10
馬と荷物。確かに用意されていた。アニエスは手早く鎧を身に付け、馬上の人になる。
出発しようと馬首をまわらせたとき、こちらに近づいてくる騎馬に気づいた。
「アニエス殿!」
「……トマ殿」
アンリの忠臣の一人である彼が、何故こんなところに。アニエスはこちらからも馬を走らせ、彼に近づいた。
「トマ殿、何故ここに」
「アニエス殿をお守りしろと、アンリ様に命を受けました」
「…………」
胸が熱くなり、アニエスは思わず視線を下げた。だがそれは一瞬で、アニエスは毅然と背筋を伸ばし、目の前を見すえる。
「状況を教えてください」
「アニエス殿……」
アンリから事件の推移くらいは聞いていたのかもしれない。トマは普段と変わらぬアニエスの様子に一度は驚いたように目を丸め、その後すぐに表情を引き締めて頷くと、答えた。
「アンリ様は二時間前にカドリアへ向かって発ちました。アルトワ公は一度フォルド・リダに。兵をつれてすぐにアンリ様の後に続かれるでしょう」
「カレの動きは」
「カレ所有の兵、そして集めた傭兵と共に進軍しています。数はおそらく五千ほど」
「到着は明日になるとアルトワ様はおっしゃっていましたが……」
「いいえ、おそらくカレは以前より兵をエトアに近い場所に集めていたのでしょう。動きは予想よりはるかに速い。おそらく、今夜にでも」
アニエスはきつく眉を寄せ、唇を噛んだ。この数日、いったい自分は何をしていた? 不抜けていた自分を殴りつけたいと思った。
「アニエス殿。すぐに発ち、アンリ様の後を追いましょう」
意気込むトマに、アニエスは静かに首を振った。
「……私に何があったかは、ご存知ですね、トマ殿」
トマは僅かに狼狽したあと、申し訳なさそうに頷いた。
「もう、アンリ様のためには戦えませんか?」
悲しみを含んだトマの問いに、アニエスはゆっくり首を横に振った。
「いいえ、そういうわけではありません。でも、私はカレと戦わなければ。フォルド・リダに行き、国王軍の一人として戦います。私のために。この国のために。そして、アンリ様のために」
「アニエス殿……」
アニエスはほほえんだ。もう迷わない。そう決めたのだ。
「トマ殿、貴方はどうかアンリ様のもとへ」
そう言ったあと、アニエスはふと尋ねた。
「……貴方は、そしてロルガの兵士たちは、アンリ様のことをご存知なのですか?」
はっきり言わずとも、何を言いたいのかはトマにも伝わったらしい。トマは真剣な眼差しをこちらに返した。
「はい。カドリアに立つ前、国王陛下じきじきにお話がありました。ですが私たちは、実を言うとうすうす感じていたのです。あの田舎のロルガに、しばしば王弟アルトワ公が足を運ばれる。だけでなく、年に一度は皇后陛下が避暑と称してロルガに行啓なさっておりました。なにより私たちは、アンリ様のもとでずっと戦ってきたのです。戦場であの方の姿を見れば、気づかないわけがありません。畏れ多く、誰も口にはできませんでしたが」
「……トマ殿、これからもアンリ様についてゆきたいと思っていますか」
アニエスがそう尋ねると、当然です、とトマは力強く頷いた。
その答えにまたほほえんで、アニエスはフォルド・リダの方向を見やり、目を細めた。
「アンリ様は、きっと良い王になられるでしょうね」
そう呟いて、想像してみた。ヴァレンの大国旗。鮮やかな青に、金色に輝く双頭の鷲。ああ、貴方の瞳に、とても良く似合う。
「アンリ様に、お伝えください。貴方の力で、どうか平和を築いてくださいと」
アニエスは手綱をしっかりと取り、直後に馬の腹を蹴った。
「アニエス殿!」
「トマ殿、感謝します。どうか、ご武運を」
駆け抜けた。エトアの街、アンリが美しいといったこの街並み。ゆっくり眺めることもできなかったが、必ず守ってみせる。ムーアは守れなかった。今度こそ、守る。