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ある男の記録  作者: 黒漆
13/15

ある電波塔の記録

 赤い月が避けた雲の合間から見下ろしていた。夜の闇が落ちてから黒く濁る濃淡の異なる空気の層が町中を占領してしまっている。


 奥に見える山々の姿は、捻り上げられたようにうねり、近場の建物ですら揺らいで見える。どうやら景観自体が歪み始めているようだ。


 風とは違った感触の何かが下半身に触れ、視線を下ろすと、脚にまとわりつく実体のない霧が絡みついていた。


 あの地下壕で、爆発の後に湧き出した黒い波、それが街に溢れ、この空気の層を生み出しているのだろうか。


 粒子の粗い霧は一つの生き物のように流れ、蠢いている。それはまるで渦を巻く水のように、身を進めるそのたびに波紋を広げる。波紋は時折人の苦悶の表情を浮かべては水紋のなかに溶けて消えた。


 私は無心で歩み続けた。恐ろしいと思いながらも、何故かどこか懐かしさを感じている、そんな自分が恐ろしかった。


 その内に私の体は変貌し、私のものではなくなってしまうのではないか、感覚が元のものからかけ離れ始めているのではないか。考えれば考えるほど、悪い状況以外思い浮かばない。それならば考えない方がましだ。


 とにかく、電波塔へ向かわなければ。街の姿はかつてのものとは変わり果て、道を聞くべき相手もいない。しかし、私は何か確信めいた予感を感じて足を気の向くまま進めている。体は痛みとは別の熱を帯び始めていた。


 このままならば簡単に辿り着ける、そう思っていたが考えが甘かった。


 霧の流れは起伏が豊かで平坦ではなかった。動かない物があればその上を乗り上げ、流れ続けているからだ。街のあちらこちらに山なりに盛り上がるその霧の下に、倒れ伏す人が潜んでいた。


 広がる霧の川が不意に波紋を起こす、すると下からそれらの人々が不意に起き上がり、血走った目で視線を迷わせる。私は静かに身を屈め、身を隠すと再び彼等は霧に沈み、動かなくなる。


 足元を注意し、少し歩いては身を隠し、音を立てないように前へと進む、その繰り返しをしなければならなかった。


 横転する救急車の姿を見て思う。なぜ外部から助けがこないのだろう、どうして皆この街の住民はあそこまでおかしくなってしまったのか、疑問の答えは得られない。けれど、ここ数日で街全体にこれまでに無い変化が訪れたのは間違いがなかった。


 嫌悪していた喧騒が今は恋しく思っている。夜の訪れと共に余分な音は消えてしまった。そう言えば、昼の間鳴り響いていたあの耳障りな音も一切聞こえない。あれ程騒ぎ立てていた数々のスピーカは静寂を保っていた。


 柱や建物、車の影、そうした身を隠せる隙間を利用して郊外へと進む。


 燃える建物や車の炎が街のあちこちに点在していて、現実が遠い場所のような錯覚を与える。本当にここが私の暮らしていた街なのか。


 動き回る人もいず、助けを求める声も聞こえない。無音で同じ動作を繰り返す人形のような住民ばかり。聞こえるのは炎の中で爆ぜる建物の音と車のクラクション、どこかで規則的な音を立てる機械音ばかり、これ程静寂を恐ろしいと思ったことはこれまでになかった。


 辺りに何者も存在しない場所に辿り着く、すると遠くで空を劈くローター音が聞こえた。空を見上げると赤い月の前にヘリの姿が見えた。影絵のように真っ黒なシルエット、厚いレンズの無効の景色のように歪むその形は紛れもないヘリの姿だ。救助が始まった、そう喜ぶのも束の間、ヘリから飛び降りる豆粒のような影の姿が見え、機影は錐揉みになりながら並び立つ建物の向こうへと姿を消した。


 長い道のりを歩いた気がする、けれど今の私は疲れを感じていなかった。あれ程痛みを感じていた体も気がつけば何事も無く動かせている。思考はのぼせた時のようにぼんやりとしていた。



 電波塔は山近くの丘に立っていた。建物の周りは金網で覆われているが今はそれが一部、倒れてしまっていた。


 煙突を思わせる中央の鉄柱を覆うように組まれた鉄骨の塔の下にコンクリートの四角い建物が鎮座していて、周りに変電施設が並び立っている。この奇怪な霧以外、今の所どこにも妙なところは無い。


 倒れた金網を踏みつて中に入ろうとしたところで霧が揺れた。


 私はすかさず身をかがめ、身を隠す。金網の隙間から覗き見ていると建物の脇からあの仮面の男が姿を現した。


 「お待ちしておりました。貴方とこうして面を合わせてお話させていただくのは始めてですね」


 慇懃無礼にそう、男は挨拶を済ませるとさも私と旧知の仲であったような態度で話を続けた。


 「私の事は後と呼んで下さい。貴方の中におわすあの方の部下、とでもいいましょうか。尤も、あなたはもう大体の事はご存知でしょう」


 私は差し向けられた手を払い、男にきつく言い放つ。


 「一体、何が起きているんです、私に何をさせたいんですか」


 男は大仰に痛がり、手をさすると子供をあやすように口調を変えて続ける。


 「説明するには随分と長い時間を要します。今はそんな事をしている場合ではないでしょう、一刻を争う時ですから、さあ、中へ」


 私は男の指し示す方向に導かれてドアを開き建物の中へと入った。建物の中には変電装置のような機械が設置されており、中央に太い柱が設置されていて、その手前の床にマンホールのような穴が開いていた。近くに蓋が立てかけられている。装置には腕を突き刺した人間が煙を上げて事切れていた。何が起きたのか、私には予想もできない。


 ドアが締まる頃には既に後と名乗る男が入ってきていた。


 「音を切ったのは私です。もう危険はありません。さあ、下へ。下に貴方が求めていた方が囚われておりますので」


 そう言われて私は穴の壁面に備え付けられた梯子を降りてゆく。求めていた人とは母のことだろうか、何を話したらよいだろうか、母は無事だろうか、或は父と同様にもう人では無くなってしまったのだろうか、などと様々な考えを巡らせながら暫く降りてゆく。


 すると下からあのスピーカで聞いた奇怪な音が流れてきた。脳の奥が痺れるような、体が軋むような奇妙な感覚が私の中を突き抜けてゆく。手を離しそうになりながらも、なんとかそれを抑え、慎重に下ってゆくと足元から広い空間が見えてきた。


 足が地に届くと同時に金属の軋み音が始まる。私ははしごから手を離し、空間に目を向けた。


 青い火花を散らせる、金属の塔が並んでいた。先端の球体から円錐状に末広がりに並ぶ、金属の薄い皿、そこに括り付けられるように焼け焦げた死体が貼り付いていた。それが火花が散るたびに中央に向け声を上げている、一つ一つが他に混じり合い、まるで合唱のような連帯感、相乗効果が生まれていた。


 「なぜここにいる、何のために、どうやってここまで」


 声に釣られてそちらに顔を向けると椅子に縛り付けられた人の姿が見えた。

頭には円筒の金属面をかぶり、体中に金属の棒が差し込まれていた。金属の棒の先にはトゲのような円錐が飛び出ていて、そこから電光が閃いている。脇腹には細かな穴が数多く穿たれていて、肩からは肉の皮が剥がれ、拡声器のように歪曲して広がっていた。肩の中心の穴、そこから男の声が漏れ出している。


 椅子の背には大勢の人間が上を見上げて佇んでいた。その視線を追い、私も部屋の中央を見上げると、中央から赤い光が差し込んでいた。私の登場に合わせたように始まったギリギリという音に合わせ、光の量が増えていっている。


 「ああ、そうか、会いに来たのか、あの女に。全く気丈な女だ。心が折れないだけに素体として役に立ってもらったが、それ以外には使いようのない女だ。そもそも最初から気に入らなかった。


 健全者でありながら、古株というだけで幹部として立っている、そこの女の事が。今や変成を始められる程に私の力は強まった。この痩せこけた肉も、落ち窪んだ顔も、誰にも蔑まれることもない、私が新しい世界を構築するのだ。


 待ち望んだ愉悦、この僅かな有用な時間を、お前のために割かねばならんとは、下らない。しかし、この記念すべき時に悲劇を鑑賞するのも悪くはない、良い余興だ。面白いことを教えてやろう。私は後と組んだのだ。奴はこの街全体に水を流していた。


 勿論ただの水ではない、特殊な水だ。ある人間の成分が含まれた水、それと私のこの音を合わせれば人間を操ることなぞ造作もない。あの方はこの音は空間に刺激を与え、道をひらくために必要なことだといったが、道などもう必要ない。


 外を見ただろう、堰を切った事で街は瘴気が満ちている。そこに水をなじませた人間と私の仕上げの音を組み合わせる、それで変成は完成する。結果は貴様が見たとおりだ。


 どうやってここまでたどり着いたかはしらんが、貴様はもう遅すぎた、帰れ、近づくんじゃない、後は、後はどこへ行ったのだ、俺を主にするんじゃあなかったのか。この光を浴びれば私は、ああ、胸が高鳴る、おお、なんだ、この高揚感は」


 その言葉の後ろから合唱が遠のき、やがて来る大きな波を予感させる。合唱が始まり、響きが建物全体を揺らした、音の波が渦を巻き、中心へと向かってゆくのが目に見えるようだ。瞬間、一切の音が消え時間が止まった。


 「ああ、これが力か」


 男がそう言い、光の中にその体が溶けたと同時に中心の男から何かがほとばしった。一瞬の爆発のように無音の中で男の体は青い光に変わり、その光は光の膜となって世界に拡散してゆく、私の体を突き抜け、建物を抜け、更に遠くへと広がりを見せてやがて消えた。


 少しして人々の体が異形に変容し始めていた。ある人は黒く硬い皮膚を思わせる皮に、ある人は額から短な突起のような角が伸び始める、けれども誰もが、それもどうでもいいように立ち尽くし続けている。


 続いて地響きがおきて奥の括りつけられた死体から崩落が始まる。意識が再び遠のき始めた。体の自由が奪われてゆく。


 「徂徠の支配が終わり、彼女の意識が戻りましたね。さあ、時間がありません、あなたの目的は彼女と話すことでしょう」


 不意に知らずのうちに傍らに立っていた後がそう言った。その指先を追うと、ほかの四躰と同じように括りつけられていた一体が枯れ切った口を動かして私に向かって何かを伝えようとしていた。体の中で衝動が弾け、意識にかかった霧が吹き飛ばされる。自然と体は動き、指摘されたものへと意識が向かう。


 私は彼女に走り寄り、その口に耳を寄せた。炭のように焼け焦げ、ウロコのように炭化した体、けれどその下にはまだ赤い肉が覗いていた、それを必死に動かし、悶えながらそれは慎重に、か細い声で私に告げた、ごめんなさい、と。


 「来てしまったのね。私達は踊らされていたのかもしれない、私たちも一緒に、逃げるべきだったのよ。私達がした事なんて、全て無意味だった、先延ばしにしただけ。世界を変えるなんて、狂人の戯言だと、思っていたのよ、あの人も私も、でも、違った、理解できない力が、本当にあったの、それを見てしまった、それは麻薬のようなもの、一度見てしまえば、先が見たくなる、けど、私達は屈しなかった、それはあなたがいたから、いい、忘れないで、心を強く持つ、それが覆す、手段になるかもしれない、逃げても無駄かもしれない、そう思わないで、希望を捨てないで、さあ」


 震えながら必死で差し出された手を、私は握った。その手は堅く、人からかけ離れた感触にもかかわらず、祖母のあの手のように暖かかった。言いたいこと、聞きたいことが沢山あるのに言葉が出なかった。


 「忘れないで」


 その一言で手のひらから先が崩れ落ちた。やがて全てが掻き消える。手のひらの中の指一本残らずに。私は膝を崩して、立っていられず泣いた。心の奥底から涙がとめどなく湧き出しているようだ。


 泣き終わり、そして立ち上がり拳を強く握る。


 あれ程心を圧迫していたあの教祖、つまり私の本当の父の存在が遠くに逃げ出したようだ。体は自分の自由に動いた。男が座らされていた椅子のもとに向かい、他の人々同様、下から穴を覗き込む、その向こうには赤く燃える月がゆらゆらと揺れていた。


 星ひとつない暗闇の中に異様な巨大さで浮かぶ赤い月が、その輪郭を歪ませてまるで心臓のように脈打っている。


 「さて、どうされますか、あと一つ、元教団本部の廃墟に全ての答えがありますが、行かれますか、それともこのままこの街から、逃げ出ますか。教団の廃墟は街の中心、これまで巡った場所の丁度中央に有ります」

 表情の伺えない仮面の男は馬鹿にするように私にそう告げる。


 「今更逃げてどうなるんです、何か変わるんですか」


 「変わらないでしょう、私はどちらでもいいのです。貴方が逃げようが逃げまいが、もう結果は決まっているのですから。望み通りここまで混沌が進んだ。後はあの方が何もかもを遂げて下さるでしょう。


 全ては覆され、望む世界がやってくる。貴方がどうしようと、なるようにはなりますから。貴方がいなくともあの方は元の体に戻せばいい、貴方は血の繋がりから操りやすいという理由だけで巻き込まれただけだ、もう役割は果たしました、好きにするといいでしょう」


 上を見上げ、再び顔を戻すと隣にはもう、男は居なかった。


 はしごを登り、建物から出る。赤い光に誘われ電波塔を振り返ると鉄骨が軋みを上げて傾き始めていた。中央の鉄柱に巨大な亀裂が現れる。


 強烈な悲鳴を上げ、倒れ込む鉄柱はこちらに向かってきていた。私は焦り走り出す、強烈な反響音に思わず振り返り、目の前の巨大な鉄の塊を避けようと手をかざすと、それは唐突にたわんだ空気の流れに飲み込まれ脇へと逸れた。私以外の者の力を感じる。これはきっと私の中の本当の父の力だ。


 何のためにあの男は私を母と話させたのだろうか、私を本部へと焚きつけるために母の場所を教えたのか、このまま赴けばあの男の思うつぼだろう、けれど逃げることが正しいとは思えない。逃げたところでいつか私は体を乗っ取られてしまうのだろう。


 私はもう一度空を見上げる、すると何かが傍らで落ちた。下をみやると仮面が落ちて私に空虚な目を向けている。仮面を踏み潰し、砕いて私は静かに決意した。必ず見届け、あわよくばこの成り行きを少しでも邪魔し、阻止してやろうと。


 手のひらを見つめていると確かな温かみがその中にまだ残されているような、そんな気がした。


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