03
「つくづく甘いよね、あの王子様は」
けらけらとジョゼが明るく笑った。
「伯爵様だ。王子ではない」
「かわりゃしないじゃない。まさか私財をなげうって、拾った娼婦たちに建物を用意してくれるなんてさ。馬鹿がつくほどのお人よしっていうの、ああいう人のことをいうのかな」
「ジョゼ、話す暇はないだろう」
直後に甲高い音。ジョゼの持っていた剣が空に舞った。光を反射させながら落下していくそれを、あ、と口を開けたままジョゼは目で追った。
「本気を出さないでよ、アニエス」
子供のように頬を膨らませるジョゼに、アニエスは剣を鞘に戻しながらため息をつく。
「ジョゼこそ、少しは本気を出してくれ」
「才能がないのよ。諦めて。剣のことはアニエス、あんたに任せてるから。やめようよ、剣の稽古なんて。今更無駄だって」
肩をすくめてみせたあと、ジョゼはアニエスの前を横切った。腰をかがめて手を伸ばすジョゼに、アニエスは小さく眉根を寄せる。
「困る、ジョゼ。頼りにできるのはもうジョゼしかいない」
剣を拾い上げてからジョゼは、耳を疑うような表情でまじまじとアニエスの表情を伺った。
「何言ってるの、アニエス」
「ジョゼ、自分の身は自分で守れるようになってほしいんだ」
「アニエス、あんた……」
アニエスの言いたいところを、ジョゼは察してくれたようだった。うつむいてアニエスの目の前までくると、顔を上げないままで彼女は小さな声を漏らす。
「……あんた、行くの」
アニエスはまつげを伏せた。
「国境付近に傭兵が集まりだしているそうだ。ヴァレンはまもなく仕掛けると思う。アンリ様にも出陣が要請された。ジョゼ」
一度言葉をきり、アニエスはすっと視線を上げた。
「私はアンリ様についていく」
みんなと離れたくはなかったけれど、とアニエスがぽつりと言葉を加えると、ジョゼは顔を上げて弱々しい笑みをつくってみせた。
「うん、わかってる。はじめから気づいてたんだ。あんたは私たちとは違うって。何かやらなきゃいけないことがあるんだろうなって、ずっと思ってた」
「ジョゼ、ごめん」
「馬鹿、あやまる必要なんてないって。あんたは良くしてくれた。私たちをいつも守ってくれた。気にしなくていいよ、アニエス。みんな、わかってるから」
ふと彼女はアニエスの側から離れた。アニエスに背中を向けて、ジョゼは空を見上げる。
「あんたと一緒にいたの、どれくらいだっけ?」
「……二年と、半年くらいかな」
「なんだ、たったそれぽっちか。あんたとはもっと、ずっとずっと昔から友達だったような気がするのに」
くるりと振り返ったジョゼは、まぶしいくらいに屈託のない笑顔をしていた。
「私の人生、最低だったときもあったけど、でもアニエス、あんたと会ってからは結構楽しかったよ」
「……私もだ、ジョゼ。ジョゼと会えて良かった」
アニエスの言葉に、ジョゼはくしゃりと顔を歪めた。慌てて片手で目元を覆うと、鼻をぴくぴくと痙攣させながら、わざと声を大きくする。
「いつ出るの、アニエス。すぐにってわけじゃないんでしょ」
「半月後になると思う」
一度鼻を大きくすすってから、ジョゼは手を下ろした。
「そう、だったらそれまで剣を教えてよ。さっきは無駄なんて言ったけど、がんばるからさ」
照れくさそうに笑うジョゼに、アニエスはほほえんで頷く。そうだ、とジョゼは思いついたように言った。
「ねえアニエス、店の名前を考えて」
アンリから与えられた館で、娘たちは料理屋を営む計画になっていた。アニエスは首をかしげ、腕を組んでしばらく悩んだあと、決めた。
「じゃあ、小麦亭」
言うと、途端にジョゼはふきだした。
「く、はは。アニエス、センスない」
「…………」
急に気恥ずかしくなってジョゼを睨むと、彼女はひいひいと笑いながらアニエスの肩を何度も叩く。
「嘘だよアニエス、怒らないでよ。くく」
「……もういい。ジョゼが決めてくれ」
「くくく、冗談だってば。小麦亭。うん、いいよ。わかるわかる。綺麗だもんね、ここの小麦畑」
それでようやく笑いやんで、ジョゼはアニエスの背中の向こうに広がる金色に視線を送る。夕日を浴びてまた輝きを増したそれに、ジョゼは眩しそうに目を細めた。
「綺麗だよね、ほんとに」
アニエスが振り返りながら頷くと、ジョゼがぱちんと指を鳴らして顔を輝かせた。
「ねえ、金の小麦亭っていうのはどう?」
「……金の小麦亭。うん、いいね」
「じゃあ決定。私たちのお城は、金の小麦亭だ」
嬉しそうなジョゼに、アニエスは胸の中に温かいものがこみ上げてくるのを実感していた。あの場所で、娘たちが笑いながら生きていく。きっとみな幸せに暮らせるだろう。
ふと、アニエスは言わなければならなかったことを思い出し、わずかに視線を厳しくした。
「ジョゼ、客はとらないように。それだけはみんなにも守るように言ってほしい」
当然料理屋の客ではない。ようは、男としての客ということだ。
「言って、守れるかね。羽振りのいい客がきたら、ついていっちまうかも」
「しっかり管理してくれ、ジョゼ。アンリ様のご好意を裏切ってはだめだ」
「……うん、そうだね。わかった。私が責任もつ」
安堵の息をついたアニエスに、ジョゼはくすりと笑った。
「アニエス、あんたさ、アンリ様に惚れた?」
「……なに?」
「やっさしいもんねえ。あんな男、他にはいなかった。結構いいなと思って狙ってたんだけど、アニエスなら仕方がない。ゆずるわ」
「……馬鹿なこと言ってないで、ほら」
呆れたようにため息をついて、アニエスは手を伸ばしてジョゼから剣を受け取った。そのままアニエスは踵を返す。直後に体が激しく揺すられた。首にジョゼの腕がまきついてくる。
「ねえアニエス、用が終わったら帰ってきなよ。はじめてできた私たちの家だ。あんたが戻ってくるまで、私がしっかり守るから。だから帰ってきなよ」
「ジョゼ……」
「あんたは私の友達だ。私はあんたの友達。そうだよね、アニエス」
小さな震えが伝わってきた。背中に感じるのは、ジョゼのぬくもりと、わずかな湿り気。
ジョゼの腕に自分の手を重ね、うん、とアニエスは呟き、そして空を仰いた。