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 ひどく懐かしい声で、名前を呼ばれた。

 まぶたを開けようとしたが駄目で、アニエスは眠ろうとする意識に逆らうのに疲れ果て、再び深い意識の底に溶けていった。

 その瞬間、強く抱きしめられた気がした。誰なのかは分からない。感じたのは血と埃、そして大地の匂いだった。


 ふと目を開く。一瞬焦点が定まらない。

 自分は何をしていたのだっただろう。まだ働き出さない頭でそんなことを思い、直後にアニエスは目を見開いた。

 飛び起き、あたりを見渡す。アニエスは首をまわして窓の外を見た。いくつもの火煙が立ち昇る。かつては美しかった街並み。王都、エトア。


「ここは、フォルド・リダ……」


 呆然と呟き、アニエスは寝台から足を下ろした。どういうことなのか、理解できない。

 見れば負傷した肩にも包帯が巻かれている。不可思議な気持ちをますます高めながら、アニエスは長靴(ブーツ)をはき、側にあった剣を腰に下げる。

 その時、扉の向こうで気配。アニエスはとっさに構える。開かれた扉からあらわれた人物にアニエスは剣を取り落としそうになった。


「……トマ殿?」

「ああ、アニエス殿。気づかれましたか」

「これは、どういう……」


 唖然とするアニエスに、トマは笑顔をつくる。だが、どこかその笑みに力がないのは何故だろう。


「あなたが、どうして? アンリ様のもとへ行ったはずでは……」

「…………」


 アニエスははっとして今一度窓辺を振り返る。空が白んでいる。そんなことすらも気づかなかった。いったいどれくらい気を失っていた?


「どうなったのです! アンリ様は無事にカドリアへ到着されたのですか! クレマンは!」


 トマは何も答えず、静かに目を伏せ、こちらへ、と言った。


「トマ殿!」


 部屋から出て行くトマをアニエスは慌てて追った。どういうことです、とアニエスは焦れたように声を上げる。

 トマはやはり何も答えないままに廊下を進み、隣室の扉を開けた。


「どうぞ」


 怪訝にトマを何度も振り返りながら、アニエスは部屋に入る。

 中央にあった寝台。そこにあるはずのないその姿を確かめ、アニエスはこれ以上ないほど目を見開いた。


「そんな……」


 よろよろと寝台に近づく。側まで行って、がくりと膝を落とした。

 震える手でその口元に手をかざす。かすかだが、温かい呼吸を感じ、アニエスは目を閉じて大きな息を漏らした。もう一度目を開き、小さな声を上げた。


「……どうして」


 震える指で、鳶色の髪の毛に触れる。


「どうして、アンリ様」


 この時間に、この場所にいるわけがない。アンリはカドリアに行き、援軍と共に戻ってくるはずだ。到着がそれほど早かった? そんなこと、ありえない。

 必死で頭をめぐらせ、アニエスは思い出す。クレマンに捕まりかけたとき、後方に味方の気配を感じた。あれは。


「アンリ様のもとへ戻り、アニエス殿のことを報告しました。すぐにアンリ様は進路を変えました。合流していた、アルトワ様の制止の声も聞かず。アンリ様は、貴方がロルガへ戻るのだと思っていたのでしょう。それが、貴方がフォルド・リダへ向かったと知り……」


 アニエスは眠るアンリのすぐ側で、祈るように顔をうつぶせた。トマの言葉が続く。


「カレと戦い、瀕死の重傷を負いながら、アンリ様は貴方を助け出したのです。カレは現在、フォルド・リダで監禁されています」


 無言のアニエスに、トマは囁くように言った。


「きっとアンリ様には、なにより貴方が大切なのですね。王家より、ヴァレンより、いえ、ご自身の命より、きっと」


 そのまま彼が側を離れていく足音がした。扉の閉まる音。後にはアンリとアニエスだけが残された。

 うつぶせたまま、アニエスはもう何を考えることもできなかった。


「……アンリ様、死なないでください」


 嗚咽するようにそう呟くと、アニエス、とかすかな声が聞こえた。

 慌てて顔を上げる。目の前では、小さな息を漏らしながら、アンリがその目をうっすらと開くところだった。


「アンリ様!」

「アニエス……」


 小さく首を動かし、こちらを見る。苦しそうな顔で、アンリはやさしくほほえんでいた。


「……良かった。君が無事で」


 その笑顔があまりに美しくて、アニエスの胸は張り裂けそうだった。喉の奥が焼けるようにひりひりとする。アニエスはうつむき、唇を噛んだ。


「夢を見たんだ」


 ふと、アンリは熱に浮かされるように、かすれる小さな声で語りはじめていた。アニエスは驚いて顔を上げる。


「あの館、君たちが名づけた金の小麦亭。あそこで、ジョゼやみんな、そして君と共に暮らしているんだ」


 アンリは目を閉じてその先を続ける。息は苦しそうで、額には脂汗も浮かんでいるのに、アンリの表情は今まで見たどのときよりも幸せそうだった。


「私は何もできないから、ジョゼに怒られてしまう。そうすると君が、苦笑いしながら教えてくれるんだ」

「……私が、なにを?」

「ジャガイモの剥き方だよ、アニエス」


 剣は扱えるのに、私は小さなナイフ一つ満足に使えないんだ。そう言ってこちらを見るアンリに、アニエスは笑った。笑ったつもりだった。だが涙で視界がぼやけ、アンリの顔がよく見えない。

 アンリは手を差し出した。震えるその手を、アニエスは両手で握り締める。


「とても幸福な夢だった。目覚めて夢だと分かってしまって、残念だった」

「……あの場所は、貴方が用意してくれました。私たちの場所でもあり、貴方の場所でもあります。アンリ様、あの場所で、私たちと共に暮らしますか?」


 アニエスの言葉に、アンリは目を閉じて頷いた。


「うん。きっと、とても幸せだろう」


 そして、そのままアンリは再び意識を失ってしまった。もとより、朦朧とした状態だったのだろう。

 アニエスの顎の下で、ぽたぽたとシーツの上に染みができていく。たまらずにアニエスは、アンリの手を握り締めたまま、シーツにうつ伏して嗚咽した。

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