ある貸部屋の記録
薄く幕が張った様な視界、自由が利かず、不規則に揺れる体。目前には血溜まりがあり、中心部から湧き水のように半透明の黒霧が出続けている。
思うようにならない体に押し込まれた状態で、立ちすくんでいると岩壁の影から一人の男が現れた。仮面をつけている事から、おそらく教団の人間なのだろう。
「ここまでは予定に狂いはありませんね」
「お前か、あと三つ、後三つで変わるのだな」
私の口から出た言葉に答え、男が頷いた。
「後、長かった。私が一度死んでから随分と経ってしまったが」
「必要な時間だったのです、そう思いましょう。澱みを溜め込んだ堰をやっと全て切れるのです。世界はよりあちら側に近づく。そうなればあなたも、街の人間も皆、一様に異形へと変わる、誰も蔑むものが居なくなる。もう少しです」
不意に仮面の奥の瞳が輝いて見えた。何もかもを見透かしているようなそんな目線が私に向けられる。ぬるま湯の中に浸かっているような微睡みの中で、私は何とか意識をとどめていた。
「ほう、これは面白い」
深い水底に意識が沈められてしまう、沈んでしまえば楽になれる、そんな衝動をどうにか押さえ、とどまり続けている中。男の眼光が仮面の奥に消えてゆく。
すぐに私の唇が動き出した。
「何が面白い? 確かに悲願が果たせるとなれば喜ばしくもあるが、未だ道半ば、外の状況はどうなっている?」
「あ、いや、面白いといったのはこちらの話です。貴方とはまた別の話。外の状況は芳しくありません。徂徠が何か感づいたらしく、先に変成を始めたようで」
「成程、さもありなん、だな。これだけ派手に動けば気がつかない訳がない」
「私も甘言を与え続けていたのですが。流石に誤魔化しきれない所まで来てしまったようです、もっとも、遅かれ早かれ始めていたのですから、良いでしょう」
「変成に関してはそれでいいが、私はどう動くべきだ?」
「ともあれ、一先ず貴方様は本拠に戻られては?」
「まだこの体を操りきれては居ない。変成が始まった今、外の連中は私を見てただで行かせてはくれまい」
「その点はご心配に及びません。これを」
「守護の印、か。これに随分と助けられたものだ」
「守護と言うよりは彼等と同じに見せかけるだけなのです、偽装と言うのが正しいかと。幹部の彼等は破裂寸前の風船のようなもの、針に触れれば弾け飛ぶ。貪欲に喰らい続けた者の末路とはそんなものなのです」
「冷たい奴だ、仲間だっただろう。それに、そうなるようにけしかけたのはお前じゃあないか」
「今更なんです、それに彼等も願いが果たされれば満足でしょう、例えその瞬間に立ち会えないとしても、ね。あなたもそれは知ってのことでしょう、あの日からずっと」
「二人に裏切られたのは誤算だったがな、それさえなければもっと早く事は成っていた」
「それは私の不測と致す所です。人の心とは面白い、時にどちらに傾くかわからない。私は賭けに負けました、しかし貴方はこうして力を得、再び踏み出しつつある」
意識が奥に引っ張られる。会話の続きを聞きたかった、そのために必死に貼り付いていた。しかし、意識が遠くなる。再び表に浮かび上がったときには、私の体は豪から出ていた。
体が辺を見回している。ここは、私の部屋の近所だ。見たことのある景色、慣れ親しんだ風景、そのはずが、日常からはかけ離れていた。空が薄く曇り始めていた。黒い帯状の霧が町中に流れている。
その中で腰を屈め、目を血走らせた住民たちが虚ろな表情で徘徊していた。髪が乱れ、服が破れかかり、目は血走ってまるで狂人の様相の住民達。街をゆく車の姿は無く、街中の壁や電柱に車体が突き刺さっていた。
一体、何が起きたんだろうか。電柱に備え付けられた拡声器からは金属をすり合わせた時に発せられる不協和音が延々と流され、時折それに混じり、引き伸ばされた人の声、聞き取れない言語が、耳の奥で鼓膜を揺らし続けていた。
一人の狂人が私と目を合わせる。途端に眼球が左右に触れ始め、四つん這いで駆けてくるが、私の目の前で止まり、動作を止めてしまった。
「全く、面倒なことになったものだ。これでは実に動きにくい」
そう言って私の体は私の部屋の下の階、丁度真下の部屋へと入ってゆく。部屋を開けた瞬間。広い空間が待っていた。
外観からはいくつも部屋が用意されているように見えたが、どうやらそれは違っていたらしい。くもりガラスとドアの向こうは壁がぶち抜かれ、全ての部屋が繋がっていた。そして壁際に幾人も、仮面を着け、座禅を組んでいる。
目の前には祭壇があり、奥に仮面をつけた阿修羅像が控えている。台座上に干からびた死体が横たわっていた。それを囲むようにして四人が顔の前に手を組み、祈るように片膝を付いている。
血涙を流す少女、血の気が感じられない白面の青年、枯れ木のような肌、鬼のような形相の異形、獣面で毛むくじゃらの男。その誰もが見覚えのある者だった。
井戸の前に居た少女、卵封じの青年、森で見た異形、飲食店の店主。目に力はなく、体は硬直し、全く動かない。既に事切れている風に見える。そして中心の干からびた遺体の顔、それが私の顔にそっくりだった。
私の体は祭壇に近づき、遺体の顔に触れた。すると遺体の目が開き、私の体から力が抜けた。同時に私の意識は体の奥へと吸い込まれてゆく。
意識が戻る、やはり、そこは自分の部屋の中だった。机の上には手紙が置かれている。いつもの手紙だ。私は気持ちが整理できずにいた。どうしても確認しなければならない、この階下を確認しなければ、あれが夢でなかったと確かめなければ。逸る気持ちを抑え、手紙を手に取り、その文に目を通す。
君もこの部屋を紹介される際、嫌な思いをしただろう、許してやってくれ。この部屋の下の階は祭壇となっている。下は教団の聖地とされる場所なのだ。だからこそ賃貸住宅を紹介していたあの者達は、指示されながらもそれを拒んでいた。
犠牲となった者達を祀るための施設。社会的には忌避されるような場を大々的には作れない、だからこその偽装だ。見た目は通常の賃貸住居と変わらない。結果的にそれが役に立った。
位の高い教律師と同等になるために、信仰心の厚い者たちは自らの命を差し出して教律を深めた。断食の末の死はより強大な力をその場に篭らせる。
皮肉だと思わないか、元は我々を散々蔑み、死んでしまえばいいと罵っていた者達が我々を崇め、その命まで差し出す。
さて、ここまでの君の行動は実に素晴らしいものだった。初めに感謝の意を伝えよう、ありがとう。今更偽る必要はない。今こそ告げよう、この手紙を書いたのは君自身だ。こんな事を言われても混乱するだろうが、君は自分の正気を疑う必要はない。君は気が狂ってなどいない。
君の意志で手紙を書いたのではなく、書いたのは君の体のみだからだ。私は君がこの部屋に導かれてひと月の間、ゆっくりと君の体に私の魂を馴染ませていた。二週間ほどで君が寝ている間、少しだけ体を拝借出来るようになり、動かせる時間を徐々に増やしていった。気がついているだろう、各地で君は記憶があやふやになっているはずだ。君が私の思う場所に進んでくれた御陰で、随分と手間が省けた。
最初の手紙以外のもの、後に君が、自身で読むことになるであろう手紙は全てその際に書いた。君は意思が強い人間だ、だからこそ、私は君が気を失ったり、寝ている時以外、君の体を自由にすることができなかった。そして、この乗っ取りが誰にでも効くわけではない、大まかな事はさておき、君ももう分かっていると思う。
私は君の本当の父親だ、君が父親と母親だと思っている人物は代理の役割を果たすための人間だった。
君は生まれながらにして栄誉を受ける筈の人間だった。世界の作り替え、変成を行う大役を、君は授かるはずだった。だが、全てがあの二人の手によって狂わされてしまったんだ。私は計画の主だった人間もろとも殺されてしまった。
だが、それで終わりではなかった。私の仲間は私が死んでも計画を進めていた。私を復活させ、変成を行い、涅槃業をなすそのために。彼らのために、犠牲となった多くの人間のために私は事を成さなければならない。だからこそ、君の協力が必要だった。
騙していたわけではない。君も両親だと思っていた人物にたどり着いただろう。それに、そのもう一人にも話す機会を私は与えてやるつもりだ。次は電波塔に向かうといい、そこに君の便宜上の母親が囚われているはずだ。詳しくは私からは語らない。君が彼女から経緯を聞く機会を失わせるような野暮はしないつもりだ。
君は巨大なうねりの中に巻き込まれている。しかし、この先、道を間違えなければ中心にたどり着けるはずだ。それには私の助けが必要だろう。頼む、私の助けを拒まないでくれ。その先にある未来は決して悲惨なものでは無い。だからこそ、信じて欲しい。
終は近い、間も無く私の宿願が果たされるだろう。さあ、進むべき道を誤らず、私の指示に従って欲しい。
頭が割れそうだった。何を信じろというのか、何もかもが計画されていたことだったのだろうか、私がこの街に呼ばれ、父や母を探すことも、祖父母に預けられたことも。
その何もかもが、そんな事が有りうるだろうか、いったい私は何ものなんだろうか、普通の人間ではないのか。確かに通常の人間よりは肌の色が薄く、血管が透けて見えることがあるかもしれない、しかしそこまで顕著ではなかったはずだ。
それとも、私の父とされるあの、教祖のようにこれから違いが顕著に現れ始めるのだろうか、そもそも私は異形と呼ばれる人たちに、昔からあまり嫌悪感を抱かなかった。それが普通だと思っていた。
異常だと知ったのはそうした人達が仲間と共にいる時、目に触れた瞬間、彼等が顔をしかめたり、避けようとするのを目の当たりにしてからだった。しかし、彼等も面と向かって悪いようには言わない。
だから、生まれつき私は彼らのような人達の人権を単純に尊重できる人間なのだと思っていた、しかし、ここにきてそれは違うのかもしれないと思い始めていた。ある種の愛着のような感情が、奥底にあるのではないか、そんなふうに。
自我が崩落を始めそうだった。頭の先からつま先までが、徐々に変化を始めてしまいそうで、おののいていた。不意に私は立ち上がると部屋のドアを開け、わき目も振らずに下の階へと駆けた。
真下の扉を蹴倒す勢いで押すと、簡単にドアが外れた。頭の中で見た、あのままの風景が部屋の中で広がっていた。坐禅を組んでいた一人が崩れ落ちる、すると仮面が外れ顔が覗いた。それは燻された枯れ木のように変わり果てた亡骸だった。
同時に周りの人物たちの全ての仮面が外れる。やはりどれもこれもが落くぼみ、固く口を閉じた黒々とした亡骸だ。
祭壇を囲む四人の体が色の抜けた白に変わり果てていた。その石膏のような体に細かい網目の罅が入り、砂のように崩れ落ち、舞い上がった破片が空気へと溶ける。白い煙が完全に消えると祭壇が姿を現した。
目を向けると祭壇にあったはずの教祖の亡骸は消えていた。
阿修羅像の仮面が音をたてて落ちる。
下から覗いたのは赤く滾る六つの目だった。
見たことのある顔、それは水品、廻、八木と呼ばれていた幹部たちの顔だった。
途端、跳躍したそれが天井に張り付いた。六本の腕、二本の足が器用に動き、重力を無視して天井で逆向きに立ち上がる。其々の頭が首を傾け、顔を巡らせて私の姿を捉えた。
「この地は御柱とされる者達の侵されざる地」
「犠牲を惜しなまい者達の聖地に何故にこの地に足を踏み込んだ」
「我らに飲み込まれたいのか、我らの供物となるか」
私が竦んでいると、独りでに口が動く。
「わからないのか、私はもうこちらに居るというのに。嘆かわしい、しかしこれで、最早お前達の役も果たされた。少し早いが、お前達にも先に行ってもらう必要がある。褒美として暇をやろう、もう休め」
そうして札が一枚、手から飛び立つ、それを受けるために六本の手が胸の前で交差する。しかし、札はそれをものともせず弾くと、目の前の異形の胸を貫いた。
「何故、あなた様は移動されたのでは。待ってください、我をあちらに送らないでください。あの闇に戻りたくはない、お願いです、私だけでもお傍に」
「我らは宿願の時まで共にいるはずなのでは、こんなはずでは、消えたくはない、消えたくは、我らにはまだやれることが有るはずだ」
「成程、やはり一度死んだ身、願いが叶うならばここで、消えるのも悪くはない、一足先に参ります」
口々に三つの首が別々に言葉を発し、断末魔の雄叫びをあげ、やがて罅割れ、体が三つに裂けて崩れた。天井から落ち、その体が砕けて散り散りになる。そのうちのひと欠片、転げ落ちた首が私の目の前まで進み、視線が合うと何か言いたげな表情のまま固まり、他と同様に掻き消えた。
「いいか、今更他の場所へ向かおうとしようと最早無駄なのだ、今の者達の力で私の力はより強まった。忘れるな、この体は最早お前だけのものではない。札ももう持ち合わせていない、守るものはないのだ、無理はするな部屋は安全だ。夜を待て、今はこの場に留まるべきだ。それと今後は水を口にするな。水道水は止めておいたほうがいい」
動くままにしておいた口が唐突に動かなくなる。夢であって欲しい、この街でおきたことの全てが夢であって、そう思うも、体を伝う痺れ、そして痛みが、何もかも現実だと告げていた。
奇矯な声に驚かされ、私が振り向くと、音を聞きつけてやってきた狂人の群れを目の当たりにした。服が破け、傷つき血にまみれた体、折れて正常に動かない手足をものともせず動き回り、辺りの壁や鉄柱に体を打つけている。
こんな状況ではとてもではないが無理だと部屋から出ることを諦めた。斜めに指す日差しが彼等の影を絡み合わせ、別の生き物のように見せていた。
世界は変わり始めていた、変わり始めさせたのは私だった。もう、父や母のことなど問題ではなかった。どうにかして戻さないと、誰もこんなことを望んではいなかった。なぜこんなことになってしまったのか。
暫くして日が落ちると、街に響いていた音が消え、彼等は暗闇の中に溶けるようにして去っていった。足が震えたままで私は部屋から飛び出す。
なぜか電波塔の位置は頭の中にすでに記憶されていた。後悔しようとも、やり直そうとしようとも、どう転んでも最早、私には彼等の望む以外の道は残されていないのだ。
祖父母と共に過ごしたあの生活が懐かしかった。なぜ彼らの言うことを聞かなかったのか、彼等はこんなことに加担していなかったはずだ。自分たちに血の繋がりが無いと知っていたはずなのに、私にあんなによくしてくれた祖父母。なぜ彼等の遺思を守らなかったのか。
そう考えながらも、闇をかきわけて私の足は既に電波塔へと向いていた。私の代理母だった、あの人なら何かこの状況を覆す何かを教えてくれるかもしれない、あの穏やかな日々に戻る方法を知らせてくれるはずだ、そんな望みに縋りながら。