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 自由に歩けるくらいに回復したのは、五日が経ってのことだ。


 アニエスはアンリに連れられて、フォルド・リダの庭園に来ていた。

 冬だというのに、庭園はたくさんの花で彩られていた。プリムラ、ビオラ。アニエスにわかる種類は、それくらいだ。名前を知らない沢山の色が、冬の空気を明るくしていた。


 アンリの姿はまるで絵画のようにその景色と馴染んでいた。

 王宮で用意されたものなのだろう、ロルガで着ていたものより、随分高級な素材で出来た衣服に身を包んでいるせいか、アンリは誰が見ても非の打ち所がないくらい立派だった。かつてアニエスが想像した通り、おとぎ話に出てくる王子そのものだ。そして彼の真の身分は、正真正銘の王子なのだ。


 フォルド・リダもアンリも、こんなにも美しい。なのに、アンリの表情だけが硬く悲壮だった。せっかく似合うのだから、笑って欲しい。アニエスはそんなことを思っていた。


「アニエス」


 おもむろに、アンリは口を開いた。


「……私は、君のお父上を斬った。君に、償いたい」


 アニエスは、ゆっくりと首を横に振った。


「どうしようもなかったということは、わかっています。それに、最後にクレマンが言っていました。とどめをさしたのは、自分だと」

「それでも――」

「いいんです」


 アニエスの心は、自分で想像していたよりもずっと穏やかだった。


「私は故郷を失ったけれど、アンリ様は私に帰る場所を作ってくれました。ジョゼや、みんなが、私を待ってくれています。だから、もう、いいんです。償いというのなら、それで十分です」

「アニエス……」

「……復讐に縛られて生きるのは、辛いことでした」


 アニエスは視線を落とした。誰といても、どこにいても、心から笑えたことはなかった。必死で生きてきて、感情は麻痺したかと思っていた。今だからわかる。ずっと、辛かったのだ。


 けれど、それももう、終わったのだ。再び顔を上げたとき、アニエスは自然と唇を綻ばせた。


「これからは、幸せに暮らしたいのです」

「……私も君に、幸せになって欲しい」

「ええ、なります。あなたが作ってくれたあの場所で。だからもう、負い目は感じないでください。貴方が貴方らしくいてくれることが、私には一番幸せなのです」


 驚いたようにアンリは、小さく目を見開いていた。

 それからややして、長いまつ毛を伏せると、僅かに声を震わせて答えた。


「ありがとう、アニエス」


 それから、アンリはゆっくりとほほえんだ。

 泣き出しそうな表情ではあったが、ようやく笑ってくれた。アンリの笑顔を見るのは、いったいいつ以来だろう。笑ってもらえると、こんなに嬉しいのか。アニエスはそんな思いを噛みしめていた。


「アニエス」


 改めて呼ばれ、アニエスは小首をかしげる。アンリの瞳の、どこまでも優しい光が、アニエスを包み込んだ。


「君が好きだ」


 アニエスは瞠目(どうもく)した。しかしすぐに、柔らかな笑顔に戻る。


「……私も好きです、アンリ様」


 次の瞬間、アニエスはもうアンリの腕のなかにいた。

 アンリは俄かには信じられないような顔をして、アニエスの瞳を覗きこむ。


「本当に?」


 不安げなその声色に、アニエスはくすりと笑った。


「本当です」


 そう答えたら、今度は息もできないくらい強く抱きしめられていた。

 アニエスを包みこむ、大地の香り。その胸に顔を埋めながら背中に手を回す。その温かさに、涙が出そうになった。


 アンリはエトアに残ることになるだろう。国王とアルトワ公は、アンリを正式に王位継承者とするつもりだと聞いている。

 アニエスは、それがどういうことになるかを理解していた。もしかしたら、これでもう二度と会えなくなるのかもしれない。でも、それでいい。アニエスにはもう十分だった。


「……私はロルガに戻ります。暮らす場所は離れてしまいますが、いつもアンリ様を想っています」


 すると、アンリはアニエスを抱きしめていた腕を解く。アニエスと目を合わせて、アンリは小さく首を振る。


「陛下のお話は、お断りした。以前からずっと、そうお伝えしている。これからも、そのつもりはないよ」

「……でも」

「私の幸せは、ロルガにある」


 そしてアンリはまた、暖かい日差しのように笑った。


「アニエス、一緒に帰ろう」


 アンリの両手がアニエスの頬を包む。あの海に似た美しい瞳には、もうアニエスしか写っていない。

 息が触れるくらい近づいて、アニエスはゆっくりと目を閉じる。心のどこかでずっと切望していた、目もくらむような夢を、思い描いていた。


 ロルガの風に吹かれて、アンリの鳶色の髪が優しく揺れる。背中の向うに広がる、金色の小麦畑。そしてどこまでも澄んだ、深い青。彼はほほえみ、私の名を呼ぶ。


 それはとても、幸せな光景だった。

(了)

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