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縁側とベンチ

作者: しゅうと

 湖に一番近い公園。ここが道也にとってのランニングコースであり、目的地でもあった。

 傍らに見えるテニスコートを抜ける。置いてけぼりをされたかのようにテニスボールが転がっていたが、かまわず道也は走った。群青色の湖はこの町のシンボルであり、街を支える観光スポットである。日曜日ともなると、街の外の人間が湖畔に雑多する。この公園も観光地としての使命を全うし、安息の場というより見世物としての需要が大きくなっていた。

 街の音を遮断するかのように道也はランニング中、音楽を聴く。Feederの「Just a day」。走るときはこの曲と決めていた。アドレナリンが上がるであるとか、「Just a day」が特別好きというわけではない。

 道也にとってそれは願掛けであった。

 ランニングも同じ願掛けだ。走りながら「Just a day」を聴いて、湖に一番近い公園を目指す。そうすればトモダチに会えると道也は思っていた。湖に一番近い公園の中でも湖に一番近いベンチにトモダチはいつも座っていた。

 トモダチを見つけると道也は安堵した。歩幅を狭めて、ベンチに座るトモダチの隣に道也は腰を落とし、イヤホンをポケットにしまう。互に顔を見合わせることなく、目の前に広がる湖に向かって道也はあいさつした。

「金さん銀さん、こんにちは」

 風を裂く音が聞こえる。やがて、ぽとん、という音と共に漣が立ち、波紋を目で追うと、視線の先には祖父と孫くらい歳の離れた二人の大人と子どもがいた。

 二人は仲睦まじく釣りを愉しんでいた。

 

 *

 

 道也はお婆ちゃん子であった。夫婦共働きであった両親が日中に家にいることは稀であった。日中の大まかな時間を祖母と過ごしていた。祖母とコマを回し、カルタを叩き、紙ヒコーキを飛ばしていた。周りで流行っていたデジタルな遊びを一切しなかった道也であったが、特別新しいおもちゃを買ってほしいとせびったことはない。それだけ祖母と過ごしてきた日々は道也にとって発見の連続で退屈することがなかったのだ。

 道也が当時通っていた保育園の送迎も祖母が担っていた。ママと一緒に帰ります、とあいさつして帰宅していく園児が多い中、ばあちゃんと一緒に帰ります、と胸を張って帰途についていた。園児の中でも小さいほうだった道也だが、帰り際ばかりは身長が少し伸びた気がしていた。

 

 道也が祖母を好きになる発端は絵本であった。道也の持っている絵本に出てくる魔法使いは総じてお婆さんだった。魔法で火を起こして料理を作り、空を飛ぶことさえ容易い。道也にとってそれは老いた英雄であった。


 ――ぼくのばあちゃんもゼッタイにマホウつかえるんだ。

 

 祖母は道也に内緒にしているけれど、道也の知らないところで魔法を駆使しているはずだ。それは、みんなに言っちゃいけないことなんだ。

 道也は自身で勝手に作り上げていた祖母の秘密のチカラというものをいつか見てみたいと瞳を輝かせて、時には観察さえして祖母と生活を共にしていた。

 

 近所付き合いの少ない祖母ではあったが、数少ない友達の中で、ひと際仲の良い友達がいた。金さん銀さんだ。

 金さん銀さんは何の前触れもなく、ふらっとうちに立ち寄る。おぉ、よくきたねえ、と祖母は破顔して、日当たりの良い縁側に金さん銀さんを招いていた。

 金さん銀さんが訪れると、道也は誰もいない居間に逃げていた。金さん銀さんは祖母以上に魔法使いらしい風貌をしていた。

 祖母は正義の魔法使いに相応しい優しい目をしていたが、金さん銀さんは悪者の魔法使い特有のきつい目をしていた。正義と悪の集まるその空間は独特の空気を醸し出していた。

 道也はいよいよもって祖母たちが魔法合戦をするにちがいない、と幼児らしい不確かな確信を抱いていた。

 

 ――リビングで絵を描くふりをして魔法を使うところを覗き見てやろう。


 金さん銀さんが来訪するたび、道也は廊下を挟んで家の奥にある和室に聞き耳を立てていた。しかし、障子をあける勇気がなかった。今にしてみればなにもおぞましい光景が広がっているわけではないと断言できるのだけれど、当時の道也は生活のすべてに空想性を見出していた。

 障子の向こうからは祖母の笑い声が聞こえた。金さん銀さんの話に笑っていたのではなく、自分の話に自分で相槌を打ち、金さん銀さんに漫談を聞かせているかのように、ひたすらに話しては笑っていた。

 たまに聴こえるパチン、という打音に道也は何かチカラを使ったのではないか、と狼狽していたがなんてことはない。

 自分の弾みきった感情を手で叩いて表すことが祖母の癖であった。

 

 思えば、よく笑う祖母であった。笑う毎に手を叩き、日に日に顔の皺を増やしていく祖母であった。

「あんたら毎日疲れたような顔して。90歳になる私に負けてどうするの。ほら、鯖は体に良いから――」

 道也の両親は疲弊していた。町工場の重労働の対価はあまりに釣り合わなく、そんな不公平さが精神的健康も削り取っていた。疲れが早く回復するようにと祖母は鯖を甘く煮付けて、もりもり食べなさいと笑いかけた。

「母さん、これじゃ甘すぎておかずにならないよ。おやつみたいじゃないか」

 文句を言いつつも道也の父は断続的に鯖に箸を運んでいた。母は苦笑いを浮かべていた。道也は鯖の骨を取るのに苦戦していた。

 祖母はまたひとつ、大きくパチンと手を叩く。


 秋風が徐々に冬の冷たい空気を運び、街は鮮やかさを失っていく。寒さが厳しくなろうとも祖母は縁側に座った。

「なあ、金さん銀さん。私はもう長くないんだとさ」

 相も変わらず、道也は聞き耳を立てていた。

 長くない――。子どもの道也はその言葉に含まれている果てしなく澱んだ意味を理解していなかった。しかし、道也はなんとなく良い意味のものではないだろうと勘ぐっていた。障子の向こうでは洟をすする音が聞こえる。寒さのためなのか、感極まったためかはわからない。ただ、今までに勝ってこの障子は開けてはならないと道也は感じた。小さく柔和な拳を力強く握り、障子に映る祖母の影を見つめる。

 金さん銀さんが掠れた声でないた。

 祖母は小さくパチンと手を叩く。


 春を待たずして祖母は亡くなった。


*


 膝を屈めてウキを凝視していた子どもは、待てどもかからない弛んだ釣糸に退屈し、目の前に転がる小石を手に取った。怒りをぶつけるかのように手に取った小石を湖に放る。――ぽとん。

 孫と思われる子どもにも我関せずと、お爺さんは落ち着き払って竿を握っていた。

 道也は気ままに時間を消費する二人を見るともなく見ながら思いを馳せていた。

 祖母が別の世界へ旅立ったと同時に金さん銀さんも家に訪れなくなり、道也の家の活気もどこか遠くへ行ってしまった。食卓に流れる笑い声は生新なものではなく、ブラウン管のテレビの向こう側から聞こえる作り物めいたものであった。一種の作業を消化するかのように道也の日常は刹那的に過ぎ、小学校からの記憶は手にとってもぱらぱらと指の間から零れる砂そのものであった。

 道也は中高一貫教育の私立校に入学し、大学にも難なくエスカレーター式に進学した。不満などなかった。少ない所得から家計をやりくりし、子どもの未来に投資する両親に感謝していた。親としても将来、道也に苦労してほしくなかったのであろう。もちろん、十分に伝わっていた。

 日が暮れても暖まる気配のなかったリビングが何よりも雄弁であった。

「俺やっぱり、きちんと大学に通った方がいいですよね」

 尚も、道也は金さん銀さんを垣間見ず、湖に向かって話す。

 成人を迎えた自分に今更になって反抗期が来ただなんて子供じみた感情ではない――。そう自分に言い聞かせてみても、溜飲は下がらなかった。

 大学へ行かないようになった今年の春。両親は何一つ口を挟まなかった。帰宅する道也が手にしているのは毎晩、財布だけ。目が合っても返ってくる応えはいつも通りの、おかえりだった。

「親父もおふくろも気づいてるんです。でも、何も言わなくて……」

 行く当てもなく街をぶらぶら歩いた。自分の生まれたこの街で見落としていたまばゆい光、あるいは底知れぬ闇を探していたのかもしれない。

 にゃあ――。

 道也の隣で腑抜けた声が返事をする。今日は機嫌がいいのかもしれない。

 

 祖母の友達であった猫、金さん銀さんと出会いもしくは再会したのは文字通り路頭に迷ったある日だった。傍目には意識していたけれど、積極的に入ろうとしたことがなかった公園に金さん銀さんはいた。いつの間にか自宅からは遠い湖畔の公園に来ていた道也は、途方もなく歩いたんだなと呆れにも似た驚きをみせたが、これを機会にと公園を散策した。

 公園の奥まで来た道也はベンチに座った。あたり前のように存在していた湖をまじまじと見ると、普段見ているモノとは別のモノのように思えた。近くのチェーン店で買ったドーナツを食ようと袋から出すと、白い猫がどこか重たげな歩みで近寄り、道也に倣い座った。

 しばらくしても鎮座している猫に懐かしさを覚えた。幼い頃、うちに入り浸っていたあの猫も白い猫であったな、と。

「これ、いかがですか? おいしいですよ」

 手にしていたドーナツを千切って猫に向ける。こちらを仰ぎ見た猫と目が合った。イヤホンから流れる音楽に紛れて、極めて聡明で照度の高い声が道也には聞こえた気がした。

「こんな所にいらしたんですね」

 左右の異なる虹彩色が道也を惹きつける。その瞳に見つめられると非科学的な渦に巻き込まれそうになる、あの時の感覚が不意に思い出された。

 金さん銀さんはオッドアイだった。

 左目が黄色、右目が青色の綺麗な瞳をしていた。道也は祖母に、なんで一匹しかいないのに金さん銀さんて呼ぶのと尋ねたことがある。日本じゃ左右違った色の目を持つ猫を「金目銀目」と言うのよ、と祖母は教えてくれた。

 そこから、お名前をお借りしたの、素敵でしょ――。

 幼い頃に見た金さん銀さんの双眸は道也を怯えさせた。魔女に遣える猫のそれを思わせた。金さん銀さんが来るたびに居間に逃げていたのも、その不気味さが原因の大半を占めていたのだと今では思う。

 祖母の唯一の友達であり、近寄りがたい友達だった――接したくとも障子一枚向こうに道也は踏み込むことが出来なかった。

 祖母が他界してからは二度と逢うことはないだろうと思っていた金さん銀さんにまた逢えた。

 道也はイヤホンをそっと外し、風にのった甘い微かな香りを意識した。

 

 それからの日々といえばこの公園に来るためだけに生きていた。正午過ぎに着くように家を出て、軽く走る。公園手前のチェーン店でドーナツを買う。イヤホンから流れる音楽は「Just a day」。魔法のクスリを調合する魔女さながらに、寸分の狂いもなく金さん銀さんに逢った日と同じ行動をとった。それこそが魔法使いの使者を光臨させるクスリであると盲信していた。

「ばあちゃんなら今の俺を見て、なんて言いますかね」

 こたえは返ってこない。それでも道也を安心させたのは、色合いの強い過去を知る者へのノスタルジーな感情なのかもしれない。道也は祖母のようにひたすらに話しかけた。

 この土地の秋の気候を知らない薄着をした若者のグループが目の前を通り、白い目で道也を見る。かまわず道也は続けた。

「何をしたら良いかわからないんです。漠然と、このままではダメだというのはあるんですけど」

 また、風を裂く音が聞こえる。道也は自分の言葉を咀嚼した。何度同じ言葉を金さん銀さんに投げかけただろう。もはや、答えなど出ているのだと数日前から気づいていたではないか。

 道也が今、必要としているのは的確な助言ではなく、あの頃と同じ――障子に映る影の実態を確かめるべく踏み出す一歩なのだ。

「俺、そろそろ行きますね」

 金さん銀さんは凛として湖を見つめていた。

 平均的な猫の寿命は10年から15年と言われている。道也が保育園に通っていたころには金さん銀さんはすでに成熟していた。今、道也の隣にいるこのトモダチは本当の意味での金さん銀さんではないのかもしれない。祖母が死んだ後に産んだ金さん銀さんの子供かもしれないし、全く関係のない野良猫かもしれない。

 真実がどうであれ、道也はこのつれづれなる瞬間が生まれたことに感謝していた。

 また迷ったらここに来ればいい。ドーナツを持って。「Just a day」を聴いて。

 今度は全速力で走ろう。

 道也は大きくパチン、と手を叩く。

 

 いつもとは反対方向の道を辿って道也は帰途についた。

 

 〈 完 〉



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