように呟いた。
「戦いのない日が、いつかくるのだろうか」
隣に並んでいたアニエスは、それが自分に向けられた言葉なのかどうかと迷いながら、結局は首をわずかに動かして返答した。
「わかりません。そうであって欲しい、とは思いますが」
「……少なくとも、カドリアはこれ以上の血を流すことは望んでいない」
「私もそう耳にしております」
アンリは大きくため息をついた。
「はじめはカドリアから仕掛けてきた戦争だった。だがその当のカドリアが、もう戦意をなくしている。これ以上いじめて何になるというんだろう。ヴァレンは和平に合意するべきなのだ。かえってこちらの方が疲弊しはじめている」
そこまで言ってアンリは、アニエスを見て冗談っぽく笑った。
「我がロルガなど、今では火の車だよ。戦費捻出も馬鹿にならない」
領主のぼやきに、アニエスは思わずくすりと笑う。
本当に、アンリのような人間ばかりだったら、無駄に戦いが起きることもなかったであろうに。
「多大な恩を受けた私が言うべきことではないかもしれませんが」
そう断わってアニエスは続ける。
「貴方は優しすぎるのです、アンリ様。いつかご自分の城まで手放してしまうのではないかと、私は心配になります」
領民へも最低限の税をかけるだけで、アンリはほとんどの戦費を、エストレ家の財を切り崩すことで捻出していた。
馬鹿がつくほどのお人よし、というジョゼの言葉も、あながち間違っていないのだから困ったものだ。
「優しいのはアニエス、君のほうだ」
思わぬ切り返しをされて、アニエスは何のことかと首をかしげた。
「娘たちのことをとても大事にしているね。ジョゼや、それから他の娘たちにも、暇を見ては剣を教えていただろう。君が戦場に行っても、彼女たちが生きていけるように」
「……あの子たちはみな、戦いの被害者です。ほうっておくわけにはいきませんから」
自分の気持ちを見透かされていたのかと思うと、なんとも言いようのない気分になって、アニエスは慌てて顔をそらした。頬に感じるアンリの温かい眼差しに、言いようのない気持ちは増すばかりだ。
アニエスは気づかぬふりをして、ただ黙って馬を進めた。はやく前線に到着しないだろうか、そう思ってただひたすらに前を見続けていたところ、ふと視界に奇妙な光が映った。
はっとして横に視線を送ると、アンリも既に気づいていたらしい。表情を厳しくし、アンリは兜の前をおろした。
「全隊、止まらせろ。守りを固め、弓の用意を」
アニエスと逆隣にいた分隊長の一人、トマに指示し、アンリは自身の馬を動かす。
前進を止めた歩兵の間をすり抜け、部隊の一番前に出るアンリの背中を、アニエスは無言で追う。視界先の奇妙な光の正体が明らかになった。鈍色の鎧に身を包んだ兵の一団。数は二百ほどか。
「あれは……」
アンリは目を細めた。アニエスも同じようにして瞳を凝らす。
みなが揃いの鎧を着ていた。まだ遠く、はっきりとは見えなかったが、少なくとも傭兵ではないことが分かる。傭兵はみな、着ているものがばらばらなはずだ。
「カドリア兵でしょうか」
「いや……」
アニエスの問いに、アンリは目を細めたままかすれた声を上げた。
アンリの様子にどこか異変を感じ、アニエスが眉を潜めたときだった。
ひゅ、と高い音が空に響いた。開戦を告げる鏑矢が、敵の中から放たれていた。
直後にアンリは馬首をまわらせ、後方の兵たちへ声を上げた。
「くるぞ! 弓、構え!」
アンリは自らも剣を抜いた。アニエスはアンリの指示を待つ。
「アニエス、回りこめるか」
「いけます」
「では、トマと共に北へ。私が南から迎え撃つ」
短く言いおき、アンリは馬の腹を蹴った。彼の騎馬隊が後に続く。
すぐにアニエスはトマと共に北へ隊を向けた。
馬を走らせながら、アニエスは気づいた。
おかしい。こちらが南北へ分隊しているのは、敵も分かっているはずだ。にもかかわらず、敵は揃って南に突っ込んでいく。あれではまるで、アンリ一人を追っているようではないか。
それを悟ったとき、アニエスはぞっとした。敵はたまたまこの地に居合わせた一軍ではない。やつらは、アンリを狙っている。
「急げ! 敵をアンリ様に近づけるな!」
アニエスは叫び、馬の腹を蹴り上げる。剣を抜き、駆けた。
こちらの倍近くいた敵兵は、はじめに弓による一斉攻撃でその数を減らし、さらに分隊した騎馬軍に挟み撃ちにされ、見る間に数を減らしていった。
その数が三分の一となったとき、鈍色の一団は敗走をはじめた。
「攻撃、止めろ! 追うな!」
アンリの声が戦場に響き、戦いは動きをとめた。
返り血を浴び、白銀の鎧を赤黒く染めながら、アンリは兜を取る。
馬をとまらせ、アンリは地に足をつけた。
「負傷者の救出を。それから被害を報告してくれ」
アニエスの隊は、負傷こそしていたが、全員の命が無事であった。隊の様子を確かめたあと、アニエスは馬をおり、アンリに近づく。
アンリは倒れた敵兵の一人が着用していたマントを手にとり、それをぎゅっと握り締めていた。
血に染まり、その絵柄は良く見えなかった。アニエスは他にもっと良く見えるものはないかとあたりを見回し、足元で絶命していた兵士の一人の体を反転させた。
見た瞬間、アニエスは驚愕に震える。
深い灰色のマント、その中央には後ろ足で立ち上がった二匹の黒い獅子が、向かい合って描かれていた。
「カレ!」
顔を歪めてその名を口にし、アニエスは目を見開いてアンリを振り仰いだ。
アニエスの声も耳に入らない様子で、アンリはただ顔面を蒼白にし、唇を噛んでいた。
やがて呟くようにかすれた声を漏らしたアンリに、アニエスは鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
「伯父上、それほど私が疎ましいか」