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02

 その名を、アンリ・ディア・エストレといった。


 ディアは国王に認められた貴族のみに許される称号であり、「私の領地」と言った彼の言葉に(たが)いなく、アンリは正真正銘のエストレ伯爵だった。

 ヴァレン王国南西に位置するロルガ地方を治める彼の領地はさほど広くなく、また豊かでもない。平たくいうところの田舎貴族というわけである。


 二十二歳のアンリが爵位を継いで、まだ一年も経っていないと聞いた。

 ヴァレン王国と西の隣国カドリアとの領土戦争が激化して三年が経つ。ロルガ一帯は国境からは離れた場所にあるが、アニエスがアンリと出会ったあの戦を含め、過去何度かこの場所は戦地と化している。

 でなくとも、国王に忠誠を誓った貴族であれば、戦がはじまれば出陣するのが義務であり、そうした戦いの最中に、アンリの父である前エストレ伯は亡くなったのだという。また彼の母親は、彼がまだ十代の頃に病死したのだそうだ。

 アンリに妻はいなかった。二十二という年齢、かつ貴族であることを考えれば、結婚していないほうが不思議なくらいだ。だがそれを聞いても、いろいろあってね、とアンリは言葉を濁すばかりなので、アニエスはそれ以上深入りするのを止めた。


 先の戦いから一ヶ月が経過していた。ヴァレン王国とカドリア王国に何度目かの休戦条約が結ばれ、国内には束の間の平和が訪れていた。


 数ヶ月の内にまた戦いがはじまるだろう、というのが大方の見方だ。

 このところ負け続きのカドリアは、国境に隣接した領土を割譲する代わりに、完全停戦を求めているようだが、ヴァレンはそれを受け入れないらしい。ヴァレン国王、エドワール四世ことエドワール・ディア・ルブランは穏健派だと聞いていたが、つくづく噂とはあてにならない。それとも宮廷内の他の勢力が、王の意向を邪魔しているのか。


 そこまで考えて、アニエスはため息をついた。どちらにせよ、また戦いがくる。そう思えば表情はおのずと厳しくなる。


 目の前には金色に輝く小麦畑が広がっていた。ロルガに収穫時期が近づいている。

 秋風に吹かれ、首の後ろでひとつに束ねたアニエスの長い栗色の髪がふわりとなびいた。薄い若草色の瞳を、遠くを見るように細める。


 ふと背後の気配に気づき、アニエスは振り返る。こちらに歩いてきているアンリがほほえんだ。


「アニエス、君はいつも厳しい顔をしているね」


 立派な甲冑を脱いだアンリの衣服は、そのあたりの農民とほとんど変わらないほど平凡なものである。質素倹約といえば聞こえは良いが、要するにアンリには金がなかった。

 それをどうこう言うつもりはないのだが、ただ単純に勿体ないなとアニエスは思う。この人なら、どれだけ豪華な衣装でも品良く着こなしてしまいそうなものを。


 そんな心中はおもてに出さず、アニエスは自分の隣に並んだアンリに口を開いた。


「アンリ様。貴方とて状況をわかっておいででしょう」

「うん?」

「いつまた戦いがはじまるかもしれない。私はそう言っているのです」


 アンリは、先刻のアニエスと同じように目の前に広がる金色に目を細め、小さく笑った。


「国王陛下の弟君であるアルトワ公のご嫡男と、カドリアの第三王女との婚約の話が進んでいる。国王陛下にはお子がいらっしゃらない。いつかはアルトワ公が王位をお継ぎになるだろう。将来的には、ヴァレンとカドリア、両国の血が一つになるんだ。カドリアとの関係は良い方向に向かっているよ」


 甘い、とアニエスは思った。血縁関係など、争いの歯止めになるはずがない。どころか、下手をすれば将来カドリアは、それを理由にヴァレンの領有権を主張するであろう。ヴァレン国内の貴族たちにもそれを危惧するものが多いそうだ。カドリアの血を嫌うものたちが、アルトワ公に牙を向ける可能性も否定できまい。


「心配しすぎだよ、アニエス」


 田舎貴族らしい、楽観的で穏やかな意見だった。洗練された優雅な外見を持ちながらも、アンリは純朴でどこか子供のようなところがあった。田舎育ちだからといえばそれまでなのだが、はじめて会ったときに見た、あの堂々とした凛々しさは夢だったのかと時々思ってしまう。


 それはともかくとして、だ。今考えるべきはそこではなかったと、アニエスは気をとりなおすようにして話を続けた。


「国家の関係については、私にはわからないことが多すぎます。これ以上は何も申し上げません。私がアンリ様に理解していただきたいのは、娘たちのことです」


 行き場がないのだろうと、アンリはアニエスを含めた娘たちを城内へ迎えいれた。死んだコレットを手厚く葬り、自分たちには屋根と食事を用意してくれた。思ってもいない幸運だった。アニエスはそのことを深く感謝している。にしてもだ。


「一ヶ月が経ちました。娘たちにはまだ行き場がありません。私たちは働かなければならないのです、アンリ様」

「駄目だ」


 強い口調で、アンリはアニエスの言葉を止めた。


「娼婦になるのは、いけない」


 言いきったアンリに、アニエスは内心で大きくため息をついた。これまで幾度となく繰り返されたやりとりが、またはじまろうとしている。


「娼婦になるのではなく、私たちはもとから娼婦です」


 最初はアニエスだけだった。住む場所を焼かれ、戦場でぽつりと行き場をなくしていたところをある傭兵に拾われた。もう五年も前になる。


 アニエスが運が良かったのは、その傭兵がそれなりに名を挙げた傭兵団の傭兵隊長で、なおかつ話の分かる人間であったということだ。


 アニエスより一回りも年上の、無精ひげを生やしたその大男の名を、ヴィクトルといった。ヴィクトルはアニエスを使い捨てにはせず、いつも側においてくれた。お前は俺の初恋の女に少しだけ似ていると、彼は時々照れくさそうに子供のような笑みを見せた。


 同行するアニエスに、ヴィクトルは剣の扱いを教えてくれた。はじめは単なる戦の間の暇つぶしとしてだった。それが本気に変わったのは、いつからだっただろう。そのうちにヴィクトルは、アニエスの腕を褒めてくれるようになった。


 隊長であるヴィクトルが女を連れるものだから、他の傭兵たちにもそれが伝染した。ひとりふたりと気に入った娘を連れるものが増え、やがて隊に同行する娘は二十人以上に膨れあがった。


 良いところだったとアニエスは思う。娼婦といえどもみな人間扱いされていた。


 その部隊がなくなったのが、丁度一年ほど前のことだ。

 国境付近で起こった激しい戦いで、ヴィクトルをはじめとした多くの男たちが命を落とした。生き延びたものもいたにはいたが、ヴィクトル以外の人間のもとで戦う気はないと、それぞれ失意のままに故郷に帰っていった。

 そうした男たちに付いて行くことのできた娘はまだ良かった。だがアニエスをはじめ、そこには行き場をなくした多くの娘たちが取り残されていたのである。


 結局、アニエスとジョゼの二人を中心にまとまって、娘たちは体を売りながら傭兵の間を渡り歩いてきた。アニエスとて例外ではない。自分ひとりなら或いは、ヴィクトルから教えられた剣で生きていけたのかもしれない。だがアニエスは娘たちといることを選んだのだ。


 体を売ることに対して、アニエスは特別悲嘆することもなかった。そんなものにすがるにはあまりに日常的であったし、なによりそうしなければ生きていけなかった。それだけの話だ。


「……アンリ様、貴方のおっしゃりたいこともわかります。ですが、これが私たちなりの選択なのです。何も持たない娘たちが、そうするしかなかったということをどうかわかってください」

「わかっている。わかっているよ、アニエス」


 アンリはそう言うだけで、何かを考えこむようにすぐに自分の世界にいってしまう。わかっていないではないか、とアニエスは憮然とした。


 アンリに迎え入れられて一ヶ月、何もしないままこの城にこれ以上世話になるわけにはいかなかった。アンリは二十ほどの使用人、百ほどの兵隊を抱えている。城主でさえ質素な衣服を身にまとうこの城で、無駄に食い扶持(ぶち)を増やして良いはずがない。


 金の問題だけではない。今はまだ良いとして、戦がはじまったときが問題なのだ。

 城内は危ない。もしも敵が攻め込んできたとき、若い娘たちが残っていれば惨劇になるのは必至だ。話のわかる兵ばかりでないことは、アニエスは十分すぎるほど知っていた。はっきり言って、造りもそれほど堅固ではないこの城に留まるより、最初から城の外で暮らしていたほうが、ずっと安全なのだ。


「受け入れ先を探してくださっていることには感謝しています。ですがアンリ様、十人以上の娘を受け入れられるような場所など、今この土地には、いえ国全土を見渡したとしても、どこにもないでしょう。あるとしたらそれは、娼館だけなんです」


 農家、旅籠、職人の家。城下のあらゆる場所でアンリは、娘たちが働き、生きていける場所がないものかと奔走していた。だが答えはわかりきっている。戦場で拾ってきた娼婦上がりの娘など、たとえ領主の申し出でも受け入れたいと思うものか。強引なことはできないアンリの性質を良く知っているせいか、領民たちも遠慮なく申し出を断わる。


「娼婦という仕事を軽蔑するお気持ちもわかりますが……」


 思わずため息をついたアニエスに、アンリは驚いたように顔をあげ、首を振った。


「アニエス、違う。私は君たちを軽蔑しているわけじゃない。誤解しないでほしい」

「でしたら、アンリ様」

「そうするしかなかったと、君は言ったね」


 何を言われているのかが分からず、アニエスは思わず首をかしげた。


「それしか方法がなかった。そう言うくらいなのだから、君たちも進んでやりたいとは思っていないのだろう? だったら私はやらせたくない」


 アンリの言葉に、アニエスは呆れた。


「あなたは甘すぎます、アンリ様」


 自分たちを想ってくれるアンリに対して、無礼を承知でそう言った。アニエスはあえてあやまろうとは思わなかった。しかし、そう非難されてなお、アンリは首を縦に振らなかったのである。


「やはり駄目だ、アニエス」


 やれやれ、とアニエスは大きな息をついた。言うつもりはなかったが、この際仕方がない。アニエスは隠していた自分たちの理想を明かすことにした。


「アンリ様、私たちも一生娼婦の仕事をするつもりではありません。一時(いっとき)の間なのです」

「一時?」

「はい。少しずつですが、蓄えを得ています。それがまとまったものになれば、何らかの形で別の仕事をとりつけるつもりです。建物を一つ買い、皆で暮らせるように。夢のような話ですが、時間をかければいつかは現実にできるでしょう。ご存知だとは思いますが、女がそれなりの稼ぎを得るには、普通の仕事では無理なのです。ですから私たちは、貴方が思われるほど嫌々にやっているというわけではありません。全ては自分たちのため。そう思っていますから。どうかご理解を、アンリ様」


 アニエスの言葉はアンリには思いがけないものであったらしく、彼は視線を下げてしばらくの間黙り込んでいた。


 その後視線を上げたアンリは、不意に質問をアニエスに投げかけてくる。


「あとどれくらい必要なんだ?」


 どうしてそんなことを聞くのかと、アニエスは不可思議に思って小さく眉を寄せた。


「どれくらい、というよりはまだ全然です。少なくとも建物を一つ確保できるまでは……」

「そうか、わかった」


 それだけ言ってアンリはくるりと踵を返した。え、と思わず間の抜けた声を出したアニエスだけがその場に残される。


「アンリ様、お待ちください!」


 アニエスの制止の声は届かず、アンリはすぐに行動に移していた。

 その日のうちに、エストレ伯爵家が所有していたわずかばかりの美術品が、綺麗に城内から消えた。

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