13
アニエスはしばらく動けなかった。
一時間程、時が過ぎた頃だろうか。突然、けたたましく扉が開かれた。
「アンリ様! アニエス殿!」
トマが駆け込んでくる。大声で叫ばれても、アンリは目覚めなかった。
アニエスはさっと涙の痕を拭いて立ち上がる。トマの顔色は蒼白であった。
「カレが逃げました」
目を見開く。背筋が冷たくなった。
しかし自分が何をするべきか、アニエスはそれを瞬時に理解していた。
「落ち着いてください」
そう言い、アニエスは姿勢を正す。
「援軍はどうなっていますか」
アニエスの凛とした声に平生を取り戻したのか、トマは唇を引き結んで強く頷いた。
「伝令兵に確認しました。予定通り、数時間の内には到着するでしょう。それを知ったのか、カレは一度撤退するようです」
「陛下は何と」
「援軍と合流するまでは、深追いをするなと」
アニエスは頷いた。
「アンリ様を頼みます」
トマははっとしてアニエスを見た。
「アニエス殿、あなたは」
「私はクレマンを討つ」
迷いのない声で言い放ったアニエスに、トマは激昂した。
「いけません! 貴方に万が一のことがあったら、アンリ様がどれほど悲しむとお思いです! 命をかけて貴方を助け出した、アンリ様のお気持ちを無駄にするおつもりですか! 前は貴方を行かせてしまいましたが、今度こそ行かせるわけにはいきません!」
しかしアニエスは、わずかに目を伏せ、自嘲的に答えた。
「……正直なところ、私はきっとまだ、過去に心を捕われているのです」
真に、アンリのためだけに戦えると言えるのなら、それはどれだけ幸せだったかわからない。だが嘆いても仕方がない。今は嘆く時でもない。アニエスは視線を上げて、まっすぐに思いを伝えた。
「だからクレマンだけは、やはり私が討たなければいけません。そうでなければ、私はこの先も、きっとアンリ様と共には生きられない。私は、私の過去と決着をつけなければならないのです」
「アニエス殿、ですが……」
「必ず戻ります。必ず生きてアンリ様の元へ戻ります。私はアンリ様とも、まだきちんと向き合っていないのですから」
動かぬ決心を、トマも最後には理解してくれた。彼も身を削る思いなのだろう、トマはこれ以上にないほど厳しく、そして悲哀に満ちた表情でアニエスに言った。
「必ずです。必ず約束してください、アニエス殿。必ず生きて戻ると」
「……ありがとう、トマ殿」
アニエスはもう一度アンリの側にひざまずく。手を伸ばし、青ざめたアンリの頬を一度だけ撫でた。
目を閉じて深呼吸をしたあと、アニエスは立ち上がる。澱みのない眼差しで、前を見すえた。
「必ず戻ります」
そう呟いてからアニエスは振り向かずに部屋を飛び出した。宮殿内を走り抜け、馬を見つけてそれに飛び乗った。
エトアの街を駆ける。サン・リダからモルティアへ抜ける道、なだらかな斜面が続いた。フォルド・リダの高台より、さらに高い場所へ。エトアから出て、大街道へ道が開けたとき、アニエスは見つけた。
二人の従者と共に馬を走らせるクレマンの姿。追っ手はかかっていないと知っているのか、馬を走らせながらも、動きは速くない。アニエスは剣を抜き、叫んだ。
「クレマン、戦え!」
驚愕して振り返ったクレマンは、アニエスの姿を確かめ、奸悪な笑みをつくってみせた。
馬の首を回して抜刀し、クレマンは従者を下がらせる。
「手を出すな。あの娘、よほど私に気があると見える。く、く。あのしつこさ、まったく頭が下がる。それに免じて、相手をしてやるとしよう」
騎乗したまま、アニエスは剣を振るう。金属がぶつかりあう、高らかな音が響き渡った。
交じり合った剣を、お互い渾身の力ではじき返す。当然クレマンの方が腕力は断然上であり、勢いを押されたアニエスは馬上でぐらりと体を後ろに傾ける。刹那、クレマンの剣がアニエス顔面狙って突き出された。目を見開いてそれをかわし、アニエスは逆に剣を水平に薙ぐ。
無理な体勢からの一撃。当然避けられると思っていた。だからアニエスは、その瞬間には次の攻撃のことを考えていたのだ。だがアニエスの予想に反し、クレマンはアニエスの一撃を肩口に食らっていた。
「……!」
アニエスにわずかな隙、クレマンの口元がひどく醜悪に歪んだのが見えた。
次の瞬間、体に鈍い衝撃を感じ、アニエスは動きをとめた。
「……っ」
視線を下げる。クレマンの剣が、鎧の継ぎ目に滑り込むようにわき腹に深く突き刺さっていた。
それが引き抜かれたとき、一瞬で体から力が抜け、アニエスは倒れた。なんとか落馬はせず、馬の頭にしがみつく。
「どうだ、死の味は? 甘美なものだろう」
クレマンの声に、答えようとアニエスは顔をそちらに向ける。起き上がろうとしたが、できなかった。
「良かったな。これでお前もようやく父のもとへゆけるぞ。ああそうだ、冥土の土産に、一つ良いことを教えてやろう。アンリはあの時、お前の父を仕損じた。あの馬鹿め、ためらいおって。手ぬるい斬り方をしてくれたおかげで、実はお前の父はまだ息があったのだ。それを仕留めてやったのは私だ。アンリは知らんがな」
高らかな笑い声が響く。アニエスの目には涙が浮かんだ。
その時だった。ひゅ、と空気を裂く音が耳に届く。もう顔すら動かせず、眼球だけを動かしてアニエスが目の前を見ると、クレマンの喉元に、一本の矢が深々と刺さっていた。
言葉を発することもなく、クレマンは落馬する。
「カレ公を落としたぞ! 首を取れ!」
背後に響く声を聞きながら、アニエスは目を閉じた。