04
ジョゼと話をする少し前のことだ。
渋るアンリに、アニエスは自分を無理やり売り込んだ。
「アンリ様の所有する兵と腕を比べても、うち九割のものには勝つ自信があります。もちろん、一対一という前提ではありますが」
「すごいな」
アンリは心から感心したように目を丸める。だが、欲しいのはそんな言葉ではない。アニエスは内心焦れたような気分になりながら続けた。
「必ず役に立ちます。どうか私をお連れください」
「だが、アニエス……」
「アンリ様の兵として働くことが叶わないのならば、町にくだり、傭兵の受け入れ先を探します」
最後の手段だった。そう言えば、アンリが受け入れることをわかってのことだった。悪いとは思うが、こうでもしなければ彼は首を縦に振るまい。
困ったな、と苦笑してアンリは、それでも最後には結局承諾してくれた。
「ただし私の側から離れぬこと。もしものときには、私が必ず守る」
「……それでは意味がありません。主君を守るのが私の役目です、アンリ様」
うん、そうか、とアンリは朗らかに笑った。
どこまでも純朴なこの伯爵殿は、実は意外に腕がたつ。貴族として受けた英才教育の賜物なのだろうか。
なおかつ、彼の指揮能力は素晴らしいものがあった。一度戦場に出れば、普段の穏やかな様子はどこへいったのかというほどに、彼の雰囲気は堂々たるものへ一変する。
凛々しく声を張り上げ、勇ましく戦場を駆け、鮮やかに兵を動かした。田舎貴族として一生を終えるのが、心底勿体ないと思ったほどだ。
開戦から一ヶ月、アンリはヴァレン北西部、カッシア地方に拠点をおいていた。
最前線からは馬を走らせて一時間ほどの距離にある。前線ではいまだ他の国王軍が戦闘を繰り広げているが、少数部隊であるアンリは、一度出向いた前線からは撤退し、この地で国王からの指示を待っていた。
その日の終わりごろ、アニエスはいつものように自分に預けられた隊の様子を見て回っていた。
アンリは戦場に連れてきた八十の兵をそれぞれ十ずつの隊に分け、その一つをアニエスに預けてくれていた。傭兵と共に生き、たくさんの戦場を見てきた。戦い方は心得ている。アンリはそれを買ってくれた。
ヴィクトルからはじめて剣を教わって五年。傭兵に拾われた娼婦が、今ではヴァレン国王正規軍の一つ、エストレ伯の分隊長の一人である。とんだ出世だな、とアニエスはときどき思い出しては苦笑した。
見回りが終わり、アニエスは自分の天幕へ戻った。と、中にアンリがいることに気がつき、アニエスは姿勢を正した。
「仕事は終わったかい」
「はい」
椅子に座るアンリに近づくと、アニエスは小さく首をかしげた。
「アンリ様、どうなされたのですか。お休みになられたのでは」
「うん、少し君に話があってね。悪いが、勝手に入らせてもらったよ」
「それは一向に構いませんが……」
一体なんだろうと、アニエスは黙ってアンリの言葉を待った。
アンリの瞳が静かにアニエスをとらえた。
「君の目的はなんだい、アニエス」
穏やかな声で尋ねられ、アニエスは思わず息を飲む。
「聞こうと思っていて、今まで聞けなかった。君の目的を知りたい」
ついにきたかと、アニエスはそういう心境だった。だがその内心の動揺を、アニエスは表面から綺麗に隠す。
「目的、と申しますと」
とぼけた。だがアンリは柔らかなほほえみで先を促す。
「私についてきた理由だよ」
「…………」
見透かすようなまなざしをむけられ、居心地の悪さを感じてアニエスは顔をそむけた。
どうしようかとしばらく躊躇して、結局アニエスは諦めることになった。このようにただ静穏な様子で待たれては、逆に言うしかないという気分になった。アニエスは息をつき、視線をアンリに戻す。
「カレ公をご存知ですか」
「カレ? クレマン殿のことかい?」
「……そのような名だそうですね」
クレマン・ディア・カレ。その姿を思い浮かべ、ぞわ、とアニエスの体を黒い衝動が走りぬけた。
カレ公爵はヴァレン王国北東、首都エトアを含む国王領サン・リダ地方の下に構える、肥沃なモルティア地方を領有するヴァレン貴族の一人である。
現王家であるルブラン、その弟殿下が率いる一族アルトワ、この両家に続いてヴァレンで三番目に力を持つ一族、それがカレだ。
クレマンは現国王エドワール四世の従兄弟にあたるのだが、穏健派の国王や王弟とは違い、黒い噂の絶えない人物として有名であった。
「私は、カレ公に会いたいのです」
アニエスは拳をぎゅっと握り締めた。熱を帯びた視線をアンリに向けると、アンリは小さく眉を寄せた。
「一体どうして?」
「……それは申し上げられません。いくらアンリ様でも」
はっきりと拒絶すると、アンリはそうか、と諦めたように言って、それ以上は何も聞こうとしなかった。
そしてまた、いつもの柔和な笑みを浮かべて彼は言う。
「じきに会えるだろう、クレマン殿は今エトアにご滞在だと聞いた。我々もこの戦が終われば、一度エトアに向かう。国王陛下にご挨拶にいかなくては。アニエス、エトアには行ったことがあるかい?」
首を横に振ると、アンリはそこにはない何かを見るように、遠くを見つめて目を細めた。
「美しいところだよ。サン・リダで、いやヴァレンで最も美しい街かもしれない。国王陛下のおられるフォルド・リダ宮殿には、いつの季節でも美しい花、樹木、そして水に囲まれていて、建築や彫刻もそれはすばらしい。私も数えるほどしか行ったことがないけれど、あの美しさは決して忘れられないよ。アニエス、君に見せるのが今から楽しみだな」
夢のように語るアンリは、まるで年若い少女のようだった。そう思い、アニエスは思わず頬を緩めた。
美しい宮殿にたたずむアンリを想像する。おとぎ話に出てくる王子そのものだな、とアニエスは思った。
「……笑った」
不意に言われ、アニエスはきょとんとした。
「笑った、アニエス。君の笑顔をはじめてみたよ」
そう言われてはじめてアニエスは自覚した。笑わないようにしていたつもりもなかったのだが、いつのまにか自分には仏頂面が板についてしまっていたらしい。アニエスは内心で苦笑する。
「アニエス、やっぱり思った通りだ。君には笑顔がとても似合う」
本当に嬉しそうに破顔するアンリに、アニエスは何か気恥ずかしくなって、わざとらしく咳払いをした。
「アンリ様、もうお戻りください。夜も更けます。お休みになられた方がよろしいと思います」
うん、そうだな、とアンリは自分の天幕に戻ろうと腰を上げた。
送ろうと思って一緒に天幕を出たとき、アンリは何かを思い起こしたように振り返った。
「ヴィクトル殿は、どういう人だった?」
「は?」
アニエスは一瞬本気で首をひねる。アンリの質問は唐突すぎた。
「ヴィクトル、ですか? どういう人と言われましても……」
「恋人だったのかい?」
アンリの質問の意図がわからず、アニエスは不可思議な思いに捕われていた。
「以前申し上げました通り、ヴィクトルは私を拾い、剣を教えてくれました。恋人、というのとは少し違うと思います」
「彼が好きだった?」
「好き?」
アニエスはいよいよ混乱し、それでもなんとかアンリの言おうとしていることを理解しようと努め、答えを探した。
「よくわかりませんが、ヴィクトルの隊はとても良いところだと思っていました。ヴィクトルとの関係も、あれはきっと、家族といったら語弊があるかもしれませんが、そういうものに近かったと思います。ヴィクトルが私をどう思っていたのかは分かりません。だからこれは私の勝手な予想ですが、たぶん、ヴィクトルは寂しかったのだと思います」
ふと、久方ぶりにヴィクトルの姿を思い出した。アニエスは思わず目を伏せる。
「どういういきさつがあったかは良く知りませんが、十代の中ほどからずっと傭兵として暮らしてきたと言っていました。家族の話は、聞いたことがありません。ただヴィクトルの側で私は、彼の娼婦であると同時に、彼の兄弟であり親子であり友人であったように感じます。だからヴィクトルが死んだとき、私はとても……」
悲しかった、という言葉をアニエスは飲み込んだ。そのまま沈黙していると、アンリが気づかうような声をかけてくれた。
「……すまない、悲しいことを思い出させてしまったね」
「いえ……」
アニエスは顔をあげ、もうお休みになられてください、とアンリに言った。アンリは頷き、小さくほほえんでからアニエスに背を向ける。
一歩踏み出して、アンリは再び振り返った。
「私も、いつかヴィクトル殿のように、君に思ってもらえるだろうか」
「……今でも私はアンリ様を尊敬しておりますが」
よくわからないと、そんな表情をしてアニエスが答えると、アンリは何かを言おうと口を開きかけ、だが結局、彼は何も言わずに小さな笑みをみせただけだった。
「ありがとう。おやすみ、アニエス」
見ているこちらが悲しくなるような儚げな笑みは、アニエスの胸からいつまでも離れなかった。