第二話 学問の日々から――4
そして、最後の夜は更け、出発の朝がやってきた。
「あああ、晴香様としばらく会えないんですね、寂しいですぅ!」
「大丈夫だよ、ルナ。首飾りを取り返したら戻ってくるんだから」
当日の朝になって寂しさのあまり泣きつく侍女を、晴香は複雑な心境で慰めた。彼女は晴香より年上なのだから、余計に。
「し、死なないでくださいね?」
「いきなり縁起でもないこといわないでよ。怖いなぁ」
うるんだ目で見上げてくるルナに対し、さすがに晴香も苦々しさを隠しきれなかった。
苦情を述べながら鞄を肩にかけた彼女は、ふと学習室の時計を見上げる。そしてぎょっとした。時計の針が現在示しているのは、五時四十五分。
「いっけない! そろそろ出発の時間だよ。ノエル君が待ってる」
叫んだ晴香は、侍女と共に学習室を飛び出し、弾丸のごとく廊下をかけぬけていった。
ちなみに、なぜこんな朝早くに出発することを選んだかというと、住民に見つからないためである。
『夜空の首飾り』の件は公にはされていない。ゆえに、それを取り返すための旅も秘密裏のものだ。あまり広く知れ渡って国民の不安と不信感をあおるようなことだけは、避けなければならないのだった。
城の入口まで来てみると、そこにはやはりノエルの姿があった。晴香とルナの姿を見つけると、おもむろにお辞儀してから近づいてきた。
「晴香さん、おはようございます。準備は整いましたか?」
「うん、もうばっちりだよ!」
晴香は、肩掛け鞄のひもを少し持ち上げて、それに答えてみせた。その様子に何を感じ取ったのか、ノエルは穏やかに微笑む。それから、いつかのように手を差し伸べてきた。
「それでは、行きましょうか」
「あのとき」とは違う不思議な感覚を覚えながら、晴香はそっと、その手を取って、にぎった。
そして、二人で静かに歩きだす。ルナがその後についてきた。
見送りが華やかでないことは予想していたしそれでもいいと思っていたが、晴香が城門あたりに来てみれば、その予想より人は多かった。この、長いようで短い王城通いの間に彼女が関わった人たちの大半が来ているわけだが、まさかこんなに多くの人といつの間にか関係を築いていたとは本人も思っていない。
城門へ続く廊下にずらりと整列するそれらの人を見てじゃっかんしり込みした晴香だったが、ちらりとノエルの方を見ると、意を決したように歩きだす。
「晴香さまもノエル様も、お気をつけて!」
背後から飛んできたルナの声に、晴香は苦笑した。彼女の明るい声を聞くと、どういうわけかほっとする。それだけで、この旅に希望が持てるような気さえした。
整列する人々の間を抜けるように二人が歩く間、様々な言葉が飛び交った。
「行ってらっしゃいませ!」
「どうかご無事で」
――などという比較的無難な声がけもあれば、
「ちゃんと食えよー」
「危ないと思ったら逃げてきたっていいからね」
「一回り大きくなっていることを期待する!」
などとというまるで友人や母親のような声もあった。
できるだけそれらひとつひとつに返事をしながら城の入口まで辿り着いた二人。そこから見える空は東の方がようやく明るくなり始め、徐々に赤と青のグラデーションが表れてきていた。そんな場所で、最後に彼らを待っていたのは――
「陛下!」
二人して飛びつくように名を呼ぶと、アルバートは鷹揚に手を上げた。驚いたような嬉しいようなちょっと怒っているような、それらの感情が複雑に入り乱れた彼らの顔を見るなり、国王は苦笑する。
「危険な任務をやらせることになってしまってすまないな、二人とも。だが、これは国にとって非常に重要なことだ。励んできてほしい」
言葉に聞きいる晴香たちに対し、アルバートは淡々と述べた後、「ただ」と付け加えてニカッと笑った。
「おまえたちはまだ若い。その若い力を失うのは惜しいから、まあ、とりあえずは自分の命を第一に考えなさい」
まるで、祖父が息子や孫に投げかける言葉のようだった。きょとんとして顔を見合わせた晴香とノエルだったが、その次の瞬間には元気よく答えていた。
「はい、行ってまいります!」
こうして城を去り、晴香たちはそっと寒風吹き抜ける街の中を歩いていた。できれば住民たちの活動が始まる前に抜けてしまいたいと思っていたため、心もち早足である。
そんな中で周囲を気にする余裕などなかった晴香だが、隣から聞こえてきた声には、さすがに耳をかたむけた。
「……? あの、彼は晴香さんのお知り合いですか?」
「はい?」
急にそんなことを言われ戸惑った晴香は、思わず足を止めてノエルの視線を追う。そして、驚きのあまり名を叫んでしまった。
「……ライル!?」
覚えのある家。その二階の窓からのぞいていたのは、間違いなくライルだった。晴香たちの方をじっと見据えながら、何か文字の書かれた板のような物を掲げている。
なんて書いてあるんでしょう、と呟いたノエルとは対照的に、晴香はじっとその文字を見ていた。見えていたのだ。
――『まあ、掃除でもしながら待ってるさ』という、どこかおどけた雰囲気のあるメッセージが。
ふっと笑った晴香は、ノエルに「行こう」と声をかける。それから「よろしく」という意味で手を上げながら、再び進み始めた。本当は叫びたいところをぐっとこらえる。
どうやらライルにもその気持ちは伝わったようで、彼は晴香を見て満足げに微笑むと、そのまま家の中に戻っていった。
気付けば、石畳は茶色と緑の大地に変じていた。はっとして足を止め、街の方を振り返った晴香は思わず声を上げる。
「うわあ、もうクリスタがあんなに小さい!」
思い返せば街の外に出ることが少なかった彼女にとって、これはとても新鮮な体験だった。自分は今、薄青い空の下、豊かな大地の上にいて、自分がついさっきまでいた街は信じられないくらい小さく見える。
これが旅というものなのか、と感激した。
一方、同じように足を止めたノエルは、あくまで冷静に感想を述べる。
「うん。やっぱりこういう王都は絵になりますね」
「慣れてるんだ」
「はい。何度かこの光景は見ているもので」
『預言者』といえど必要なところ以外では文官見習い。先輩の付き添いで外出することも多かったという。そんな彼の身の上話に楽しく耳をかたむけた晴香はふと思い出して、もっとも重要なことを訊いた。
「そういえば、これからどうするの?」
ノエルもそれを言うのを忘れていました、と言ってから、こう続けた。
「とりあえずは陛下の助言に従おうかと」
陛下の助言。最初はピンとこなかった晴香も、王城訪問初日のやり取りを思い出してひらめいた。
「つまり……」
「はい。ラッセルと合流するため、まずはフィロスに向かいます」
話しているノエルがあまり嬉しそうではないため、堂々と喜べなかった晴香だが、胸の内では「良かった」と思っていた。いつ自分の力が目覚めるともしれないこの状況で、絶対的な戦力となる存在がいないというのは不安だったのだ。
聞けばそのラッセルという人は王に仕える宮廷魔導師らしいし、ひょっとしたら首飾りについても詳しいことを知っているかもしれない。
「彼は魔導師の名家ベイカー家の者ですが、『魔法より性に合ってる』と言って武術もたしなんでいる人なので、それなりの戦力となってくれるでしょうね。活発でもあるので、わりと接しやすいかもしれませんし」
言っている内容だけ見ればとても素晴らしい人のように思えるが、淡々と語るノエルの表情はやはり晴れない。そのことに晴香が疑問を抱くのは、時間の問題であった。
そしてついに、彼女は口にする。
「あのー、良い人そうなんだけど、どうしてノエル君は嫌そうにしてるの?」
一瞬だけ周囲の空気が凍りついた。ピシリ、と音を立てそうだった。思わず怯んだ晴香だったが、ノエルがやってしまったというようなため息をつくので慌ててそちらを見る。
「すみません……。ほとんど僕の個人的な感情なんですが……確かに、彼は悪い人ではありませんよ。しかし、事あるごとに僕をからかってくるのと、女性に目がないというのがちょっと」
「ああー」
そこまで聞いて晴香は平板な声を出しながら、引きつった笑みを浮かべた。今までの言葉だけでラッセルとかいう魔導師がどういう人物なのか想像できてしまう。そして、ノエルが彼を同行させることをためらっている理由も。
だからこそ、言っておいた。
「大丈夫。不埒なことされたら容赦なくひっぱたくから」
ノエルは晴香の言葉に、見ている方が思わず笑ってしまいそうになるほど驚いていたが、やがては彼の方が声を上げて笑った。
「ははっ。そうですね、それが良いです」
彼がこんなふうに笑ったところを初めて見た晴香は、知らないうちに頬を赤く染めていた。
とりあえずこの日は近隣の町で一泊すると決めて、晴香とノエルは足取り軽く歩き始めた。
冬と春を混ぜ合わせたかのような空気をめいっぱい吸うと、不思議と気分が晴れ渡るような気がして気持ちいい。そんなふうに爽やかな風と大自然を感じながら歩を進めて行けば、目的の町に着くまでに、大した時間は要さなかったように感じた。
だが、着いてみて驚く。
「おや、もうお昼ですか」
町の入口に立ったノエルの声を聞いた晴香は自然と空を仰ぐ。すると確かに、もうだいぶ日が高くなっていた。
「ときどき休憩を挟みながら進んでいたとはいえ、こんなに時間がかかるものなんだね」
見上げたままの姿勢でそんなことを言った晴香は、直後町の中に視線を戻す。
すぐ隣にある看板によると『ローザ』という名前らしいこの町は、小さいながらも活気に満ちていた。さらに見渡してみると、観光客らしき人の数がかなり多く、彼らのための店や施設も多いようである。
「……観光名所なの?」
晴香がノエルを見ながら問うと、彼はうなずいて語ってくれた。
「街並みが美しいことで有名なんです。その点でいえば、フィロスもかなりのものですが。あと、良質なバラの産地だそうですよ」
彼の言葉を聞きながら改めて町を見てみると、確かにたくさん人が訪れそうだと思った。
町に並び立つ建物にはある程度の統一感がある。屋根はいずれも落ち着いた色合いで、民家の壁はところどころはがれかけたものもあるが、それらは決して汚らしくない。むしろ味わいを見せ、町の雰囲気を引き立ててくれているようだった。
さらに先程ノエルが「バラの産地」と言ったとおりあちこちにある花屋の花壇にはさまざまな種類のバラが咲き誇っているのが見えた。「だから町の名前が『ローザ』なのか」と納得する。
「うーん、こんな町があることすら知らなかったよ」
自分が世間知らずだということを思い知らされた晴香は人知れずショックを受けていた。しかしその間にも、ノエルがこれからやるべきことを口にする。
「さて。とりあえず昼食をとってから、今日の宿を探すことにしましょう」
「やった、お腹ぺこぺこ!」
さきほどのショックを忘れたかのように、両手を上げて無邪気に喜んだ晴香は、そこであることに気がついてノエルを見る。
「あれ? そう言えば、お金大丈夫?」
少なくとも自分は自分の財布しか持ってきていない。お昼代程度ならそれで払えないこともないが、今後のことを考えるとどうしても不安が残った。だが、ノエルの態度は冷静そのものであった。
「大丈夫ですよ。国王陛下から旅費として頂きましたから」
それなら問題ないとは思ったが、手放しでは喜べなかった。なぜなら――
「……もしかして、その金額って」
どうしても先が言えずそこで固まった晴香に対し、少年は予想通りの答えを返してくれる。
「ええ。それはもう、馬鹿になりません」
盗難被害に遭わないよう、用心しなければならないと思った。
手ごろな飲食店を見つけるのに時間はかからなかった。そこでごく普通の昼食をとり、ひと息つく。ここのところ王城で豪華な食事をすることの多かった晴香は、そのどこか懐かしい味に一人でほっとしていた。
そうしているとき、突然、紅茶をたしなんでいたノエルが訊いてきた。
「そういえば、晴香さんの名前は星語ですよね。なんて書くんですか?」
星語とは、陽国およびその周辺で使われている文字のことを言う。かつて、「星の帝国」と呼ばれていた国から伝わったため、そのような名前と相なったらしい。
ピエトロで使われる文字とは違って一字一字に意味があり、文字自体に力が宿るとも言われている。
北原兄妹の名前は、父と母どちらがつけたか分からないがいずれも星語だった。
「あー。そう言えば話したことなかったっけ? 晴れの“晴”に香りの“香”だよ」
空中を指でなぞりながら晴香は答える。ところどころ陽国語を使ってしまったために伝わるか不安だったが、ノエルはそちらの方もある程度学んでいたのか、あっさりと理解してくれた。
「なるほど、『晴れの香り』ってことですか。なんだか明るくて良い名前ですね」
「そ、そう? ありがとう」
ノエルは緑の瞳をきらきらと輝かせながら、称賛してくる。
そんなふうに褒められると思っていなかった晴香は、はにかみながらお礼を言った。照れくさいと思いながらも嬉しかった。今日ほど自分の名前と、それをつけてくれた人に感謝した日はないだろう。
「よろしければこれから先、もっといろいろなことをお聞きしても良いですか」
ノエルがそんなふうに続けたので、晴香は驚いた。ついこの間同じようなことを考えたばかりだったからだ。もちろん、突っぱねる理由はない。
「もちろん! その代わり、ノエル君もいろいろ聞かせてね」
「……はい。僕なんかのお話でよければ、いくらでも」
彼にしては珍しく自虐的な言い方だったが、この時点では別に気にならなかった。ただただ嬉しさばかりが弾けていた。
こうして、穏やかな昼は過ぎていったのである。