15
自由に歩けるくらいに回復したのは、五日が経ってのことだ。
アニエスはアンリに連れられて、フォルド・リダの庭園に来ていた。
冬だというのに、庭園はたくさんの花で彩られていた。プリムラ、ビオラ。アニエスにわかる種類は、それくらいだ。名前を知らない沢山の色が、冬の空気を明るくしていた。
アンリの姿はまるで絵画のようにその景色と馴染んでいた。
王宮で用意されたものなのだろう、ロルガで着ていたものより、随分高級な素材で出来た衣服に身を包んでいるせいか、アンリは誰が見ても非の打ち所がないくらい立派だった。かつてアニエスが想像した通り、おとぎ話に出てくる王子そのものだ。そして彼の真の身分は、正真正銘の王子なのだ。
フォルド・リダもアンリも、こんなにも美しい。なのに、アンリの表情だけが硬く悲壮だった。せっかく似合うのだから、笑って欲しい。アニエスはそんなことを思っていた。
「アニエス」
おもむろに、アンリは口を開いた。
「……私は、君のお父上を斬った。君に、償いたい」
アニエスは、ゆっくりと首を横に振った。
「どうしようもなかったということは、わかっています。それに、最後にクレマンが言っていました。とどめをさしたのは、自分だと」
「それでも――」
「いいんです」
アニエスの心は、自分で想像していたよりもずっと穏やかだった。
「私は故郷を失ったけれど、アンリ様は私に帰る場所を作ってくれました。ジョゼや、みんなが、私を待ってくれています。だから、もう、いいんです。償いというのなら、それで十分です」
「アニエス……」
「……復讐に縛られて生きるのは、辛いことでした」
アニエスは視線を落とした。誰といても、どこにいても、心から笑えたことはなかった。必死で生きてきて、感情は麻痺したかと思っていた。今だからわかる。ずっと、辛かったのだ。
けれど、それももう、終わったのだ。再び顔を上げたとき、アニエスは自然と唇を綻ばせた。
「これからは、幸せに暮らしたいのです」
「……私も君に、幸せになって欲しい」
「ええ、なります。あなたが作ってくれたあの場所で。だからもう、負い目は感じないでください。貴方が貴方らしくいてくれることが、私には一番幸せなのです」
驚いたようにアンリは、小さく目を見開いていた。
それからややして、長いまつ毛を伏せると、僅かに声を震わせて答えた。
「ありがとう、アニエス」
それから、アンリはゆっくりとほほえんだ。
泣き出しそうな表情ではあったが、ようやく笑ってくれた。アンリの笑顔を見るのは、いったいいつ以来だろう。笑ってもらえると、こんなに嬉しいのか。アニエスはそんな思いを噛みしめていた。
「アニエス」
改めて呼ばれ、アニエスは小首をかしげる。アンリの瞳の、どこまでも優しい光が、アニエスを包み込んだ。
「君が好きだ」
アニエスは瞠目した。しかしすぐに、柔らかな笑顔に戻る。
「……私も好きです、アンリ様」
次の瞬間、アニエスはもうアンリの腕のなかにいた。
アンリは俄かには信じられないような顔をして、アニエスの瞳を覗きこむ。
「本当に?」
不安げなその声色に、アニエスはくすりと笑った。
「本当です」
そう答えたら、今度は息もできないくらい強く抱きしめられていた。
アニエスを包みこむ、大地の香り。その胸に顔を埋めながら背中に手を回す。その温かさに、涙が出そうになった。
アンリはエトアに残ることになるだろう。国王とアルトワ公は、アンリを正式に王位継承者とするつもりだと聞いている。
アニエスは、それがどういうことになるかを理解していた。もしかしたら、これでもう二度と会えなくなるのかもしれない。でも、それでいい。アニエスにはもう十分だった。
「……私はロルガに戻ります。暮らす場所は離れてしまいますが、いつもアンリ様を想っています」
すると、アンリはアニエスを抱きしめていた腕を解く。アニエスと目を合わせて、アンリは小さく首を振る。
「陛下のお話は、お断りした。以前からずっと、そうお伝えしている。これからも、そのつもりはないよ」
「……でも」
「私の幸せは、ロルガにある」
そしてアンリはまた、暖かい日差しのように笑った。
「アニエス、一緒に帰ろう」
アンリの両手がアニエスの頬を包む。あの海に似た美しい瞳には、もうアニエスしか写っていない。
息が触れるくらい近づいて、アニエスはゆっくりと目を閉じる。心のどこかでずっと切望していた、目もくらむような夢を、思い描いていた。
ロルガの風に吹かれて、アンリの鳶色の髪が優しく揺れる。背中の向うに広がる、金色の小麦畑。そしてどこまでも澄んだ、深い青。彼はほほえみ、私の名を呼ぶ。
それはとても、幸せな光景だった。
(了)